(初瀬街道)
田丸の街を伊勢本街道が通っておりますので江戸時代の中頃の、お伊勢参りが
盛んだった頃には田丸の街を1日に約4500人もの旅人が往来し、又2000人もの
旅人が田丸の宿に泊まったとの記録もあるほどです。
お伊勢参りを済ませた旅人達は田丸の宿で一泊をし身支度を整えて熊野詣に旅立って
行きました。
この写真は萱町の旅籠扇屋と、その看板です。
田丸は熊野街道の基点となっております。
この初瀬街道巡礼供養碑には(西国四国供養俗名大蔵智光大法師文化5年)
と刻まれております。
当時は全国の仏閣に詣でるお坊さんが沢山おりました。
その途中で病に倒れた人々の供養碑です。
初瀬街道を歩く
この塚はこの辺りを開拓した荒木田二門が祖先の霊を祭る為に建てた氏社跡です。
文明年間(1469〜86年)に北畠国司に神領を横領され社参するのが困難になり
祭庭を内宮に移した為に荒廃しました。
この上田辺両宮遥拝所には宝暦8年8月吉日(1758年)氏子中刻まれた手洗石が
あり、明治42年1月(1909年)氏神遥拝所となって建てられた常夜灯があります。
村人が伊勢神宮に参拝する代わりにここから遥拝した所です。
今から270年位前(元文5年)この道を杖をついて歩いている老僧がありました。
書き写した経文を全国66ケ所の霊場に奉納しようと巡礼する正念と云う六部でした。
此処まで来た時に病にかかり村人の手厚い看護もむなしく病は重くなるばかりでした。
死期を悟った正念は初瀬街道を行き来する旅人の安全と街道の無事を祈って人柱に
立とうと思い街道沿いの道端に穴を掘り鉦をたたき経文を唱えながら人柱になりました。
村人は哀れんでその上に塚を築き碑を建てました。
今でも線香をたむける人の姿が見られます。
棒原神社は内宮の摂社で祭神は天須婆留女命の御玉とあり、また
(奈良朝廷の御代に祝い定む)と記されております。
境内には方墳13基と円墳28基の計41基が密集して築かれております。
昔、お伊勢参りの旅人が此処まで来て土地の人に、お伊勢さん迄の距離を尋ねた所
(三里山道、五里なわて)と聞きこれから先の難儀を思い参宮するのを諦めて東の空を
伏し拝み残念そうに帰った、と云う伝説のある所です
この道は大和まで続いております。