2.剣と鉄砲

剣豪として名高いわれらのヒーロー具教卿。鉄砲を取り入れた戦術革命をしたわれらが怨敵信長。この両者、実は直接対決は一度なんであります。といっても一騎打ちしたわけじゃなくてね、そんなことになったら、具教卿が勝ちますよ。当然、勢力と勢力のぶつかり合いです。永禄12年、木造具政の謀反により両者は松阪の大河内城にて激突します。北畠軍はおそらく1万はきっていたはず。織田軍は5万とも7万とも。通常7倍の戦力差で戦えるわけがない。しかも大河内城が守るに堅いとは到底思えない。(自分で行ったとき「ここなら落とせる・・・」と思ったもの)しかし、しかし具教卿は守り抜いた。最終的には次男茶筅丸を養子に入れることで信長は和睦を図ります。通説では、信長に国司がわびを入れたと言うことになります。しかし、そうなんかね?私に言わせれば、こんなところにはりついとったら天下とれないからやむにやまれず打った愚策に見えるんですけどね。事実、その場しのぎにしかなってない。以後10年にわたる濃・勢戦争がそれを物語っていると思う。国司・具房を間に入れ、大御所として暗躍する具教。それをいいことに具房を使って事態収拾を図る信長。いつまでも終わらないいたちごっこに業を煮やした信長は旧臣を買収して具教卿を暗殺します。確かに和睦を受け入れたことで、北畠家は滅亡への道をひた走る。彼を待っていたのは裏切りによる暗殺でした。それでも具教は最後まで屈さなかった。そこにあったのは、名門としてではなく、剣豪としてでもなく「男」としての意地ではなかったか、と僕は思います。

3.北畠氏との出会い

本日はちょっと趣向を変えまして、私と、北畠氏との出会いを語ってみようかな?あれは、昭和58(1983)年、小学校3年生のときでありました。私の小学校は3年の遠足は田丸城址に行くんです、もっとも今は知りません。そこに行くまで北畠の「き」の字も知らなかった私でありました。それまではほかの友達と一緒にサッカーしたり、・・・ごっこしたりね、いわゆる子供でしたね。みんなでワイワイ言いながら歩いていった田丸城。そこで見てしまったのです、「畠」と言う字を。

「これなんやねん?、見た事ない。」当時からおよそ教師と言う職業に敬意を示さなかった私は先生にこう訊いたのです。それに対する先生の答えもまたおよそ可愛らしい小学生にする答え方ではありませんでした。「は・た・け」。こうですよ。「はたけって「火」に「田」やろ?」「これもはたけって言うのよ。」今度は美人の先生が教えてくれました。「ふーん、「はたけ」か。北畠、き・た・ば・た・け・・・か。」そういう他愛のない出会いだったのです。ところが、翌日図書館で借りたまんがの人物事典の後醍醐天皇のところだったかな、そこの欄外のところにまた見つけてしまったのです、「畠」と言う字を。なんかうれしくってね、「北畠って、全国的に有名なんか!」子供って単純なモンでね、それからは、三重県の歴史を読んでみたり、城の本を読んでみたりの毎日で。いろいろ調べだすと、戦国時代に具教っていう人がいた事、その人は剣豪だった事、織田信長に殺された事などなど・・・。もはや、歴史に興味を持ち出したときには北畠具教卿一色でしたね。クラスの壁新聞に三重県の歴史のところを作らせるとか、中学校時代は、「戦国武将について調べましょう」と言う宿題にただ一人北畠具教卿を系図つきで調べるとか。そういえば、具教に「卿」ってつけるようになったんは何時やったやろ?たぶん高校のときに「信長の野望・全国版」を友達とやった時かな?みんなが伊勢を選ばず、武田とか、上杉とか選ぶんで、愛県心丸出しで伊勢を選んで「卿」をつけだしたような覚えがあるぞ。

そんなこんなで卒論も北畠、HNも北畠、墓参りから、11月25日には神職免許フルに生かして具教卿の供養祭やってる。もう、北畠なしの生き方なんて考えられません。

6.「三瀬の変」について

天正4年11月25日、織田信長は鷹狩をしていたようです。終了後、安土城に帰ったわけですが、獲物はどうだったんでしょうね。鷹狩といえば軍事訓練であるとともに当時の一大レジャーですからアウトドア派の信長はさぞかし楽しかった事でしょう。しかし、信長の本当の収穫は伊勢で羽根のついた虎を撃ち落したことかもしれません。この日早暁、伊勢国三瀬館で伊勢国司北畠家の総帥・不智斎具教は逆臣の手にかかり暗殺されました。享年49歳。「勢州軍記」等を見ると逆臣たちに刀に細工され何もできずに討たれた、と書かれています。「寛永系図」では19人を殺し100人余りに傷を負わせその身に傷一つないのを見るや櫓にて自害した、とあります。どちらにしろ後世の代物で真実を伝えているかどうかは解りません。事実、紀伊に落延びたという説もあります。具教は果たして討たれたのか、紀州に逃げたのか。興味のそそられるところです。  

また、信雄や討手たちも嬉々として具教を討てたのか疑問です。ある小説に書かれていましたが、信雄は物心ついてからは伊勢にいるほうが長い。元服は岐阜でやったようですが伊勢でも盛大にやったはず。信雄にとっては具教父子と暮らしたほうが長い。いくら実父が「殺せ」と言っているからといって「ハイ、そうですか」と割り切れたのか。だから、討手に一門や重臣を選んだじゃないかと思うのです。油断させるため、と言う解釈も成り立ちます。しかし、己一人で罪を背負う事ができなかったからともいえると思う。旧臣達はお家安泰のために織田に下ったのであってまさか主殺しをせねばならないとは露ほども思っていなかったはず。お家のためとはいえ邪魔者は消せという信長の論理に果たしてついていけたのか。こういう思いから「小説三瀬の変」は生まれました。最後に私は「歴史は黙して語らない」と記しました。歴史家としては失格でしょう。その歴史に口を割らせるのが我々の仕事ですから。しかし無言を守る歴史に「本当はこうだったんじゃないか」と疑問を投げつける事も必要かと思います。歴史小説の本当の意味はこういうところにあるんじゃないでしょうか。

