明智光秀外伝

 山崎の戦いで明智光秀は死なずに天海僧正になったと言われている。その根拠として
1、光秀は村人に殺されたことになっているが、村人が光秀の顔を知っているはずがない。
2、比叡山松禅寺に「慶長二十年奉寄進願主光秀」という石灯籠がある。慶長二十年といえば、山崎の戦いの後である。
3、光秀の位牌のある寺の名前と天海の諡号が同じ「慈眼」。
4、天海の立てた日光東照宮に光秀の家紋の桔梗がたくさんある。
5、3代家光の乳母、春日局が光秀、縁(ユカリ)のものである。
6、家光を二代将軍と書くことによって、家康、家忠の順番にし光秀の名前を隠している。
などがある。しかし、本当の光秀は、小栗栖から三重県の飯南郡に逃げ、そこを乙栗子(オトグルス)と名づけた。また苗字を山崎と改めて、そこで子孫を残した。天保年間までその家は続いたが、山崎金蔵の時、三重県度会郡大内山村の方へ移っていったという。ちなみに山崎家の家紋は明智桔梗だという。さて、どちらが本当か?

 なんて思ってたのだが、光秀死んですぐに首実検が行われているから、落ちのびたと考えるのには無理がありそう。

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