倭姫命の足跡

 

十代崇神天皇の時、天照大神は宮中に祀られていたが、神威が強いということで、別地に祀られることになった。

そこで皇女豊鍬入姫命は天照大神を祀る場所を求めて旅に出る。52年間、豊鍬入姫命は奉仕されたが、

老齢となり、姪の倭姫命にその任を預けた。

以下は豊鍬入姫命及び倭姫命が、どのような道筋で内宮までたどり着いたかを推測したものである。

 

【倭姫命世記】

卅九年壬戌三月三日。遷幸但波乃吉佐宮。秋八月十八日作瑞籬。積四年奉斎。従此更倭国求給。此歳豊宇介神天降坐奉御饗。

2、籠神社吉佐宮

京都府宮津市大垣430

  
 

【倭姫命世記】

五十一年甲戌四月八日。遷木乃国奈久佐浜宮。積三年之間奉斎。于時紀国造進舎人紀麻呂良。地口御田。

4、日前国懸神宮奈久佐浜宮

和歌山県秋月365

 

 

【倭姫命世記】

五十四年丁丑。遷吉備国名方浜宮。四年奉斎。于時吉備国造進采女吉備都比売。又地口御田。

5、伊勢部柿本神社(名方浜宮 )

和歌山県海南市日方600番地

 

 

【倭姫命世記】

六十四年丁亥十一月廿八日。遷幸。伊賀国隠市守宮。二年奉斎矣。伊賀国天武天皇庚辰歳七月割伊勢国四郡立彼国。

9、宇流冨志彌神社市守宮

三重県名張市平尾3319

 
 

蛭子神社市守宮

三重県名張市鍛冶町97

 

名居神社市守宮

三重県名張市下比奈知2092

 

【倭姫命世記】

六十六年己丑冬十二月一日。遷于同国穴穂宮。積四年奉斎。爾時。伊賀国造進箟山葛山戸。並。地口御田。細鱗魚取淵梁作瀬等。朝御気夕御気供進矣。

10、神戸神社(穴穂宮)

三重県上野市上神戸317

 

【倭姫命世記】

二年癸巳夏四月四日。遷于伊賀国敢都美恵宮。二年奉斎矣。

11、都美恵神社(敢都美恵 宮)

三重県阿山郡伊賀町2280

 

敢都美恵宮

史跡雨龍神社跡

倭姫命の禊の跡地と伝えられている。

  

【倭姫命世記】

十四年乙巳秋九月一日。遷幸于伊勢国桑名野代宮。四年奉斎。次鈴鹿奈具波志忍山爾。神宮造奉天。六箇月奉斎。于時。国造大若子命 。一名大幡。参相御共仕奉。国内風俗令白支。又国造建日方命。参相支。汝国名何問給。白。神風伊勢国止白。進舎人弟伊爾方命。又地口御田。並神戸。又大若子命。進舎人弟乙若子命。次川俣県道祖大比古命参相支。汝国名何問賜。白久。味酒鈴鹿国奈具波志忍山止白久。然神宮造奉令幸行。又神田並神戸進支。次阿野県造祖真桑枝大命爾。汝国名何問賜。白久。草蔭阿野国白弖。進神田並神戸。次市師県造祖建呰古命爾。汝国名何問賜白久。宍行阿佐賀国白。進神戸並神田。

 

16、野代宮(野志理神社)

三重県桑名郡

 

17、奈具波志忍山(忍山神社)

 

三重県亀山市野村4−4−65

 

 

 

忍山神社に半年滞在の後、布気神社に一週間滞在されたという伝がある。

 

布気神社

 

三重県亀山市布気町野尻1663

 

 

 

次の片樋宮へ向かうには逆行になる。

忍山神社から片樋宮へ向かう途中、倭姫命が馬を留めたという松がある。

 

御厩の松

 

三重県鈴鹿郡関町古厩

 

 

 