9.具教卿のお言葉

具教卿がおっしゃったお言葉や歌について今日は見ていきましょうか。

「我常に己此の如き逆心を為さん者と思いしなり!」

これは三瀬谷の変で討手に槍をつけられた卿が睨みつけていった言葉とされています。訳しましょう「私はお前を常に謀反する奴と思って居った!」っちゅうことです。もっとも「勢州軍記」という後世のものに書かれた言葉であるから本当かどうかなんてわかりません。でも、本当だったとしたら悲しい。己の家臣に裏切り者になる奴がいることを知ってたんですから。それがわかってて卿は討たれてしまいました。因みにこのときこう罵られた男は長野左京。彼は後に戸木合戦でまたもや味方を裏切ります。なんだかなぁ。

「怯弱の者共なる哉。たとひ鬼神なりとも具教一人何事をかし出さんや。疾く来たれ」

これはもう一つの三瀬谷の変でいってます。討手に気付いた具教卿がなぎなたを抱えて飛び出すと、300を越す討手たちは、途端に平伏してしまいます。そこで具教卿は大声で上の言葉を叫んでます。「臆病者ども、たとえ具教が鬼神であっても一人で何ができる。早くかかって来んか!」ということ。格好いいですねぇ、しびれちゃいますねぇ。この後具教卿は討ちも討ったり19人、手負いにさせたもの100人強。我が身を見れば傷一つ無し。そこで櫓に火を放ち自決したと言うものです。

これのほうがもっと事実から離れてるんでしょうが。でも剣豪としてはこっちのほうが似合ってるけどね。

「花におく霜も涙や染めぬらん むかしの春を忍ぶ思ひに」

「昔かたり今一たひと思う身のあすをもしらぬ世をいかにせん」

和歌です。上の歌が天正3年、下の歌が天正4年。織田の猛攻にもはやいかんともしがたくなったときに詠まれています。悲しい歌です。因みに上の歌は具教卿胴塚に書かれてますよ。

このほか、久我家文書、澤氏古文書にも具教卿の発給文書が出てきます。久我家・・のほうで具教卿自身の署名を見たときは嬉しかったなぁ。

10.実際の具教卿

具教卿は剣豪です。織田軍に対し一歩もひかず、むしろ勝ったと言っていい。

その策謀たるや信長を歯噛みさせたほどです。しかし!私は言いたい。こんなところだけ評価されてもいいのか!剣豪である前に、策謀家である前に彼は戦国大名じゃなかったか、一国の太守ではなかったか。と思います。なら、実際の具教卿はどうだったのか、前回出した久我家文書で見てみましょう。

ある日突然、本家に当たる久我家から使者が来ました。使者曰く「あんたに任せてある木造庄から年貢がこない!これからはうちが直接治めてもいい?」

さぁ、困ったのは具教卿だけで無く北畠一門です。具教卿は木造庄を上手い事治める代わりに一門の官位を貰ってたんですね。こりゃ、困った。卿は岩内入道に「何とかもうちょっと待って!」と言わせて誤魔化して、その間に代官に向かって「首にするぞ!!!」とお説教。その結果久我家も「マ、いっか。」という事になってめでたしめでたし。戦国大名って難しいんですよ。朝廷との関係、家臣の統率、外交関係エトセトラ。しかも卿はとっくに隠居してたんですからね。つまり息子のお守りまでやらなきゃいけない。大変ですよ。かてて加えて具教卿は絵を書いてみたり、和歌を詠んでみたり、剣の稽古したり・・・・。ホームページの更新に四苦八苦している我々よりも大変ですなぁ。

今日の教訓「戦国大名って戦ってたらいいってもんじゃないのよ。お家だって大変なんだから」

11.天正4年とは?

この年、もう皆さんは何があったかお解りですね。具教卿の非業の死があった年です。この年は何があったか、見ていきましょう。

1月、森田丹波守様の崇拝する明智光秀氏が波多野秀治に造反され無念の撤退をしました。

2月、将軍足利義昭氏が毛利氏を頼って備後に移りました。因みに信長さんはせっかちなので完成もしていない安土城に入りましたとさ。

3月、甕割さんが7か条の掟書を出したそうな。サルのほうは宮中で近江の女舞をしたそうな。

4月、織田軍が石山本願寺を攻撃しました。この後5年篭城戦です。

11月、こたつ城主様ごひいきの上杉謙信氏が畝源三郎様のところの七尾城を攻撃しました。

そして(ここが大事!)、尾張のうつけが、勢志伊紀そして大和宇陀郡に威を張る剣豪にして名門国司家の総帥北畠権中納言不智入道源具教卿を三瀬館にて重臣、一族を買収して卑怯千万なだまし討ちしたのです。息きれた・・・・

おわかりいただきましたか?この他お松様ごひいきの武田さんところが3年の喪が明けました。

あ、忘れてました。織田水軍が毛利水軍に惨敗しました。九鬼さんが負けたのは引っかかりますが・・・。ジャガイモが日本にきたのがこの年だそうです。宇佐八幡宮が焼けました。南蛮寺ではじめてのミサがあったそうです。寺は戦争、神社は火事、教会はお祭り・・・。この年誕生された方は吉原遊郭を作った庄司甚右衛門さん、島津家久さん、堀秀治さん、俵屋宗達さん。亡くなった方は畠山高政さん、北畠具教様です。信長さんが動き始めましたね。その第一歩が北畠家撲滅運動だったのです。嫌な奴ですねぇ。何もしてないのに・・・・ンなことないな。

という事で、ネタがまとまってないので年譜で誤魔化した今回でした。ごめんなさい。次はちゃんとするから許して。

 

14.具教卿の剣

最近、このような話を読みました。「具教卿はト伝流の使い手ではなかった!」というものです。これ見たときは余りの事に呆然としましたね。じゃぁ、剣術の達人じゃなかったのか?と言うとそうじゃない、ということです。「愛州陰流の達人だった」っていうんです。その根拠がね、上泉信綱が訪ねてきたという史実が有るかららしいんです。ト伝が来たというような史料がないという理由です。冗談がないですよ。つまり、信綱が卿を訪ねてきたのは陰流の関連からだというのです。冗談じゃない。来た、という史料がないから、来てないと言うのは言いすぎでしょう。少なくともト伝側は「一の太刀」は伝授したって言ってるんですから。

