7.具教のご先祖様

具教卿は木の股から生まれてきた訳でも岩の卵から生まれたわけでもありません、当たり前ですね()。当然、お父さんやお爺さんがいます。今回はそのお爺さん・材親(具方)についてです。彼の父は政郷、5代国司です。どうやらこの方は正室が嫌いだったらしくてね。坊主にくけりゃ、袈裟までにくいってなもんで、材親のことも嫌いだったらしい。家督を譲ったあとも「国司入道」なんて呼ばしてました。その代わり側室に生ませたのかな、師茂というのがいましてこれを異様に可愛がる。嫌われる長男と可愛がられる弟。権力は父と息子に分有される。ここまできたらもう皆さんのご想像どおり。いわゆる御家騒動が勃発します。世に「明応の錯乱」といわれる事件であります。明応4年、家臣同士の諍いに端を発し、6年には政郷は材親母子を軟禁。脱出した材親は澤氏らを引き込み、政郷・師茂一派は師茂の舅、木造政宗を引き込む。ついに両派は木造城において激突。開戦当初は材親軍が優勢、ところが木造軍はよりにもよって、国司家の宿敵・長野氏を引き込むのです。あせったのは政郷。「話しちゃうやんけ!」と言ったかどうか知りませんが、政郷は長野氏にはコテンパンにやられているので大嫌い。さっきまで師茂派だったのに、あっさり寝返り、和睦を斡旋。結果、師茂は切腹して政宗は剃髪。

木造城は澤氏が入ります。具教卿に造反したときは、織田戦に際して返還されたのかもしれません。政郷の死によってやっと、材親は権力を握るわけですが、やがて病にかかり息子晴具に譲ります。政郷の死から晴具の家督継承までの数年間が材親の時代であるといえましょう。可哀想ですね。なんだかなぁ。具教卿は「おじじ様のようにはならんぞ!」と思ったことでしょう。しかし歴史は繰り返される。織田を引き込んだのは実の弟・木造具政でありました。木造家、国司家と同格であるがゆえにその矜持を示すため、あえて逆らう悲劇の家でないかと思います。

13.具教卿の家庭の事情

具教卿が独身だと言う話は過分にして聞いた事がありません。前にも言いましたが木の股から生まれたわけではなく、ましてや木石じゃないですから奥さんがいなかったわけでもありません。そこで、今回は具教卿のご家族の皆さんをご紹介いたしましょう。

 まずは、奥さん。名前は知りません。て言うか、この時代、女の人の名前は伝わらないものですね。この方は六角氏と呼ばれます。六角義賢の娘とされております。しかし本当かねぇ。おそらく義賢のお父さんの定頼の娘さんなんでしょう。具親の奥さんは義賢の娘だそうですが。側室なんかもいたんでしょうが、そこまではわかりません。しかし嫡男以外は側室の子供とされております。

 それでは、卿の出来の大変よろしい息子さん達をご紹介しましょう。まずはご長男。名を具房と言います。誕生の際は「御高様」「上様」と呼ばれておりました。この方は「馬にも乗れない」と言うので有名です。「太り御所」と呼ばれていたようです。俗に言う総領の甚六ですな。何せ、本家の久我家が所領についてごねた時、当主の具房じゃなく、隠居の具教卿に文句をいったのです。信長と和睦した後も良いように操られ、家督を信雄に譲らされた挙句に一族皆殺し、なのに生き長らえた、という。つまり、生かしといても大丈夫、と判断されちゃったんですなぁ。本当はどうなのかはわかりませんがね。続きましては、次男・具藤。この人は怨敵長野氏を掌中に入れるために養子に入った人です。父親と違って人望もなく(若かったという事もあるんでしょうが)、才能も無かった。信長が攻めてくると流言に惑わされて実家に逃亡。父の死とともに田丸城で殺されます。

続いて三男・親成。この人は大河内攻防戦の時和睦反対派だった事以外はでてきません。四男・五男の亀松丸、徳松丸なんかわざわざ殺されに出てきたようなものです。

 しかし、有名なのはこれらのボンクラ息子たちと違い娘は有名ですね。織田信雄の妻として有名な千代御前。絶世の美女らしいですよ。しかし残念ながら三瀬の変の時自害した模様。その子供が大野宰相秀雄だとか何とか言われてますが。後、坂内氏に嫁いだ娘もいました。この子供が後に坂内亀寿と呼ばれる人となります。

 以上、具教卿の家庭の事情をお送りしました。エッ?本能寺はどうなった?エ〜、月並みな発言で真に恐れ入りますが、一切記憶にございません。もうちょっと待って・・・。

18.北畠昌教のこと

北畠氏は織田信長の謀略によって滅亡した、というのが通説です。天正8年(1580)の具房の死を以って嫡流断絶とされています。しかし!しかしですよ,皆さん。北畠嫡流は断絶していなかった、名門の血は守られたと言う主張も確かにあるのです。其の説によると,三瀬の変の際、具房の妻は身篭っており一児を産み落とします。それが昌教という人になり津軽に落ち延び、再興したと言うものであります。詳しくはうちのリンク集からいける「大日本帝国」のなかの「北畠氏学講座」にありますんでそちらをどうぞ。あり得ない話じゃないですよ。試しに北畠氏歴代当主が父何歳の時に生まれたか見てみましょう。

政郷宝徳元年生。父教具27歳。

材親応永2年生。父政郷20歳

晴具文亀3年生。父材親36歳

具教享禄元年生。父晴具26歳。

具房天文16年生。父具教20歳。

これから何がわかるかって訳じゃないんですけども、結構北畠氏って嫡男があがるのが遅い人が多いです。三瀬の変の際に具房30歳。材親に比べればまだまだ若い。記録じゃわからないけど妻がいたのは間違いないでしょうから、ご懐妊もあったかもしれない。もっとも記録には残ってないので私にはわかりません。昌教は「小説三瀬の変」でちょこっと出しましたけどね。名門がすっぱり滅亡するか、粘り腰で末裔を残しているか。歴史の影を覗く面白さっていうのはこういうところにあるのかも知れません。

28.北畠VS木造

  北畠一門の最高位はといえばご本所もしくは大御所です。宗家の当主もしくは前当主ということです。それに続くのは誰かということになれば4御所なんでしょうか。大河内、坂内、田丸、そして木造。この木造北畠氏というのがなかなか曲者でございまして。宗家と激突する事3度に及びます。

  一度目は言うまでもなく後南朝戦争のメーンであった満雅の乱。南帝即位の和約を破った室町幕府に対し旗を挙げた国司満雅に対し従兄弟に当たる俊康は幕府側として参戦。満雅の兄満泰と俊康は義満に可愛がられる事この上なくという待遇であり、おそらく宗家を破って本家格にと言う事もあったのかもしれません。2度目はいわゆるところの「明応の錯乱」です。本所材親に対し大御所政郷、弟師茂、中勢の長野氏そして木造政宗が起した叛乱。結果は長野氏の介入に恐怖した政郷が師茂、政宗を説得。結局木造城は宗家に接収されて3度目の激突まで返されておりません。

  3度目は言わずとしれた兄弟戦争。大御所具教対木造御所具政の実の兄弟が覇者信長に近づくか否かで対決。結局信長の介入を招き具教卿らは悲劇へ一直線。一方の具政も阿蘇の語の政争に巻きこまれ、息子は三法師の家老の後、福島正則に拾われるということになりました。もし、木造家が宗家に協力的だったら、国司家が木造家に対しもう少し強い立場だったならこのようなことにはならなかったのかもしれません。皆さんも兄弟仲には気をつけましょう。