【倭姫命世記】

十八年己酉夏四月十六日。遷坐于阿佐賀藤方片樋宮。積年歴四箇年奉斎。是時爾阿佐加乃彌子爾坐而伊豆速布留神。百往人者五十人取死。四十往人廿人取死。如此伊豆速布留時爾。倭比売命於朝廷大若子乎進上而。彼神事乎申之者。種々大御手津物彼神進。屋波志々豆目平奉止。詔遣下給支。于時其神乎。阿佐加乃山嶺社作定而。其神乎夜波志々都米上奉天労祀支。爾時宇礼志止詔天。其処名天。宇礼志止号。

 

18、加良比乃神社(片樋宮)

 

三重県津市藤方森目 5

 

  

看板に

 

加良比刀神社 延喜式内社
御祭神 御倉板擧神
       天照大神 他十七柱
由緒
当社は垂仁天皇の御代皇女倭姫命が天照大神を奉戴し御廻歴の際
即ち大御神の御神記に準しこのところに神殿を建築して鎮座したまう
時宮中水利不便であることから桶を以て通ず故に「片桶宮」と称した
四ヶ年を経て又御神記あり他所に遷座したまうその宮跡に御倉板擧
神伊豆能売神を祀り「加良比乃神社」と称した以来神威盛なるを
もって土地の人々が産土神として崇敬した
亨保九年京都北野勅願所清和院権僧正より縁起書の寄進ありまた後西
天皇の皇女宝鏡寺法親王より額面片桶宮その他の寄進あり明治二年
三月明治天皇伊勢御巡幸の砌奉幤使参向幤饌料御献備あり昭和二十五
年近隣の火災飛火により社殿炎上し直に拝殿(仮本殿)を造営し平成
八年神宮より御遷宮撤下内宮外幤殿を拜戴し正本殿として造営された


と記してある。

 

阿射加神社

 

阿射加神社は大阿坂町と小阿坂町と二つある。

 

三重県松阪市大阿坂町670

 

 

 

 

三重県松阪市小阿坂町120

 

 

 

【倭姫命世記】

廿二年癸丑冬十二月廿八日。飯野高宮。奉斎四箇年。于時飯高県造祖乙加豆知命乎。汝国名何問賜。白久。意須比飯高国止白。而進神田並神戸。倭姫命飯高志白事貴止悦賜支。次佐奈県造祖弥志呂宿禰命爾。汝国名何問賜。白久。許母理国志多備之国。真久佐牟毛久佐向国白弖。進神田神戸。

 

19、神館神社(飯野高宮)

 

飯野高宮と云われる神社は4つ存在する。

 

三重県松阪市下村町1791

 

神館神社の隣に天照皇大神飯高宮跡地という碑が立っている。ここから櫛田神社へは現在の県道756号線を通っていったと考えられる。

 

  

 

 

神山神社(飯野高宮)

 

三重県松阪市山添町4

 

境内に電車が走っていた。

ここから櫛田川を下って行ったとも考えられるが、倭姫命世記には櫛田神社から船に乗ったとあるので、ここは怪しくなってくる。

 

 

牛庭神社(飯野高宮)

 

三重県松阪市蛸路町1281

 

この神社も孫川という櫛田川の支流の近くで船で行った方が早い。

 

 

 

神館飯野高市神社(飯野高宮)

 

三重県鈴鹿市神戸町

 

この神社は位置的にかなり遠い。

 

 

 

【倭姫命世記】

又大若子命乎。汝国名何問賜。白久。百張蘇我乃国。五首枝刺竹田之国止白支。其処爾御櫛落給支。其処乎櫛田止号給。櫛田之社定賜支。

 

 

櫛田神社(櫛田之社)

 

三重県松阪市櫛田町724

 

倭姫命が櫛を落としたことから櫛田という名前がついた。理容、美容学校の参拝が多いらしい。 

 

 

 

 

【倭姫命世記】

従其処志。御船乗給弖。幸行。其河後江爾到坐。于時魚自然集出天。御船参乗支。爾時倭姫命見悦給弖。其処爾魚見社定賜支。

 

魚見神社・魚海神社(魚見社)

 

魚見社と考えられる神社が二つ存在した。二つの神社は1kmほどしか離れていない。

 

魚見神社 三重県松阪市魚見町815

 

 

 

魚海神社 三重県松阪市川島町183

 

 

 