  それはともかく、昔、多気にあった真善院という寺に具教卿の長刀があったらしいですね。江戸時代に焼けっちゃったらしいですけど。もったいないですね。一度見てみたかったな。

15.「南無寂光院心祖不智大居士」

こんにちは。宗教法人不智斎教教祖の北畠具顕です。当不智斎教の教えはいたって簡単でございます。「偉大な政治力、随一といわれた剣の腕、そして天魔・信長に屈さなかった偉大な北畠具教卿を称え敬い崇拝する」というものであります。

教典は「伊勢国司記略」、「北畠氏の研究」、「勢州軍記」、「久我家文書」であります。内容は読みなさい。読めばわかります。

祭典は毎年11月25日、具教卿のご命日であります。

そしてお題目は「南無寂光院殿心祖不智大居士」。これは何でもかなう魔法の呪文です。これを唱えたら連敗中の阪神だって勝つんですから。さぁ、あなたも入りましょう。

17.権謀術数北畠

北畠氏と言えば、文武両道でございますが、あまり、詐術と言おうか計略と言うものには縁がない。結構バカ正直です。ましてや、具教卿のように剣の道を極めちゃうと卑怯な事はまず出来ません。相手と対峙して初めて剣の道ですから、後ろから切りかかるとかは出来ない。しかし、相手が織田信長とあってはそんな事も言ってられない訳です。あの男にフリーハンドを与えておけばあっさりまろやかに伊勢を乗っ取ってしまいますから。その一番最たるものは蘇原城攻防戦と長島一向一揆のときでありましょう。

長島一揆の際に信長は伊勢大湊に対し軍船を要求しますが、大湊サイドは再三にわたって拒否。これは北畠氏、つまり具教卿の暗躍と言うのが通説です。これに対し信長は具房を桑名に呼び寄せてこの戦に国司家が織田方に参戦していると言う事をアピール。

蘇原城攻めの際、具教卿は奉行人教兼を通じて家城主水に対し蘇原に入って加勢せよ、と命じています。こんなことしたら信長に格好のチャンスを与えるようなものですが、ところがどっこい具教卿はちゃんと言い訳を考えています。「だって私は隠居。国司家が逆らっている訳じゃないのよ。」というものです。これに対して信長はなんと言ったかというと、「あ、そう。わかりました。じゃあ、御本所に謀反を鎮めてもらいましょう。」この結果、具房が自ら軍を発して蘇原を攻めました。

この2件だけではっきりと断言できるわけではありませんが、具教卿は「御本所は一枚も噛んでない」と主張する事で自らの策謀を国司家とは無関係にしようとする。対する信長は「ならばご本所にやっていただこう」と言うスタンス。こうやって見ると権謀に関しては具教卿と信長では信長の方が上かな?という気がします。

それにしても具房の影の薄いこと。いかに親父と天下人に道具にされたかがよくわかりますね。

 

19.具教教のご尊顔

具教卿のご尊顔、つまり肖像画というものを見たことがありません。具教卿の曽祖父・政郷卿のものは見たことがあります。阿坂浄眼寺に伝わる「無外逸方自画自賛像」であります。しかし具教卿像が残っているという話は聞いたことがございません。三瀬の北畠神社には後世作られた具教卿の像があるそうですが見られないでしょう。私が見た事があるのはゲーム「信長の野望」でザコ大名の代表にされている北畠氏の当主の顔です。それもゲームが替わるごとに変わってますんで何を基準に作っているのかわからない。茶筅髷だったり烏帽子かぶっていたり、髭があったりなかったり。とある武将データに載ってた具教卿なんぞ、法体姿の丸々太った人になってました。何見て描いたんじゃい!と思わず突っ込んでしまいましたよ。「神都名勝誌」の三瀬の変も法体姿だったなぁ。べつにどんな顔でもいいんですけど、どの顔も剣豪としての顔じゃないように思えるんです。強いて言えば「群雄伝」の顔のイメージが強いかな。

それでも最近九鬼氏について書いた「鬼宿の海」という本に載っていた「北畠大納言具教卿之像」を拡大コピーし部屋の壁に貼り朝晩お線香を手向けております。だれか、これの出典しらんかなぁ?あるなら、なんとしても見たいんだけどなぁ。

21.冥界インタビュー

具教卿(以下、卿)「なんじゃ、具顕。盆も終ったのに余を呼び出しおって。」

具顕  (以下、具)「何を仰いますやら。この間は呼ばれもしないのにこたつ城主様のところに行ったじゃないですか。」

卿「そ、そのようなことはどうでもよいではないか。何の用じゃ。」

具「いや、ちょっとお話を伺いたい事がありまして。実はね、最近思うんですけど、なんで、木造城を土壇場で具政さんに返したんですか?あれ、直前まで澤氏に在城させてたじゃないですか?」

卿「あれはもともと木造の城ではないか。澤の武力は織田との決戦に必要であったし、具政には期待しておった。叛旗を翻すなど予想外であったは。」

具「じゃぁ、具政さんのことはどう思っておられるんですか?恨んでます?」

卿「別に。確かに謀反の知らせを聞いた時は腹も立ったがの。時勢を見て勝ち馬に乗るは、乱世の常じゃ。」

具「という事は、負け覚悟だったの?」

卿「お前な、1万対5万で勝機ありと思うか?伊勢に篭っておっても余の家は文武両道の家系ぞ。もっとも負けるとは思わんかったから。石州が結構上手くやってくれたし局地戦では地の利を生かして負けることはない。要は伊勢から兵をひかせればよかったのだから。」

