乱世形勢  第二

乱世根源の事

足利尊氏卿の五世孫、慈照院義政公が無道な故に細川右京大夫勝元と、山名右衛門佐入道宗全が覇を競った。後土御門帝の御時、応仁元年5月26日、両家は合戦に及んだ。天下の諸家は双方に分かれてこれに付いた。この時関・長野氏は細川方に付いた。関家は三条殿(伊勢貞親)の守護を、長野氏は相国寺の守護を受け持った。国司北畠教具は皇室守護に回った。故にこれに与しなかった。兵火はやまず、文明911月対に山名氏は滅んだがその一味は諸国に散り戦火の火の手をあげた。細川方はこれを鎮圧しようと兵を出した。このときから自然に世が乱れだし、皇室の法も将軍の命も国中が指摘に武器を持ち、意の赴くままに戦をした。主君を殺し、父を討ち、兄弟を滅ぼし、友を害してその領土を併せようとする。戦国7雄の時代は目前である。悲しい事にこのときから君臣の礼を失い官職のきまりは破られた。運あるものなら凡夫も国主になり運なき者は貴人であっても賎民に落ちる。これにより、武威をもって出世する家が全国に出現した。その中で細川勝元の息子政元は将軍を数度近江に追った。しかし、高国の代で滅亡した。

乱国大将の事

乱国によって国中に出世の諸将が多い。まず畿内では三好長慶が足利の執権となった。元細川の家臣であったが実力でのし上がりそのため将軍の後見になったと言う。東を見ると近江では六角京極の両家が威を振るった。しかし京極の家老浅井入道休外(亮政)が京極を滅ぼし久政、長政三代にわたり威を江北に振るった。美濃では斎藤道三が土岐氏を滅ぼしこれは元山城国西の岡の住人で地下であった。美濃に下り出世したと言う。しかし、この義龍に滅ぼされた。伊勢では北畠が威を振るった。尾張の織田家は主家の斯波武衛家を滅ぼし武功は近隣に及んだ。駿河国の今川義元は吉良家を滅ぼし参遠をとった。甲斐の武田晴信はまず、信州小笠原長時を討ち後今川家を滅ぼした。関東では上杉禅秀が関東公方足利持氏を討ち古河成氏と戦い以後上杉家が関東を執権した。その後伊勢平氏の新九郎が伊豆に流れてきて伊豆早雲を名乗った。氏綱氏康が出世して北条を名乗り上杉を滅ぼし小田原に住み、関東を治めた。故に千葉・三浦・小山・結城・小田・佐竹・那須・宇都宮・里見・大掾以下皆これに属した。

奥羽では会津の芦名盛氏武威を振るい、結城、二階堂、津川らがこれに属した。田村、岩城、相馬らもこれに与した。伊達晴宗・南部も威をたくましくして子孫繁盛した。出羽では最上義秋が威を振るった。越前では朝倉入道永林、元は斯波家の家老であったが同じ甲斐家を滅ぼし斯波氏を滅ぼし子孫は5代繁栄した。越後では長尾景虎、元上杉の家老だったがその威を隣国に振るった。このために能登畠山、加賀冨樫は滅んだ。中国では周防の大内義隆武威を振るい諸家がなびいた。しかし陶隆房が謀反して滅ぼした。その後出雲の尼子経久の孫晴久が威を振るった。その後は安芸の毛利元就、その子隆元が出世し中国を治めた。これにより山名一色赤松らは滅んだ。四国では伊予は河野氏が威を振るった。土佐長曾我部家が元細川の家臣であったが武を以って隣国に威を振るった。西国では豊後大友家が近隣に威を振るい、肥前竜造寺氏が出世し、薩摩島津家が九州に威を振るった。これにより、旧家の菊池・少貮・松浦等が威を失った。このように国・郡・保・郷ことごとく乱れ大水防ぎがたく大火消しがたし。いつ兵乱が収まるか誰にもわからなかった。