【倭姫命世記】

従其幸行奈。御饗奉神参相支。汝国名何問賜。白久。白浜真名胡国申。其所真名胡神社定賜支。又乙若子命以麻神蒭霊等進倭姫命。而令祓解。及陪従之人。留弓劔兵。共入座飯野高宮。遂得向五十鈴宮。自爾以来。天皇之太子。斎宮。如及駅使国司人等。到比等川為解除。止鈴声之。此其儀也。

 

真名胡神社(松名瀬神社か)

 

真名胡神社らしき神社は見つからなかった。しかし魚見社より下流の神社となると松名瀬神社しかない。

ここより海に出たと考えられる。

 

 

 

【倭姫命世記】

従其幸行弖。佐々牟江御船泊給比。其処爾佐々牟江宮造令坐給支。大若子命白鳥之真野国止国保伎白支。其処爾佐々牟江社定給支。

 

20、竹佐々夫江神社(佐々牟江社)

 

三重県多気郡明和町山大淀3004

 

観福寺と同じ境内にある。立派な神社であるが地元の人で場所すらわからない人がいた。

 

 

 

【倭姫命世記】

従其処幸行之間爾。無風浪志。海塩大与度爾与度美弖。御船令幸行。其時倭姫命悦給弖。其浜爾大与度社定給支。
 天照大神誨倭姫命曰。是神風伊勢国。即常世之浪重浪皈国也。傍国可怜国也。欲居是国。故随太神教。其祠立於伊勢国。因興立斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。天照大神始自天降之処也。
 

 

竹大与杼神社(大与度社)

 

三重県多気郡明和町大字大淀乙1

 

竹佐々夫江神社からそれほど離れていない場所にある。こちらの場所はすぐにわかった。

 

 

 

【倭姫命世記】

廾五年丙辰春三月。従飯野高宮遷幸于伊蘓宮令坐。

于時大若子命問給久。汝此国名何。白支。百船度会国玉掇伊蘓国止白久。御塩浜並林定奉支。此宮坐天供奉。御水在所波御井国止号支。

于時倭姫命詔久。南山末見給波。吉宮処可有見由詔天。御宮処覓爾。大若子命乎遣支。倭姫命波。皇太神乎奉戴天。小船乗給。御船仁雑神財並忌楯桙等乎留置天。従小河幸行支。其河志。御船後立支。爾時駅使等御船宇久留止白支。其処乎宇久留止号支。

 

21、磯神社(伊蘓宮)

 

三重県伊勢市磯町1069  (E136°42'14.66" N34°30'58.96")

国道23号線を降りて511号線に乗り、豊浜西小学校の前を通り、磯橋を渡る。左折し、狭い道に入ると左側が神社、右側が公園になっている。公園の隣には「伊蘇前司公宗入道長官之里」と書かれた碑があり、その前が神社の入り口になっている。神社を入って右折すると本殿があるが、道を無視して直進すると「清濱神社旧蹟」という碑がみつかる。本殿前は屋根付きになっていて、鰹木は6本となっている。正殿には天照大神御霊が祀られている。ここより東北に150mほど行ったところに御井國跡があるらしいが見つけられなかった。

 

  

 

倭姫命はここから外城田川を船で上っていったと考えられる。

 

 

次の二社も磯神社と伝えられるが位置的に合わないと思われる。

 

(参考)相鹿上神社

 

三重県多気郡多気町相可字磯部寺464

 

 

 

(参考)逢麻神社

 

三重県松阪市阿波曽町

 

 

 

【倭姫命世記】

従其処幸行。速河彦詣相伎。汝国名何問給。白久。畔広之狭田国止白天佐々上神田進支。其処爾速河狭田社定給支。

 

狭田國生神社(さたくなりじんじゃ)(速河狭田社)

 

三重県度会郡玉城町佐田字牛コウベ322  (E136°38'26.09" N34°29'13.26")

外城田川から717号線を西に向かうと森が見える。入り口はその森を越え、左折し狭い道に入ると見えてくる。祭神は倭姫命に佐々上神田を奉った速河彦命らしいが、鰹木4本なので女神と考えられる。

 

 

 