具「ほう。では養子に入った茶筅丸はどうですか?」

卿「あれか。あれは厳しく育てすぎたのう。血を分けた息子で懲りておったから。伊勢の人間にはなっておったが、可哀想にうつけと余の板ばさみになってしもうた。」

具「実の息子の3人はどうですか?」

卿「あれはダメ。本所はやる気が全くなし。具藤は愚かしくも長野をつぶして帰ってきおった。親成は大河内の時に決戦論をぶち上げておったがその後はなかずとばずじゃ。」

具「ア、もう朝だ。長い間ありがとうございました。」

卿「ウム。今度あるときは事前にアポを取ってくれ。急ではつらい。」

具「今度は信長さんと来てね。いろいろ訊きたいし。」

卿「あ奴だけ呼べばよいではないか!」

具「だって不智斎顕彰碑だもの。」

卿「ア、そうじゃのう。」

22.伊勢の夏、国司の夏

久しぶりにここのコーナーに帰ってきました。前回は恐れ多くも具教卿がわざわざ来てくれました。ありがたいことです。

さて、9月です。9月と言えば秋の長雨ですね。今日、こうしている間も外では大雨です。旧暦と違いますが9月は永禄12年に大河内城決戦が行なわれた月です。おそらく三重県史上こんなに全国民に誇れる事件はないかと思います。5万の大軍をたかだか1万弱の兵でしかも、守るに堅いとはとても思えない小城を2ヶ月にわたって守りきったんですから。しかも相手は飛ぶ鳥落とす勢いの織田信長ですからね。ついでに言うと後の豊太閤が戦場で唯一喫した矢傷が前哨戦である阿坂城攻防戦であった事はあまりにも有名な話です。後、西美濃3人衆の氏家ト全がこっぴどい目にあったり、滝川一益やら池田恒興やら丹羽長秀やらが何してもうまく行かなかったのがここです。ここが大事なんですけどもね、織田家歴戦の猛将が何してもいかんかったのがこの大河内攻防戦なのです。ただこれが県民にさえ注目されないのが非常に残念。全国の北畠フリークよ、頑張ろう。

23.「狂気の父を敬え」

織田信長や武田信玄、豊臣秀吉なんかを題材にした小説はこの世の中にごまんとありますが戦国大名北畠具教が題材の小説なんかおそらく無いに等しいです。出てくることもありますが、大抵の場合剣豪小説に出てくるんですね。

ただ、今回のタイトルになっている「狂気の父を敬え」と言う小説はちょっとそれらのものとは装いが違います。主役は北畠信雄、織田信長の次男にして北畠氏の養子。具教卿はこの中で「零・北畠信雄」の中で出てきます。三瀬の隠居所の茶室で信雄に茶を勧めながら「一子相伝の家宝『岐山』を譲る」と言い出します。これを譲る時は己が死ぬとき、すでに信長から暗殺指令が出たことを知った以上、信雄にいらぬ詮議がかからぬよう自決はしないから殺せ、と言うのです。そして「一度でいいから我が父と呼んでくれ」と頼みます。結局信雄は呼ばないんですけども具教卿は「無念」と言う一言を残して静かに死に赴くと言う内容なんですけどね。

その後は信雄が信長を見捨て、伊賀で大敗を喫し、明智光秀を父に選んで裏切られ、信頼できるのは燭台だけという悲惨な状況ですが。最後に「真の父とは北畠の・・・」と言いかけて絶句するシーンが印象的ですね。

戦国時代の伊勢の国が舞台なんてめったに無い事なので皆さん一読くださいませ。

 

24.10月27日

  さて問題です。この日は一体何の日でしょう。答えはウチの妹の誕生日・・・・・、いや、それもありなんですけどね。実は勢濃戦争の和睦の日なんですよね。この日を境に伊勢では城郭の破却、茶筅丸の養子という屈辱的な織田の間接統治が始まったのです。我々はこれを座してみていていいものか。まさにこの日は「国恥記念日」ですね。この憎い日は一生涯忘れてはいけません。尤も、城郭破壊については戦場の臨時城郭だけだった見たいでその後も国司家は勢州各地に盤居してますし、茶筅丸に至っては織田の駐屯軍はついているものの人質同然。具教卿は上洛要請の文書で徳川家康の次、姉小路家より上位で名前を書かれて居ります。信長にとっては屈辱でしょうね。しかも、義昭との仲が険悪になるというおまけつき。

  因みにウチの妹は1976年生まれ。三瀬の変のちょうど400年後という事でちょっと羨ましい私でした。

 

25.不智斎忌

 11月25日、今年は土曜日でしょうか。仮に土曜日でなくても休みになるはずです。私は休みにします。だって僕の手帳にははっきり書いてあるのです「不智斎忌」って。そうです。天正4年11月25日、現在の大台町で織田信長の謀略にはまり名門北畠氏は全身を血まみれにして滅亡いたします。この事実が否定できるのはゲームか仮想小説の中だけ。否、最近では仮想小説の中ですら北畠氏は滅亡いたします。足利義昭の謀略の失敗の一過程として。

  私にとっては親族の忌日よりも喪に服す日、それが不智斎忌です。この日私は朝昼晩と卿の尊影に線香と水を供えます。そして「勢州軍記」の三瀬の変の条を読みます。そして、線香と花を持って胴塚に赴きます。そして胴塚に花を供え線香をあげ、北畠神社に参詣するのです。そうして線香くさい服を一日中着続け携帯電話にも応答せず心静かに過ごします。それが郷土を守った、守ろうとした英雄に対する最大級の礼だと僕は思います。あの歴史に名を残す巨人、信長の中央集権に真っ向から反対し陳腐な一国平和主義と笑われようとも伊勢一国は守ろうとした具教卿に対する最大の賛辞なのだと僕は思います。たとえ謀略に倒れようとも僕にとってはまさに神様です。心から哀悼の意を示したい、そう思います。もうすぐ11月25日です。あの惨劇から424年目・・・・。

26.大河内は敗北か?