国司権威の事

乱世の頃、伊勢の国司多芸御所政具(政郷、政勝)卿の子息、大納言材親卿は権勢があった。北伊勢神戸栢岩五世の神戸下総守(為盛)は教具の婿である。同じく長野家も政郷卿の婿である。これによって神戸長野は国司の一味である。しかし神戸家に女子があって男子が無かった。政郷卿は末子を養子婿とした。この子は元は相国寺の侍童であったが永正の中頃に神戸四郎具盛と号した。後、蔵人に任じられ文武の達人であった。一党はこれを恨み家中の侍も背いた。しかし、仁義をもって家を治めた。ことに国司家は一家であり、長野とはじっこんである。故によく家を治めたという。出家の後楽三と号す。北方で威を振るった。次男を赤堀家の養子として、楠家を婿とした。故にこの両家は神戸と一味である。これによって材親卿は長野・神戸・楠・赤堀とは一味である。大石御所とは彼の事である。

乱国敵対の事

後奈良院の時、足利将軍家が衰退した頃、天文年中に諸国は大いに乱れ、戦はやむ事は無かった。近隣諸国ことごとく争う。伊勢国司北畠御所は東方志摩国、南方大和吉野郡・宇智郡ならびに紀州熊野山、西方伊賀国仁木家、北方工藤家と戦う。工藤家は南方国司家、西方伊賀甲賀、北方関家と戦う。関家は南方工藤家、西方近江六角家、北方諸侍と戦った。北方諸家は南方は関家、西方六角家、北方美濃斎藤家と戦う。日本中がこのようであった。前を防ごうとすると後ろに敵がいる。左を襲おうとすると右に賊がいる。諸将は一日片時も心を泰山の安きに置けなかった。ただ甲冑を着、武器を握り他の事を顧みなかった。

山田合戦の事

乱世の頃、度会郡神領も禰宜神官達が密かに武器を持ち宇治は山田に戦いを挑む事数度であった。神領はかねてから国司がこれを奉行していた。その頃神官らは少しも国司の命に従わずなかでも、山田の住人村山掃部助はその威を神領に振るった大豪のものである。国司に背いて神三郡・宇治・山田・湊・川崎・山田・朝熊・二見の軍勢を催して打ち出でようとした。堤・上部・春木・久志本・龍・福井・益・三日市・喜多・山田大路・檜垣・橋村・窪倉(以上、神宮御師)らがこれに同心した。国司晴具卿(材親)は南方の諸侍に命じて神領に攻め込ませた。宇治・山田の軍勢は宮川の東川原に陣をひき、大綱を流して宮川においてこれを防いだ。国司勢は鬨の声をあげ矢をあわせて合戦に及んだ。先陣の沢秋山らが川を渡り勇み進んで攻め戦った。宇治・山田勢は大敗した。掃部助は神宮に駆け込み拝殿に腰掛け腹十文字に掻き切って、腸をつかみ出し、宮中に火を放って一時に焼け落ちてしまった。悪逆を企てるものが自滅するのはこのようなことである。が、天下に疫病が流行り人々がたくさん死んだ。故に勅諚をもって大神宮を建て直し、村山を神として祭ったという。神は正直の頭に宿るという。神慮が悪逆を救う事があるだろうか。善道を守れば必ず神助がある。昔、長官度会の常政(昌)は神道の根源を極め政権の道徳を兼ね持つ。ゆえに人々の物忌み禁火を哀れみ密かにその大概を許した。他の神主はこれに怒り上奏して流罪にしようとした。そのときに神前に虫食いのある木の葉があった。虫食いが歌になっていた。

常昌を常に見るだに恋しきに何ぞ隔てん神垣の内

神官達はこれを用いず上奏したところ、帝の御前にもまたあの木の葉があった。帝は怪しく感じて流罪をやめたという。かの常昌は老後に衣冠を清浄にし空中を歩いて天上に飛び去ったという。誠にありがたい長官である。

