義賢兵乱第三

義賢出張の事

後奈良院の御時、近江の六角義賢は伊勢の国を謀ろうと望み、小倉三河守を大将として三千の兵を勢州に向けた。義賢は宇多天皇の後胤で佐々木家の嫡流幕紋は四つ目結いである。小倉三河守はまず、千種城を攻めた。千種氏はこれを防いだ。なかなか勝負がつかず近江衆はこの城攻めを今様にして歌った。義賢はこれと和睦し家老の後藤但馬守の舎弟を千種の養子とし千種三郎左衛門尉とした。このとき千種の家臣が六角家に向かったがこのとき義賢は「千種は何人の大将であるか?」と聞いた。使者は「1500の大将である」と答えた。千種毛は「何故50を加えたか?」と聞いた。使者は「50を加えた事によって六角家は確かに1000人以上いる事を知ったはずだ。」と答えた。以後千種家は六角と一味同心し、三重朝明両郡を攻めた。故に宇野部の後藤家、朝明の加用家がこれに属した。

佐藤謀叛の事

弘治三年三月、近江勢、三重郡柿の城を囲んだ。この柿(沢木宗喜)は神戸家に一味するものである。これにより神戸下総守友盛は28日一千の兵で柿の城に援軍を出した。その夜神戸家の老臣岸岡城主・佐藤中務丞親子密かに謀叛を企て一族を誘い、数百人が小倉家に同心し、神戸城を襲い具盛の妻子を追い出し小倉三河守を引き入れた。神戸家が一つにまとまらず、用心が無かったことにより災いがくる事かくの如しである。具盛が方策無く困っていると佐藤の家臣古市与助が佐藤を裏切り岸岡城をとって神戸家を迎え入れた。ここにおいて神戸家は策をめぐらして小倉家を討とうとした。

佐藤退治の事

近年神戸家は関宗家と仲が悪く頼る事ができず長野輝伯を頼った。長野家は同心し岸岡城に援軍を出した。神戸家・長野家連合軍は神戸城に押し寄せた。小倉三河守も防戦するが神戸勢は勇戦して諸方より攻め立てた。小倉家は破れて千種城に引いた。神戸はこれをことごとく追討し会計の恥を雪いだ。主君を恨むものは天罰を逃れられない。佐藤親子は十宮に引退したが、神戸は許すといって招いた。佐藤が登城する際に人を道に潜ませこれを討った。その子又三郎も十宮で討たれた。死体は莚に巻いて三日市に晒した。昔佐藤の下人だったものがそれを見て怒っていった。「お前は無道で主君に背いた。又罪も無い俺を憎んだ。天罰覿面だ」と。そのあと23回これをけった。するとたちまち脚気になり一生足が立たず居去り乞食になったという。

小倉参州の事

古語にいう「運は天に在り、死は定れり。敵に向かい退く事勿かれ」と。その後小倉参州近江市原出湯において一揆と争い、土民に打たれた。伊勢で戦死を免れたのにいま土民の手にかかるとは思わなかったであろう。因果応報がはっきりと現れた。人と喧嘩をし死ぬのは人を侮ったからである。結城を励まし人を怒るのは立派なものに在らず和を用いるものは名を失わない。故にいう「強人我に怒れば即ちこれに和せよ、敵が油断したらこれをうて。」と。かの小倉家は人を侮り怒りを発する故に名を失ったものである。この小倉三河守は佐久良城主小倉兵庫助の子で幕紋は五梅である。小倉家は六角家に同心して武勇のものである。ゆえに伊勢攻めの大将になったという。

長野養子の事

南方の伊勢国司北畠中納言源具教卿、その武威は伊勢大和伊賀紀伊志摩の五州を覆い、数郡が幕下にあった。北方の工藤家と戦う事数度に及ぶ。長野には後継者がいなかった。ゆえに正親町帝の永禄年中和議を結び具教卿の次男を養子とし長野二郎と号した。これにより長野家は国司家と一味し酷使は15郡を治めて北勢攻略を謀った。