世の歴史の本というものはいわゆる「勝者の論理」に従って史実を描写いたします。曰く「織田信長は伊勢出兵において国司家の拠点大河内城を囲み国司が詫び言を言って降伏した」と。これ、信長公記をそのまま写したものです。別段、私はかの書物が史料的にバッタモンだとか、とるにたらんとか言うつもりはありません。私は北畠は織田に敗れた、ということは史実として認めております。これは他の方、例えば大谷主水さんにしろ北畠研究会さんにしろ同じだと思います。しかし、私が言いたいのは北畠敗北は三瀬の変による具教暗殺、具房幽閉によってであり大河内戦はむしろ北畠有利のまま終わったんだよ、という事なんです。試しに「勢州軍記」にしたがって振り返ってみましょうか。

永禄12年正月9   信長発向準備により勢州騒乱開始。日置大膳、細頸城を自焼し、大河内に入城。

5  木造城反逆。具教人質を虐殺。織田、神戸、長野、滝川木造城救援。長期戦に。

8  信長出兵。

8.23藤方御所、奥山常陸介長野・関に抑えられ出兵できず。信長木造入城。

8.26八田城攻め。大多和兵部少輔、朝霧のため会戦せず。

8.27阿坂城攻略開始。これより先岩内御所、大河内の下知に従うと織田方の使者に通告。

秀吉を負傷させるも内応者が出て落城。本田勢、ゲリラ戦にて織田方を破る。

8.28大河内合戦開始。池田信輝、日置・家城に敗れる。兵糧攻め開始。

9月上旬 本田勢ゲリラ戦にて氏家ト全を破る。

同下旬   龍蔵庵口の戦い。池田、丹羽、稲葉軍、搦め手より攻めあがるも撃退される。

10月上旬魔虫谷の戦い。滝川軍を撃退。

10月中旬和睦交渉開始。

1027勢・濃和睦成立。大河内開城。

ご覧のとおり、織田家は一度、阿坂を落とした以外、一度として戦果を上げておりません。何をもって大河内を北畠敗北とするのか私にはよくわかりません。

29.いつも心に北畠

  明けましておめでとうございます。北畠具顕です。2001年も北畠氏一色でスタートいたしましょう。本年は何があるかといいますと、

    親房公叙爵701周年。

    顕泰卿叙爵629年

    教具卿叙爵550周年

    教具卿没後530年

    政郷卿剃髪520年

    具教卿参議任官449年

    具藤長野氏に入嗣439年

    信雄雪姫祝言430年

ざっとこんな具合でしょうか。何はともかく「いつも心に北畠」これを合言葉に進んでいきたいと思います。

30.北畠氏サイトへの道

お元気ですか?具顕ですよ。北畠氏の顕彰をするんだ!!!と思って作ったこのHP「北畠具顕御所」でございますが、はっきり言って去年は少ししかできませんでした。なぜならば、連歌を始めるわ、モー娘。にはまりまくるわで。ろくなものではありませんでした。

そこで!!!!!今年はやります!!!どういうことをするかと言うと。1年を4期に分けていろいろやっていこうかと思います。まず、最初1〜3月は北畠歴代国司の列伝を作ろうかと思います。その後はいろいろと考えてますんで。頑張ります。

31.具教卿生存説

先ごろ、わが評定所において河内判官さんから北畠具教生存説の真偽についてどう思うか?と言う書き込みがありました。一応そこでもお答えしましたが答えは「否」だと思います。

この具教卿生存説と言うのは天正4年の三瀬の変の事前に暗殺計画が漏れ卿は紀州に逃走、出家しそのまま地元に居着いた、と言うものです。

私が疑問に思うのは、「紀州に逃げたのはなぜか?」と言う事なんです。具教卿暗殺の際は旧臣数名に小姓の裏切りもありむざむざ討たれたと言います。少数の刺客がくる事が解っていたならばむしろ、兵を控えさせ返り討ちにするほうが自然じゃないでしょうか。その後、残存勢力で挙兵、乾坤一擲の大勝負を挑むと思うのですよ。よしんば逃げるにせよ、紀州じゃなく多芸に逃げると思うのです。仮に多勢に囲まれるとしても地元にいる豪族を集める余裕があったはず。

大体、もし逃げて生き延びているのなら何故本能寺の際、伊勢に帰って具親とともに兵を挙げないのか?具教生存の情報があれば山崎合戦で明智に付いた旧北畠家臣は間違いなく伊勢奪還に動いた事でしょう。伊勢と安土の間で右往左往している三介を尻目に大河内なり阿坂に兵を挙げる、てなことが可能なんじゃないでしょうか?

というわけで、私はこの説を支持しません。因みに卒論の際に話を聞いた郷土史家も「これはない」と言い切りました。地元伝承すら研究対象にする史家がそれでもとらないのですから多分ないでしょう。

32.具教卿をやるならば・・・

最近、某サイトで「具教卿をドラマでやるのならば誰だろう?」という話になりました。これ難しいですよ。剣豪物じゃなくって歴史ものでって事ですから。夏八木勲と言う話になりました。いい線言ってますねぇ。剣豪物ならもっといい役の方いるんでしょう。でも歴史物と言う事になると一国の太守、馬鹿息子に囲まれた苦悩、剣豪としての矜持、厳しくも優しい父。これを演じなきゃいけません。

さぁ、皆さん準備しましょう。大河ドラマ「信雄」()

34.嵐世記を買ったけれど・・・

なんじゃ〜!!!!!!あの具教卿の能力は!腹立つわー!!!なんであんなに低いんじゃ−!!!納得いかーん!!ホンマに腹立つなぁ。仕えんわ!!!そうじゃないやろう!!別に完璧な能力にしろって言ってるわけじゃないですよ。デモね、余りにも低くないですか?信長に策略で負けたのがそんなに能力を低くする理由かい?言いますけどね、信長に負けたわけじゃないんですよ。「剣豪」にはなってましたけど。

六角氏が嫁いで来てたのは史実に沿っていてよろしい。伝記にも書いてありましたけど「北畠氏の奥を取り仕切った。」人ですからね。実家と仲は悪いけど。あの具教卿と六角氏の間に生まれた具房が何であんなに出来が悪いのか・・・。史実だからしょうがないか。

後は、具親やっぱり出てこんなぁ。仕様がないから作りました。

とにかく、気にくわ−ん!!!!これ以上書くとむかついてパソコン壊しかねんので終り。

35.国司が町にやってきた。

来やしませんよ、そんなもの()。来たとしても今の私のすんでいる街じゃありません。昔々のその昔、まだ伊勢市が宇治と山田にわかれて大変仲が悪かった頃のお話です。山田が宇治を兵糧攻めにしたことがあります。そりゃそうですね。伊勢参りには外宮から通りますから関所作られたら終わりです。怒った宇治は国司に頼んで何とかしてもらおうとしました。国司は仲裁しましたが山田は言う事聞きません。挙句の果てに兵を集めました。怒った国司は兵を挙げて山田に攻め込みました。この結果何があったかというと外宮さんを焼き払う結果になってしまったんです。一大事ですよ。しかも山田側の棟梁はそこで自決したんですから。

