国司家顕彰碑

ここは、具顕卿が小3以来敬愛する北畠具教卿および北畠氏について、つれづれなるままに書き綴る場所にございます。(欠番等が多数ございます。)

具教卿つれづれ  具教卿一族   北畠氏史蹟探訪   北畠24将

65.足利義昭の書状

ちょっと情報が遅いのですが、北畠中将具房にあてた足利義昭の御内書が発見されました。

毛利と協力して京都帰還に力を貸してほしい。というのがその内容。天正4年9月のものとされます。

天正4年といえば、三瀬の変があり具教卿暗殺、具房幽閉があった年です。当然何かしら関係があるものと思われます。

しかし、三介が家督継承後、なぜ、中途半端な「隠居」の具房を頼ったのか。もしかしたら具房はバカじゃない?いや、馬鹿正直に仲介に入ろうとした?大御所具教卿に相談してのこと?大御所の意向は?信長の反応は?

これは面白い資料が見つかりました。三瀬の変の実態を解明する大事な史料ですね。

 

4.北畠四天王を決めたい

最近、東北浪岡の北畠氏に四天王と称される武将がいたと読みました。浪岡の北畠氏にあって、伊勢の北畠氏にないとは・・・。

そこで勝手に決めてみたいと思います。

「四天王」といえば、猛者のイメージがあるなぁ。ということで鳥屋尾石見は除外します。そうすると大河内の合戦で名前の出てくる人になるだろうな。たくさん籠城してるけど合戦の時に名前が出てくる人たちといえば・・t・・・。

日置大膳・・・・この人は良く出てきますね。最近は小説にも出てくるようになりましたし。伊賀攻めにも加わってますし。

長野左京・・・・この人も小説に出てくるようになりましたね。この人も伊賀攻めに出てきます。

家木主水・・・・先の二人とは違って「槍主水」とあだ名される人であります。さきの二人と違い主家に殉じますが。

安保大蔵・・・・この人も主家に殉じた人です。

本田左京・・・・この人も活躍したのですがゲリラ戦ですからねぇ。

 

というわけで「北畠四天王」は日置大膳、長野左京、家木主水、安保大蔵の四名にしたいと思います。

63.北畠氏の廟所

 

北畠氏は戦国末期に滅亡したために、お墓というものがうやむやになってしまっています。政郷の建てた浄眼寺も戦火に焼かれたとされてますし、せいぜい親房と、具教の首塚胴塚くらいのものでしょう。

 

ところが北畠氏はえらかった。明治維新になって過去の忠義が認められて神社を建ててもらってます。

 

阿倍野神社・・・大阪にある北畠顕家中心の神社。

 

霊山神社・・・・福島にある北畠顕家・顕信中心の神社

 

北畠神社・・・・三重にある北畠顕能中心の神社。

 

すべて元別格官幣社、現在は別表神社。

 

 このほか、三瀬谷には北畠具教卿を祀った北畠神社もあります。

 

しかし、これだけしかないわけです。しかも、死去からそのまま残っているものはない。

 

 今後は北畠拡大の墓を調べていくというも必要かもしれません。

62.津田一安

 津田一安という武将がいました。別名「織田掃部」といいます。織田の一族なのでしょう。信長の伊勢攻略の第一線に立った武将です。北勢,中勢を支配下に入れた信長は彼を「南勢の奉行」とするのです。そして北畠氏との決戦。落としどころを探して信長は具教卿に使者を立てます。その時の使者が彼でした。

 信雄が北畠氏に入ってから彼は信雄の守役として伊勢統治に携わる事になります。

 天正4年11月25日、北畠氏が滅亡したその数日後、12月15日田丸城造作の現場において暗殺されます。滝川雄利、柘植三郎に讒言された結果です。

その讒言というのが「津田は権威を傘にきて民を酷使する。権力にまかせて国司の一族を庇護している」といったものでした。

となると彼は「北畠氏より」だったということになりますね。滝川も柘植も木造北畠から出された家臣です。「国司家寄りの織田一族」と「織田寄りの北畠一族」というねじれた権力闘争の結果が北畠氏の滅亡とともに悲劇を招いたといえます。