倭姫命はここからさらに外城田川を上っていった。

 

【倭姫命世記】

従其処幸行。高水神参相支。汝国名何問給。白久。岳高田深坂手国止白弖。田上神田進支。其処仁坂手社定給支。

 

坂手國生神社(さかてくなりじんじゃ)(坂手社)

 

三重県度会郡玉城町上田辺  (E136°37'13.09" N34°29'44.93")

サニー道路を西側に折れ、参宮線の踏切が左に見えたら右に右折。しばらくいくと左側に見えてくる。長いゆるやかなスロープを登っていくと本殿がある。鰹木4本

 

 

【倭姫命世記】

従其処幸行。河尽支。其河之水寒有支。則寒河止号。其処御船留給弖。即其処仁御船神社定給支。

 

御船神社

 

三重県多気郡多気町大字土羽  (E136°35'31.06" N34°29'31.41")

坂手国生神社から南に行き、踏切を渡って右折する。左に流れる外城田川に沿って走っていくと、左手に鳥居が見えている。鰹木4本

 

 

【倭姫命世記】

従其処幸行時。御笠服給支。其処乎加佐伎止号支。大川瀬渡給止為爾鹿宍流相支。是穢悪詔天。不渡坐其処乎相鹿瀬号支。

 

御船神社からは笠木を通って、熊野古道の入り口、女鬼峠を通り、相鹿瀬から宮川に出たと考えられる。

 

 

女滝

 

注連指にある女滝は倭姫命が定めたといわれる。

 

 

神の岩

 

宮川の真ん中にある島。ここで倭姫命は休んだと言われる。

右の写真は川岸にある神の岩のための遥拝所。

 

 

 

【倭姫命世記】

従其処指河上乎幸行波。砂流速瀬有支。于時真奈胡神参相渡奉支。其瀬真名胡御瀬号弖御瀬社定給支。

 

多岐原神社(御瀬社)

三重県度会郡大宮町三瀬川

神社の裏には宮川が流れており、ここから上陸したと考えられる。

 

  

 

【倭姫命世記】

従其処幸行。美地到給奴。真名胡神爾。国名何問給支。大河之滝原之国止白支。其処乎宇大之大字禰奈乎為天。荒草命茢掃天。宮造令坐支。此地波。皇太神之欲給地波。不可有悟給支。其時大河自南道。宮処覔爾幸行爾。美野爾到給支。宮処覔侘賜比。其処平和比野止号支。

 

ここから瀧原宮までは三瀬坂峠を越えたと考えられる。

 

22、瀧原宮

 

三重県伊勢市度会郡大宮町大字滝原字宮野872

 

 

 

 

潮岩

 

 

 

藤坂峠

 

大宮町から南島町へは藤坂峠を越えたと考えられる。

 

 

頂上から望む南島町

 

腰掛石

 

南島町へ降りてからは腰掛岩で休まれたと言われる。

 

 

 

乙女岩

 

能見坂峠を越えてすぐに乙女岩がある。ここでも倭姫命は休まれたという。

 

 

 

和井野

 

一之瀬小学校の近くには倭姫命の祠が伝わっている。

 

 

 

 

【倭姫命世記】

従其処幸行爾。久求都彦参相支。汝国名何問給支。白久。久求小野白支。倭姫命詔久。御宮処乎久求小野止号給弖。其処爾久求社定賜。于時久求都彦白久。吉大宮処有白支。

 

23、久具都比売神社(久求社)

三重県度会郡度会町上久具字久具都裏

 

 

 

【倭姫命世記】

其処爾幸行志。園作神参相支。御園地進支。其処悦給。園相社定給支。

従其処幸行爾美小野有支。倭姫命目弖給天。即其処乎目弖野止号支。又其処爾円奈留有小山支。

 

園相神社(園相社)

三重県伊勢市津村町字白木

 

 

 

【倭姫命世記】

其処乎都不良止号支。従此処幸行。沢道野在支。其処乎沢道小野号支。其時大若子命従大河御船率。御向参相支。于時倭姫命大悦給天。大若子問給支。吉宮処在哉。白久。佐古久志呂宇遅之五十鈴河上爾。吉御官処在白支。亦悦給天。問給久。此国名何。白久。御船向田国白支。