我が家の近辺はそのときの戦で焼き払われたという記述があるらしいのですが。どちらかというと国司の陣地に近いのでそんな事はないんじゃないかと思いますが。

うちの町は、田丸城の支配下にあったようです。その一部は坂内、岩内の両北畠氏が奉行していましたが。田丸御所というのがいつからあったのかがまた問題でして。現在は政郷の子どもからだ、という説、政郷本人だという説、晴具からだという説。色々あります。晴具説は田丸氏の末裔関係から出ていますが。よくわかっていません。

まぁ、地元が謎だらけというのも郷土史家もしくは歴史家の端くれとしては楽しくなるばかりです。

36.北畠具教卿直筆のお名前

具教卿の直筆が確認されております、永禄10年10月1日付久我通俊宛書状の署名の部分を今回は載せまする。この時卿は御年40歳、6年に大御所天祐入道(父・晴具)が卒去しそれに伴って権中納言を辞職、家督を嫡子具房に譲っています。このころに木造庄年貢未進問題が起こり、一族の長老岩内鎮慶入道とともに事態の収拾に当たっています。あて先の久我通俊は従二位権大納言でありそれに敬意を示す意味で自書したそうです。

國學院大学所蔵の「久我家文書」所収の文書です。文章の内容は「お年始に扇子を一本賜りましてありがとう御座います。さて木造庄の年貢未進の件について久我家自ら治められるととの申し出は当然の事です。当方の代官にはしっかり取り計らえと申し付けました。今後いささかも間違い無しと存じます。敬具」

と言う意味であります。

38.北畠氏に捧ぐ

今年は2001年です。伊勢国司北畠氏が伊勢に入って以来700年近くなろうとしています。そして滅亡から500年近くなろうとしています。小学生の時田丸城にいって以来伊勢国司にはまって参りました。南朝の柱石・准后親房、後南朝の断頭将軍・満雅、そして剣豪国司具教。伊勢を支配し,守りそして時代の波にさからえず流されてしまった北畠氏。私が彼らに注ぐ愛は郷土愛から来ているものなのでしょうか?北畠氏にほれ込んでいるからでしょうか?

北畠氏を見れば見るほど一般の戦国大名とかわりません。政郷は嫡子を疎んじ愛児を後継にしようとして材親と争いました。材親は前半を父親に実権を握られ,後半は子どもに家督を譲り余りよい生き方ができませんでした。晴具は一向一揆を鎮圧するのに被差別民を陣頭に立てました。そして具教は子どもを他家の養子に入れて勢力をのばすという謀略を用いました。

しかしね、それがどうしたとも思うのです。彼らは時代とともに行き,時代の思うままに行動した。北畠氏は非常に史料が少ない。その少ない史料でそのひととなりをつかまなきゃいけません。もしかするとそこに魅力を感じているのかもしれません。

39.北畠氏法度

私は卒論でしたかったのにもかかわらず、時間と史料が無くできなかったことがあります。それは「北畠氏法度」の発掘と考察です。といっても史料といえば「澤氏古文書」(松阪市史所収)しかありません。ということは澤氏にのみ通用するものだったのかもしれません。

しかし、澤氏にのみ出したなんてことは考えられません。必ず領内に法度を出していたはず。私はいま澤氏古文書やその他の史料を見比べて北畠氏法度を抽出しようとしています。そしていずれこのHPで紹介したいと思います。

北畠氏の事跡は皆様ご存知のとおり。しかし、その領国経営はいまだに闇の中。晴具、具教この2代で必ず法度は作られていたと信じています。なかなか難しい作業ではあります。しかし、北畠氏の歴史に新たな光を当てられたら、と思うのです。

40.北畠氏と六角氏

かたや村上源氏、かたや宇多源氏。いずれも名門。南勢と江南、この両雄が出会うのは勿論北勢。北畠氏当主・具教は次男具藤を長野工藤氏に養子に入れる。六角氏当主・義賢は重臣の子を千種氏に入れ、関、神戸両氏に蒲生の娘を嫁入りさせて勢力の伸張を図る。実は六角氏を攻めたらしいんですよ、具教卿。しかし、撃退されたらしいです。その結果、義賢の妹が嫁にきたらしいんですよ。

姻戚になったものの、北畠氏の北勢進出を止める事はできず、関、神戸が標的になったとき、現れたのが織田信長。六角氏は北勢から駆逐され、北畠氏は南勢に逼塞する事になった。

両家とも名門ゆえに新興勢力に敗れたのかな。

44.足利義輝と北畠具教

塚原ト伝が秘剣の奥義を大安売りした結果、この二人はともにト伝の有名な弟子ということになっております。どっちが強いネン!というのは野暮な話。どっちも強いんです。もっとも、二人ともその最後しか強かったことは証明されておりません。永禄8年、三好三人衆に御所を囲まれた義輝は、襲い掛かる兵を斬って斬って斬りまくって、足をすくわれ倒れたところをふすまの下敷きにされ槍衾に合ってその命を落とします。天正4年、逆臣に襲われた具教は剣を封じられたものの、薙刀で斬りまくって己に傷一つ無いのを見て自害したといいます。

上泉の弟子が後世に名を残したのに比べ、ト伝の弟子は非業の最期を遂げたものが大変多い。柳生が江戸幕府の剣指南役になったのに比べ、足利、北畠ともに滅亡しています。義輝や具教は、柳生に比べ劣っていたのか。そんなこと全然ないんですよね。二人には剣を磨くことだけに専念できなかっただけなんです。柳生は所詮大和の小土豪、それに比べて、足利家は将軍、北畠家は国司。背負ってるものが違うんです。

ト伝が伝えたのはどう剣を使うかではなく、剣士としての心構えだったんでしょうね。その最後を迎えるとき、義輝や具教に討たれる無念さがあったんでしょうか?あったでしょうが、それよりもむしろ一剣士として剣を振るえるという高揚感、振るえたという満足感があったと思うんですよ。後世の愚人のかってな解釈ですけどね。