秋山謀反の事

国司家の家臣宇陀の両家澤、秋山は国司に敵意を持ちややもすればひそかに戦を始め国司家の指示に従わなかった。なかでも秋山入道宗丹の子息藤次郎入道遠州、三好家の婿となり威をたくましくして、大剛の武者であった。威勢を国内に振るい国司の命に背いた。永禄始めに国司は伊勢衆を大和神楽岡城をせめた。合戦では安保大蔵少輔、磯だ彦右衛門尉が手柄を立てた。この二人は死をともにする約束をしていた。然るに敵の追跡で馬上で磯田と組み合った。地に落ちる前に磯田がこれを討ちこれを討とうとした時、敵は下から刀を磯田の首にかけこれを引き落としかけた。安保は遠くからそれを眺め、約定を思い出して引き返してこれを討ち、磯田の首に布を巻いて抱き上げ引き返した。真に仁義の者達である。人々はこれを誉めた。磯田は一命を取り留め首は少し曲がった。

その後秋山は降伏し、宗丹を人質とした。国司はこれを大内山但馬守に預けた。宗丹はここで死んだ。その後秋山遠州も又死んだ。舎弟二郎その役職を賜り後に右近将監に任じられた。滝川一益の婿になった人はこの人である。

蒲生執権の事

近江の国蒲生下野守定秀は俵藤太の後胤で幕紋は立て鶴である。元来足利の侍で一千の大将であった。しかし、このころは六角の幕下で武芸の長人であった。数度軍功を立てて執権となった。六角家は伊勢攻略を狙っていた。小倉三河守の伊勢出兵の際これを憎み小倉の所領に押し寄せ民家をことごとく焼いた。この時日野衆は今様小唄を作り「日野の蒲生殿は百二十八郷、小倉与力は伊勢ばかり」と歌った。

小倉滅亡の後定秀は伊勢攻略を謀った。まず、関安芸守盛信を婿とした。これは関下野守盛雄の子である。また神戸蔵人友盛をも婿とした。これは神戸楽三の孫、悦岩の子である。末子であったので元土師福善寺の住居だった。兄神戸太郎四郎が家督を継ぎ、下総守になったが早死にして法名を涼岩と言う。子が無かったために舎弟が神戸家をついた。これによって蒲生は関・神戸を六角の一味にしようとした。

しかし、永禄6年3月義賢の子、右衛門督義弼が執権後藤但馬守、その子対馬守を暗殺した。これによって後藤一族ならびに国中の侍が六角家をの観音寺城を攻めた。義賢親子は蒲生を頼り、日野城に篭った。侍達は浅井家を引き込んで日野城を攻めた。特に江北の上坂兵庫助は後藤但馬の弟である。上坂治郎少輔の養子となっていた。定秀の子左兵衛太夫賢秀も後藤の妹婿であったが、六角を敬い忠節を尽くした。和睦を整え、但馬の次男・後藤喜三郎を家督として国を平和にした。これは抜群の忠孝であり、以後が儲けが六角の執権となった。定秀の子孫は栄えた。賢秀が家督を継ぎ、次男の茂綱を青地家の養子として青地駿河守とした。三男実隆を小倉家の養子として小倉豊前守とした。女子は関、神戸を婿とし、近江では池田次郎左衛門尉忠知、美濃部上総守も婿である。このように繁盛し、その勢いで伊勢を攻略しようとした。

関家一味の事

蒲生下野守定秀は関・神戸両家をいさめ永禄年中和睦させて六角の一味とした。これにより峯筑前守、国府佐渡守、鹿伏兔宮内少輔以下自然に六角の一味となった。ただし被官ではなかった。

一党・工藤の事

永禄の中頃、勢州は関一党と工藤家の双方に分かれ関は工藤を滅ぼそうとし工藤は関を滅ぼそうとしていた。ゆえに戦の収まる事は無かった。関は長野を攻め、長野は関を攻めた。関家は雲林院表に打ち出でて合戦する事数度に及ぶ。工藤家は神戸表で合戦に及ぶ事数度に及んだ。両雄互いに譲らず、勝負はつかなかった。