 

川原神社

 

三重県伊勢市佐八町泉水

御船向田国にあったといわれる河原神社(現川原神社)

 

 

 

【倭姫命世記】

其処御船乗給。幸行支。其忌楯桙種々神宝物留置所名波忌楯小野号支。従其処幸行波有小浜。其処取鷲老公在支。于時倭姫命御水飲止詔弖。爾老爾。何処吉水在問給支。其老以寒御水御饗奉支。于時讃給。水門爾水饗神社定賜支。

其浜名鷲取小浜号支。然而二見浜御船坐。于時大若子命仁。国名何問給。白久。速両二見国止白支。

 

饗神社

 

水饗神社跡と伝えられる忘れ井の碑

 

 

現在の水饗神社は日保見山八幡宮の中にある。↓三重県伊勢市大湊町

 

同様の伝説がある御食神社

 

 

 

【倭姫命世記】

爾時其浜御船留給天。坐時。佐見都日女参相支。汝国名何問給支。御詔乎不問。御答毛不白弖以堅塩多御饗奉支。倭姫命慈給。堅多社定給支。于時大若子命其浜乎御塩並御塩山定奉支。

 

堅田神社(堅田社)

三重県度会郡二見町江

 

 

【倭姫命世記】

従其処幸行弖。五十鈴河後之江入坐支。時佐美津日子参相支。問給。此河名何問。白久。五十鈴河後白支。其処爾江社定給支。

 

江神社(江社)

三重県度会郡二見町大字江字明神奥992 

 

 

同様に江社と伝えられる栄野神社

 

 

【倭姫命世記】

又従其処幸行爾。荒崎姫参相。国名何問給。白久。皇太神御崎荒崎白支。恐志詔。神前社定給。

 

神前神社(神前社)

三重県度会郡二見町大字松下字尾谷1407-5

 

259段の階段を登る。

 

 

神前社の跡地とも言われる松下社 度会郡二見町松下1346

 

 

 

【倭姫命世記】

此其江上幸行。御船泊志処名号御津浦支。従其上幸行。小嶋在支。其嶋坐天。山継河内見廻給天。如大屋門前在地支。其処上坐天。其処名号大屋門支。従其処幸行。神淵河原坐波。苗草戴耆女参相支。問給。汝何為。耆女白久。我取苗草女。名字遅都日女止白久。又問給久。奈止加々久為。耆女白久。此国波鹿乃見哉毛為止白支。其処乎鹿乃見止号支。何如是問給止止可売白支。其処乎止鹿乃淵号支。

 

加奴弥神社(加奴弥社)

三重県伊勢市鹿海町

 

 

 

【倭姫命世記】

従其矢田宮幸行支。

家田田上宮遷幸支。其宮坐時。度会大幡主命。皇太神乃朝御気夕御気処乃御田定奉支。宇遅田々上爾在。名抜穂田是也。

 

24、矢田社

 

矢田宮も家田田上宮もこのあたりに見あたらない。場所からもこのあたりに二つも宮が存在したとは考えにくい。

家田もヤダと読めるところから重複ではないかと思う。

現在家田(やだ)という名を残す唯一の家田地蔵。

 

 

その入り口には神宮神田がある。

 

 

この前に大土御祖(おおつちみおや)神社がある。

 

大土御祖神社 三重県伊勢市楠部町尾崎2132

 

 

またこの近くには家田田上宮の時、大田命が大宮所を奏上した場所と伝えられる皇女の森があり、

そこには大土御祖神社に同座されている宇治乃奴鬼神の社域という碑が立っている。

 

 

宇治乃奴鬼神社社域という碑が立つ、皇女の森。(奈尾之根宮)という説もある。

 

 

 

【倭姫命世記】

従其幸行。奈尾之根宮座給。

 

25、奈尾之根宮(ナオシネノミヤ)

 

宇治山田神社と書いてウジヨウダと読む神社がある。興玉の森の中にある。

同座の那自賣(ナジメ)神社が奈尾之根のなまったものか。

 

宇治山田神社 三重県伊勢市中村町