45.北畠具教卿を悼む

北畠具教卿が非業の最期を遂げてから425年。いまだにその名誉は回復されていません。どの本を見ても、織田信長に降伏開城したと書かれ、ゲームではどんどん評価は落とされる。

史料の残っていないと言うことのもどかしさ。せめて講和の際の誓詞でも残っていれば白黒つくのですが。悲しい話です。後世のわれわれは史料としては落ちる軍記物、各地に残る伝承、敵方に一方的に書かれた資料によってその正しい姿を導き出さなければなりません。

一歴史家ではなく、いち信望者として、今回、当御所では北畠家臣帖、および三瀬の変殉難者一覧を作製することにしました。せめてもの具教卿の供養になればと思います。

47.具教卿をたたえる歌

具教卿の生涯を語る歌を作りました。

1.剣を取ったら無双の強さ ト伝秘刀の一ノ太刀  2. 実の弟弓を引く  涙ながらに人質を

  乱世の心忘れずに    技だけでなく心も磨く    磔刑に処し    心ならずも戦の支度

  ああ、不世出の国司   ああ、北畠具教卿      ああ、不条理な世よ ああ、北畠具教卿   

3.織田の大軍勢州に入り 大河内にて迎え撃つ   4.戦終わり織田は行く 名家を愚息に乗っ取らせ

  吉野以来の家名にかけて 一歩も引かず迎え撃つ   国司の無念いかほどや 甲斐の武田と手を結ぶ

  ああ、名門の意地   ああ、北畠具教卿      ああ、最後の華を   ああ、北畠具教卿

5.時は霜月二五日    寒風吹き込む三瀬谷で   6.強さを誇る剣聖も  その腕見せるひまもなく

 御恩を忘れた逆臣に  刀で命を狙われる       幼子もろとも冥土へと その屍の寂しさよ

 ああ、無念かな    ああ、北畠具教卿       ああ、無残やな    ああ、北畠具教卿

48.木造家について考える

北畠一の名門といえば、やはり木造家を置いてほかに考えられません。室町幕府にとっては国司家よりも重要だったかもしれません。

家祖は北畠顕俊。初代国司顕能の次男です。この血筋が宗家と争う格好の材料となってしまうわけです。2代目の俊康は北畠顕泰の嫡男・満泰とともに足利義満を烏帽子親にして元服し、このとき将軍家直参となって「油小路殿」と呼ばれます。この俊康から国司宗家と反目する事になるのです。南北一和が崩れ、満雅が南帝を担いで挙兵したときに宗家につかず、満雅に木造城を奪われています。その後も木造庄を巡って国司家と対立は続きます。

次代が教親。この人が手引きして応仁の乱での主役のひとりである今出川義視を伊勢に亡命させたのはつとに有名です。国司教具もそれを受け入れていますから、両家は修復したのでしょう。 

その修復も政宗の代になって壊れます。いわゆる明応の錯乱、兄弟合戦において北畠逸方と木造師茂方について破れた政宗は木造城を明渡し、婿の師茂は切腹、逸方は完全なる引退、そして雌伏の時を過ごさなければならなかったのです。その子の俊茂は実子の具康を殺害して、宗家の具政を養子にとっています。そしてその具政が滅亡の一因となった勢州動乱を引き起こしたのはご存知のとおり。

具政の子は長政。羽柴・北畠が戦う小牧長久手の合戦では北畠側に付、世に言う「戸木合戦」を起こしています。蒲生氏郷・長野信包らを相手に一歩も譲らず、講和の後に尾張に移ります。その後三法師の家老になり、関が原では徳川につこうとしましたが失敗。織田本宗家没落後は福島正則の家臣として仕えました。

以上が木造北畠氏の末路でございます。

49.マイナー武将の悲哀

現在、戦国伊勢を知る資料としての「勢州軍記」の読み下し、研究のあまり進んでいるとは思えない北畠氏の家臣団の研究「北畠家臣帖」、そして純粋に北畠氏滅亡に殉じた武士たちを顕彰しようという「三瀬の変殉難者一覧」の作成を今やっているところですが非常に難しいですね。特に家臣帖。某ゲ−ム会社の作る人気シリーズを見てもわかるとおり北畠は織田や武田などと違って非常に家臣が少ない。これは何故かといえば、中世に滅んでしまい、家が存続しないために家臣に対する記録というものがほとんどない為です。そのために私が多少は世に知らしめようと一生懸命頑張ってはいるのですが、果たして正しいものができるのかどうか・・・・・。そもそも北畠氏の系図というのが現在のもので正しいのかも疑わしいところはあるのです。

しかし、誰かがやらなければ伝わっていかないというのもまた事実。今後も折を見て研究を続けていく予定です。

 

50.北畠氏の軍配者について

今回は、北畠氏の軍配者、つまり軍師について考えてみようと思います。元来北畠氏の軍師は家老鳥屋尾石見守であるといわれてきました。軍記物などに出てくる石見守の活躍は

@    兵糧を蓄え大御所から一兵卒に至まで同じ物を食べさせて消耗を少なくした。

A    合戦後、武田信玄の元に赴き攻守同盟を締結した。

B    長島一揆討伐において拒む大湊(現・伊勢市)に対し北畠として出船を促した

C    織田信長の安土城に年始の使者に立った

の4つです。これを見て言える事は、石見守は兵站・外交についてはその活躍は認められますがいわゆる「軍師」としての行動は確認できないのです。むしろ、これは北畠氏の家宰・老臣としての行動ではないかと思います。