塩浜合戦の事

合戦は奇兵を専らにして不意を討つに越した事は無い。ある時、工藤家は北方の諸侍を連合し関を攻めようとした。長野次郎(北畠

具教次男・具藤)雲林院出羽守、草生家、家所家、細野九郎左衛門尉、分部宗右衛門尉、乙部兵庫頭、中尾内蔵充、川北内匠助以下工藤勢5千余人、安濃浦から船に乗り東海から攻め寄せた。関勢5千余人三重郡塩浜に出兵し、その軍を伏せた。工藤軍は適が塩浜にあることを知らず船から上陸したところ赤軍が一斉に鬨の声をあげて平家の赤旗を打ち立てこれに攻めかかった。工藤軍は大敗して勇将を多く失った。このとき関家では神戸蔵人の叔父神戸某以下が戦死したという。

神戸城攻めの事

合戦は精鋭を避け退く時に打つのが良い。ある時工藤家及び南方国司勢が神戸表に出陣し軍を分け神戸の諸城を囲んだ。長野家は神戸の西城を攻めた。神部家はこれをあしらって深田に引き込んだ。時に闇夜であり工藤家は深田があるのを知らず龍光寺門前をすぎ、進んだところ見事にはまり四苦八苦するところを神戸勢1千余人が攻めかかりこれを討ち取ったという。

赤堀城攻めの事

このとき、国司家一族の波瀬御所は与力矢川下野守、阿曽弾正忠以下、赤堀城に攻め寄せた。赤堀家は一族高宮以下の兵を集め、防戦した。波瀬御所は遂にこれを落とす事ができなかった。このとき城中から敵軍に対する落書が言うには。

赤堀ノ堀ノ深サヲ知ラズシテ 浅ミヲセセル波瀬ノ御所カナ

この赤堀家は神戸楽三の次男である。神戸家の一味であるが故に国司家はこれを攻めたという。又工藤勢が赤堀城を攻めた時の落書には

赤堀ノ庵ノ内ノ三文字ニ長野首ヲ割菱ニセン

この歌は幕紋をもって詠んだと言う。

関家出世の事

関の一党は北勢に猛威を振るい亀山(関)は千種、宇野部と一味し、峯は南部、加用以下と一味した。神戸は赤堀、楠、稲生以下と一味した。七郡の内威を振るって各々幕下に属した。その中でも関盛信は桑名を占拠し豊田四郎兵衛尉を代官にしたという。しかし、亀山・神戸・峯三大将が覇を競い、ややもすれば一族同士の戦いがあった。故に統一できなかった。一家が利を争えば大功は立たず、一人が主となれば国を治め権威があれば栄華を保てるものである。

三好逆乱の事

そのころの将軍足利宰相中将義輝卿は尊氏卿8世の孫、足利大納言義晴卿の子である。しかし萬松院殿(義晴)逝去のときに、阿波国三好修理大夫源長慶を頼んで相伴衆にした。この三好はもとは細川家の侍である。そのころ武威をもって四国を治めたと言う。その後、長慶逝去して、三好一党が五畿内を治め、その功を誇った。三好山城守冬康以下一族が一味同心して謀反を企てた。永禄8年5月19日二条城を攻め破り義輝卿を討ち取った。御年30歳。その後三好山城笑岩(康長)威を逞しくして、畿内を取り大和国から伊勢に攻め込もうと欲すると、国司は要害を作り固く用心した。このとき伊勢侍が謀反を企てた。船江の本田の一族平八郎が三好に一味した。弟の平九郎15歳が多芸に人質としていたが御世薗で誅せられたという。

義昭還俗の事

光源院義輝卿の弟、奈良の一乗院家(覚慶)永禄8年8月ひそかに近江に逃亡し還俗して足利左馬頭義秋と名乗った。六角家を頼り兄の敵を討とうとした。六角家は軍を起こし、9年に京に攻め上り三好家と合戦した。三好はしばらく都落ちした。ゆえに三好は伊勢国を攻めなかったという。

義昭退去の事

六角親子ははじめは足利家を奉じ、忠戦をしたが後にこれを侮り、かえって自立しようとした。ゆえに永禄10年秋、六角は三好と和睦し義弼は義昭を討とうとした。これにより義昭は8月ひそかに近江矢島を脱出、若狭に入って武田義統を頼り、しばらくそこにすんだ。また、越前に行き、朝倉左衛門佐日下部義景を頼った。けれども朝倉家は一向にこれに同心しない。足利家はいよいよ途方にくれる。

 

 

次    へ