また、北畠家は逆徒を戒めるために神慮を恐れず、滅亡も遠くないといわれた。その後神領の残党が二見浦に陣を構え、国司勢は塩合に向かって合戦を挑みこれを攻め下した。

国司出張の事

南勢の国司北畠多芸の御所武威を隣国に振るう。故に自然に近辺の諸勢はこれに従った。東は鳥羽城を攻める。遂に鳥羽氏(橘主水・鳥羽監物)はこれに従った。その他志摩国二郡の諸侍小浜、安楽島、浦、的矢、相差、国府、甲賀、波切、浜島、和具、越賀以下はこれに属した。南方は大和国吉野郡宇智郡の諸侍これに従う。故に筒井、越知、十市、久世、満西等らはこれのために防戦した。ならびに紀伊国熊野山、尾鷲、新宮、十津川等の侍がこれに属した。西の伊賀国は仁木の領地であった。しかし、名張郡阿賀郡の諸侍これに従う。北方工藤家を討つために木造藤方両御所ならびに奥山らをこれに当て、ある時は乙部の陣があり、ある時は田上の陣があり、ある時は細野城を攻めあるときは長野城を攻め数年戦を挑む事かくの如しである。

長野輝伯の事

その頃、長野輝伯(てるなか、後の大和守藤定)は長野の末子であった。彼の兄長野三郎は幼少で京都の普広院にあった。ある時、将軍家(六代義教)の寵臣伊勢守が普広院にやってきた。鞠を蹴り足を洗って明衣(ゆかた)を所望した。三郎が持っていくと伊勢守は「足をぬぐえ」という。三郎は「けしからん奴だ」と言って斬り捨て自害した。故に弟輝伯が家を継いだ。名将でしばしば各地に戦を挑んだ。

天文の末頃、長野輝伯は工藤勢を率いて南方に攻め込んだ。国司は澤・秋山らを率いて垂水(一志郡)の鷺山に迎え撃った。工藤勢は七つの備え(軍を七段に分け順次押しては退く陣形)をひき、分部・細野らが一番に攻めかかり一日の内に七度槍を合わせたが勝敗は決せず両軍が退いた。長野方に毎度利があった。なかでも河内武者が特に優れ赤装束で攻め来ると面に立つものがいなかったと言う。国司方では家城主水佑、豊田五郎右衛門尉、垂水釈迦房らが七度とも群を抜いて武名を挙げた。これが鷺山合戦と言う。

関家出張の事

北勢の関一党は猛威を諸郡に振るい、関下野守(盛政)雲林院表に打ち出でて数度の合戦があった。神戸悦岩(長盛)は楠、赤堀と一味して北方の諸侍を攻めた。その他の一族も威を振るってこれによって諸侍がかの家の幕下に属した。しかし、関・神戸・峯三家が互いにけん制し合い、合戦に及ぶ事数度に及んだ。故に名のある武将が出なかった。

田丸兵乱の事

天文年中田丸家の家臣の山岡一党・池山伊賀守らが、叛乱を企て田丸城を攻めた。田丸弾正少弼は戦を挑んだが苦戦し、ついに自刃した。北畠晴具卿は軍を田丸に出した。山岡党は山上城に篭ったが,遂に攻め滅ぼされた。不義を企て主君に仇するものは滅びやすい事である。国司は少弼の子息を立てて田丸御所とした。後に稲葉兵庫頭が田丸城に入ったときかの少弼祟り神となって祟った。稲葉家はこれを神として祭ったという。

徳政兵乱の事

弘治元年冬12月飯高郡鎌田の住人豊田五郎左衛門尉多気郡斎宮の住人野呂三郎いか南勢のあぶれ者ども数百人と一味して借金踏み倒すために徳政一揆を起こし斎宮城に立てこもった。南勢の諸侍はただちに攻めた。また豊田の一族らが平尾の智積寺の城に篭った。彼は大河内の与力であったが豊田の同類ではない。そのとき留守であり豊田は彼の女房を人質にして防戦した。南方の侍がこれを攻めた。豊田は小森上野において七度の槍をついた剛勇のものであったが逃げ場所が無く斬って出て戦ったが遂に舟江本田美作守の家臣、中西清右衛門尉がこれを討った。高嶋次郎左衛門尉が助太刀をしたという。このように世を乱すものは借金を破らんがために叛乱をおこし遂にその身を失う。小利をむさぼり大失を知らない。悪逆を企て悲報のはかりごとをめぐらせば滅亡しやすいものである。