それでは、軍師は居たのでしょうか?ここで軍師・軍配者についてもう一度考えてみましょう。そもそもそれこそ鎌倉南北朝の昔から戦に出るのに大事な日取り、吉凶、お祓い・占い、出陣帰陣の作法、首実検、軍事参謀のような事をなすのが軍配者といわれる人々です。こういうものを担当するのは陰陽師、修験者達のような宗教関係者でありました。中世的なものを色濃く残す国司大名の北畠氏の事です、こういう意味での軍師を雇用していた事は充分考えられます。そういう宗教的な人々のなかで私は伊勢神宮の御師たちが北畠氏の軍師として存在したのではないかと考えるわけです。北畠具教卿の父にあたる晴具は天文3年、伊勢御師の加茂杉太夫を北畠氏お抱えの暦師に任命しています。伊勢における暦の頒布を独占させたわけです。これより先に伊勢国に大和の一向一揆が乱入してくると言う事件がありますが、これに際し、晴具は穢多非人(歴史用語としての)を前面に押し立て一揆がひるんだところを打ち破ると言う策を実行しています。これが私には北畠氏、またはその老臣がこのような策を思いつくとは思えないのです。むしろ御師のような人々が吉凶を占いその結果、こうすればよいと言う結果を出したのではないでしょうか。加茂杉太夫に関しては具教卿からも暦関係者は杉太夫に届け出るように、それを怠ったものは太夫の処分に任すと言うことを決めております。それ以外の御師では福島太夫があげられます。これは大河内合戦後、元亀から天正にかけて国司家に滅ぼされます。被官に無礼ありと言うのがその理由ですが、もしかすると大河内合戦、それに続く反信長包囲網の中での失敗の責任を取らされたものかも知れません。

この他では、「勢州軍記」中に「空円入道」なる人物が登場します。稲葉、丹羽、池田の三武将が搦め手から大河内城の攻略を狙って撃退した時に「老兵を下げ若武者のみで追撃せよ」と進言、即座に城門を閉めます。味方が引き返してきた時に判別できるよう「立勝、居勝」と言う合言葉を決めておき、国司に賞賛されたとあります。これもやはり軍師と言えるのではないでしょうか?入道と言うところから、法体である事はわかりますが家臣が出家したものか、はたまた出家の身で篭城戦に参加していたのかは定かではありません。

以上のように北畠氏の軍師・軍配者は他の大名の例にもれず宗教関係者、特に伊勢の御師が担当していたのではないかと考えるわけです。

51.北畠氏分家について

北畠氏の分家とされるものには、木造家、坂内家、岩内家、大河内家、田丸家、藤方家、河方家などがあります。その中で出自が不明な藤方家、早期に断絶したと思われる河方家、早くから独立していた木造家を除いた坂内・岩内・大河内・田丸の4家が北畠の中枢を担う分家であったわけです。

大河内家と坂内家は国司本宗家から養子が入り宗家と一体の関係にあります。特に大河内家は初代の顕雅が甥の教具の成人まで国司家を相続、後の頼房も「御高様ご誕生の札注文」にもその名前が挙がっているように一門の中でも評定に加わる代表格のように感じます。坂内家はどちらかというと、腕白者で房郷が兄、逸方が伊勢神宮に寄進した度会郡湯田郷を欲しがったりしております。この家は、度会郡と非常に関係の深い家ですね。神宮との折衝を担当していたように考えられます。当初は、軍事的な勢いも強かったようです。戦国後半期には田丸家の成立とともに北畠家の北勢進出の中核を担ったのではないでしょうか。

岩内家はどうでしょう。従来この家はあんまり重視されてこなかったのですが、よくよく見ていると北畠の政治・軍事の中心はこの家ではないかというような働きをしています。北畠の本家に当たる久我家と、具教卿が折衝したときに岩内鎮慶入道が間に入ったりしています。この家は長老的な立場で国司家の運営に参与していたのではないでしょうか。

さて、問題は田丸家です。この家に関しては何時始まったのかまったくわかりません。初見の文書では「三郎」の名で天文の後半に出てきますので誰かの三男なのは確かでしょう。そうなると時期的には材親の三男に当たるのではないかと考えられますが確証というものがまるでありません。この家は蒲生氏郷の与力となってから豊臣大名になったりするなど安土桃山での活躍が目立ちます。北畠が南勢地方を固め北勢に進出するときに従来の坂内家から特に神宮・志摩海賊担当になったのではないでしょうか。

この他では大阪家というのがありますが一代しか記録に残っておらず、北畠国永と言う有名な歌人もいますが確かなことはわかっていません。ただ国永家は織田の分国になってからも存在が認められています。

北畠氏では国司本所の下に長老格の岩内家、一門代表の重臣大河内家、軍事の中心としての坂内家、神郡担当の田丸家という風な一族統治が行われていたと推測されます。

54.北畠氏の「女帝」

今回は趣向を変えましょう。久しぶりに考察的にものを考えようと思います。北畠氏の女帝についてです。

中世の世界では往々にして女性が権力を振るうという事があります。北条政子しかり日野富子しかり。戦国大名の世界でも今川義元の母親寿桂尼や、播磨・赤松氏の洞松院尼などの例があります。そのような女性が北畠氏にいたとしたらどうでしょう。実はいたのです。詳しい事はわかってないのですが明らかにいたとされています。

「澤氏古文書」の中に2通の文書があります。かな書きで書かれたその文は北畠氏と澤氏の家人の被官関係についてついて書かれています。「澤氏の領地から逃げてきたものがいても北畠氏は扶持しない」という内容です。天文5,15年に出されています。これが具教卿ではなく具教家女房が出した仮名消息なのです。天文5年といえば具教卿御年9歳、後者でも19歳です。とはいえ前年に出家したとはいえ「大御所様」晴具(天佑)がいまだ健在な時期に何ゆえ1女性が文書を発給しているのでしょうか。晴具が完全に隠居の生活を送っていたかというとそうではなく「天佑」の名で立派に文書を発給してますし、奉行人も立派に仕事をしています。にもかかわらず本所,具教卿の代理で女性が文書を出す。よっぽどの実力者としか思えません。

じゃぁ、だれなのか?一体何処の誰なんでしょうか?そこで注目できるのが以前にも出した「お高様誕生の札注文」という文書です。澤氏が具房誕生の祝いの品を書いてあるものですが、その上位の部分に女性と思われるものが顔を出しております。大上様、大方殿様、上臈様というのがそれです。このうち大上様は具教正妻六角氏、大方殿様は具教生母細川氏かと思われます。そうすると他に「お局」「女房衆」という記載があるのにもかかわらず独立して祝いを受けている上臈様が仮名文書を発給した女性であると思われるのです。何者なんでしょうかね?おそらくは具教卿の乳母ではないかと思うのです。それも出自が高い、おそらくは一族中から出ているのではないかと思われるのです。

 

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