北畠24

52.鳥屋尾石見守についての一考察(北畠24将列伝)

従来、北畠氏の参謀と言われてきた鳥屋尾石見守・満栄(以下石州)については、北畠氏の軍師について考察したときに「老臣としての力はあったが、いわゆる軍師には当てはまらない」ということを明確にしました。では家臣としての鳥屋尾石見守は一体どのような人物だったのでしょうか?今回はそんな彼にちょっと注目してみたいと思います。

いわゆる「軍記物」(勢州軍記とか勢州兵乱記)の中ではどう書かれているのでしょうか?この中で石州は無類の軍師として描かれております。とは言っても書かれているのはただ一つ「兵糧をたくさん備蓄し、国司から一兵卒に至るまで同じ物を食べさせた。」と言うことだけなのですけどもね。後、信長に正月の挨拶に行ったとき不覚にも待ちきれずに帰ろうとし、信長を怒らせちゃった張本人としても書かれています。

では、北畠氏の家臣たちについて書いてある「北畠家臣帳」では彼はどのような位置にいるのでしょう?そこには多芸御所重臣の筆頭、四管領政所家老、富永城主として記載されています。四管領と言うのは北畠氏の中でも有力な家臣の筆頭に挙げられている家です。鳥屋尾、水谷、澤、秋山の四家がこれに当たります。しかしこれも後世に作成されたものであって当時の真実を告げているものとは思われません。四管領と言う名前からしてどうも怪しいのです。

では、実際に出てくる史料の中ではどのような役を負っているのでしょうか?主に出てくるのは「澤氏古文書」と「大湊文書」です。彼の名前が「満栄」とわかるのもこれらの史料からです。その中で大湊文書のほうでは、信長の長島出兵の際に大湊が船を出すのを渋りに渋った事があります。その中で北畠氏の嗣子の立場になった信長の次男・三介信雄の使者として大湊に要請に行く役として出てくるのです。この当時信雄はまだ北畠氏の当主の座にはいません。にもかかわらず「重臣」とされる石州は大御所具教や本所具房のそばにいずに、信雄のいる大河内城にいるらしいのです。軍記物では信雄の側近は源城院主玄改め瀧川雄利と柘植三郎左衛門尉とされていますが、現実には北畠本宗家から重臣とも言うべき鳥屋尾石見守がつけられているのです。

結論としては北畠氏が伊勢を信長に蹂躙された後、鳥屋尾石見守は信雄についていた、と言う事がいえるのではないでしょうか。

 

53.奥山常陸介(北畠24将列伝)

今回は、北畠氏の誇る有力家臣のうちから選んだ北畠24将のうち、奥山常陸介について紹介しようと思います。家臣帳では「安濃の今徳城主 侍所」とあります。侍所という職掌が正しいかどうかはともかくとしても北畠氏の重臣であったろう事は間違いありません。

城主を務めた今徳城というのはどういうところかと言うと中勢に覇を唱えた長野氏と国司家の勢力圏とのちょうど間の位置にあります。北畠氏北上の最前線の城持ちだったわけです。もっとも長野氏が北畠氏と和睦し具教卿の次男、具藤を養子に迎え入れてからは長野領も北畠氏の馬打ち同然となったので最前線ではなくなったのですが。

状況が一変するのは長野氏が具藤を放逐し、信長の弟信包を養子に入れてからです。これと同時に織田一族の津田一安(織田掃部)が南勢奉行として勢州入りしその侵略の第一歩として今徳城攻略を目指すのです。奥山は名の知れた剛の者であったと見えて津田勢を撃破していますが、津田に長野軍、奥山に国司軍が援軍に訪れこれが北畠侵略の口実になったのではないかとも思われます。

北畠氏が織田信長と和睦して後も北畠氏に仕えています。おそらく信雄のいる田丸に屋敷を作ってそこに詰めていたのではないでしょうか。奥山としては主家の当主に仕えるための当たり前の事でありますが、これが奥山の悲劇を生むことになったのです。そしてこれ以後の一つの出来事が奥山を歴史の中に残しているのです。

天正4年11月、奥山は他の重臣とともに信雄に呼ばれます。そして具教卿暗殺の密命を受けるのです。そして領地の朱印を受けました。奥山は屋敷に帰って悩みます。主君の命令は絶対、しかもその後ろには天下人織田信長が控えている。かといって相伝の主君を討ち取るというのはとてもではないができることではない。そこで奥山の出した結論は、朱印状を焼き、城を廃し出家遁世するというものでした。後に信雄からその忠義の心を誉められ、領地が与えられますがそれを固辞、庵を結んで国司家の菩提を弔ったといいます。

55.藤方氏三代(北畠24将)

 北畠氏の支族はたくさんあります。大河内氏、坂内氏、木造氏、田丸氏、岩内氏などなど。その中に、藤方氏があります。系図的には余りはっきりした事はわかりません。具房誕生の際にお祝いを貰っていますから重臣クラスであった事は間違いありません。居城も長野氏や織田氏との前線になるところにありましたから当然重要な地位を家中で勤めていた事は間違いありません。

 具教卿の頃の藤方氏はちょうど 慶由入道、刑部少輔朝成、安正の三代ということになります。

 慶由入道は家中でも剛の者として知られていましたが大河内開城後、人質として信雄の元に監禁されていました。その結果藤方氏は信雄の命令にしたがって動かざるをえなくなります。天正4年の夏信雄は家臣の進言により紀州に対し出兵します。藤方の孫、つまり安正はその軍に従って出陣します。この合戦は進言した家臣が敵方に寝返るという大混戦になり、結果北畠軍(信雄軍)の敗戦となって安正もほうほうの体で逃げ帰り、しかもその哀れさに敵も見逃してくれるといった有様でした。慶由入道はその不甲斐なさに激怒したと伝えられています。

 天正4年11月、信雄は北畠一族の粛清を決行しますがその一味に慶由の息子朝成が選ばれてしまいます。父が人質にとられているためやむを得ず荷担するのですがかといって本家に刃向かう訳にも行かず家老の軽左京を具教卿暗殺に向かわせるのですが、これが結果として慶由入道を悲しませる結果となります。息子の不義をののしり自ら井戸に身を投げて自決するのです。

 その後、安正は江戸幕府の旗本に迎えられ、わずかながらも国司家の血統を後世に残しています。

56.北畠政成(北畠24将)

 北畠一族の勇将といえば、この方を挙げるでしょう。北畠政成です。しかし、この方についてははっきりした事はわかりません。系図も余りしっかりしたものではありません。政具の弟である政義(政能)の孫ということになっています。

 この人が登場してくるのが信長の侵攻に対して北畠氏が大河内城に篭城する際に多芸の御所の城代に任命されたという事です。合戦の最中に織田軍に吸収され奥方衆を人質に奪われるという失態を犯しています。彼にとっては痛恨事でしょう。

 その後、大御所もご本所も多芸に帰ってくることはなく彼が引き続いて多芸を管轄しています。その際に起こったのが三瀬の変です。大御所具教襲撃の当日彼のもとにも信雄から刺客を送られています。この刺客は撃退したものの、大御所救援に向かわせた芝山出羽守は間に合わず北畠具教は暗殺されます。

 国司気が討たれた後織田軍が多芸に侵攻、政成は霧山城に篭城、最後の一戦を迎えます。彼の妻が松永久秀の娘らしく大和からも援軍が入ったようですが敵も木下秀吉を投入。山に登れぬように笹の葉を敷き詰めたといいますがこれに火を放たれ最後は妻とともに自決いたします。