津田暗殺の数日前、霧山城は落城し北畠勢力は完全に絶たれ、彼の勢力は徹底的に弱らされていたのです。

61.一人ぼっちの不智斎忌

毎年、11月25日は三瀬谷の具教卿首塚に参拝というのが通例でした。今年、久々に三瀬参拝をしない「不智斎忌」を迎えてしまいました。「何百年も前に死んだ人の墓参りに行かないのがどうした」といわれる方も多々あるんです。

でもね、幾ら毎日お姿を見てお香を上げても、この日に三瀬に行かないとどうも調子がよろしくない。毎朝、決まった事をしないと気がすまない方っているでしょ?それと同じです。なかなかやめられないことって多いです。

節目なんでしょうね。僕の中では。4月1日とかと一緒なんだと思うんです。

まぁ今年は首塚の敷石を拝ませてもらいました。

60.三瀬の変は「暗殺」だったのか?(2)

では前回の続きを続けていこうと思います。前回最後に二つの仮説を立てました。「三瀬の変は早朝に起こらなかった」と「旧臣たちはご機嫌伺いに来たのではない」ということです。

最初のほうを考察していきましょう。それの解明こそが後者の仮設の解明にも役立つと思うのです。

三瀬御所に到着したのが日の出以降であったとしましょう。これならばご機嫌伺いという事も考えられるのです。しかし、で

あるとするならば、三瀬館に仕える家臣たちが館に詰めている時間に来た、ということになるのです。そうなると刺客が具教今日を襲った場合、具教卿は自ら刀を抜かなくても(抜けなかったとしても)家臣たちの詰め所まで退けば良い訳です。そうなれば資格は確実なところで二名、多くても5名ほどですから勝ち目が出てくる。それに加えて館は山腹に三段に築かれており具教卿の御殿は上段、家臣たちの詰め所は中段から下段にかけてですので逆に追い詰められるのは刺客のほうです。

 このような状況を考えていくと「日の出以降に暗殺を行うのは無理」という事になってきます。具教卿を暗殺するには家臣が極度に少ない状況を醸し出さないと難しいという事になります。

 そうすると、具教卿を襲ったのはやはり早朝になってきます。しかし「ご機嫌伺い」は早朝では成立しません。

そこで次の仮説を考えていこうと思います。続きは次回という事で。

59.三瀬の変は「暗殺」だったのか?(1)

今までも北畠具教暗殺事件、世に言う「三瀬の変」については取り上げてきました。恥ずかしながら小説にもしましたし、大谷主水氏のHP「ダイヤ主水すくえあ」で行われた三瀬の変検証にも参加しました。それを踏まえて、もう一度「三瀬の変」を再考しようと思います。

天正4年霜月25日の早朝、旧臣数名の来訪を快く受け入れた具教卿は不意を突かれて、さらに内応者も出たため、一喝した後討たれた、とされています。

「早朝」「ご機嫌伺い」という事をまず考えましょう。この早朝とは一体何を意味するのか。普通に考えると早朝というのは朝日が昇ってすぐ位から今なら8時くらいでしょうか。この早朝にご機嫌伺いに来るでしょうか。暗殺の謀議、及び密命は信雄の当時の居城である度会郡田丸城であるはずです。田丸城から三瀬の館までどのくらいの距離があったでしょうか。現在車で田丸から三瀬まで飛ばしても1時間弱から一時間はかかります。徒歩や馬ならなお時間がかかるというのは自明の理です。つまり深夜に出てこないと「早朝」という条件は成立しないのです。夜を徹してきた人物をご機嫌伺いとは受け取らないでしょう。大体朝の起き抜けにご機嫌伺いという事自体がおかしい。警戒するはずです。それを簡単に自室に入れている。ここでこういう仮定が成立します。「事件は早朝に起こらなかった」と「家臣たちはご機嫌をとりに来たのではない」ということです。

続きは次回。

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