父の癌との闘い

父が喉が痛いといいだした。
風邪とは違う痛みであるという。
そこで慶応病院へ連れて行くとわからないという。
CTを撮ってもらうことになった。
喉には異常なかった。
しかし、そのCTのフィルムの下の方に肺が写っていて、そこに影があった。
喉は異常なかったが、肺への転移がみつかった。
今まで月に一度検査をしていたがみつからなかったものだ。
右肺の下の方に1cm程度の癌だった。
精密に調べてみるともう少し小さいのが1個みつかった。
骨シンチというので他の転移も調べたが異常なかった。
医者は「切り易い場所であるが、CTに写らない小さいのが他にもあるかもしれない。薬で治した方がいいだろう。」という。
ところが、今年中に慶応病院が閉鎖になって、治療を続けることができないらしい。慶応病院から日赤に移ってくれといわれた。
日赤ではインターフェロンαを使うという。慶応でもそれを使っていたので別のものに変えるといっていたのだが、何か話しにくい先生でそのままインターフェロンαを使うことになった。
しばらく入院していたが、自宅で月、水、金曜日に注射をすることになった。
初めは注射針を出す時に指をついたり、神経に当たって抜いてしまったりした。
母が、父は家を建てるのを楽しみにしているので、早く建ててやってほしいといってきた。
まだまだ、建てるつもりはなかったが、母の気持ちもわかるので承諾した。
家は父が見つけてきた会社に頼んだ。すっかり計画は立っているらしい。
僕もまぁまぁいい家だなと思っていた。
設計段階で父の元気がなくなってきた。
そんな時、父は脳梗塞になった。
薬のせいか、気力もなく、ほとんど寝たきりになった。
だんだんとろれつも廻らなくなっていった。
家を建て始めたら張り合いもでて元気になるだろうと考えていたが、建て始めてもひどくなる一方だった。
すでにまっすぐ立てない状態だった。性格も怒りやすくなった。
そんな時、脳梗塞の診察を日赤から近くの町医者に変えた。
薬が変わったのがよかったのか、段々元気になってきた。
少し歩けるようになり、散歩も時々行くようになった。
しかし、体は弱って行くのが目に見えた。
家も完成に近づいたが父は元気がない。
父のもう一つの望みは僕の結婚だろうか?
そんなことを考え、彼女に結婚について話した。
彼女は了承してくれた。
彼女を連れて行くと父は元気になった。
父も結婚の準備で病気どころではなくなってきたらしい。
ろれつも廻るようになり、性格も落ち着いてきたようだ。
しかし、筋肉はおち、立ち上がるのにも時間がかかる。
食欲は極端に減ってきた。
それでも結婚式が終わると随分、元気になった。
彼女が両親と一緒に京都の旅行を計画してくれた。
久しぶりの電車の旅行である。
彼女はテキパキと動いて旅行を成功させてくれた。
父も散歩にも自分で出かけたりしていた。
僕達に子どもができたと報告にいくと「大事にせないかん。」を繰り返した。
元気そうに見えたが、渡瀬温泉に連れて行くと、父が裸で湯船に立ち尽くしていた。
自分では風呂から上がれなくなっていた。
同じ職場の人から食べないとよけいひどくなるよと言われ、看護用の食べ物はどうかと提案しようと家に帰ると父がニコニコしていた。
いいことがあったのかなと思った。
母が僕に耳打ちした。
「癌が消えたって。」
CT検査で先生が「どこ探してもみつからへん。」といったらしい。
まだまだ油断はできないが、父の生命力には驚かされる。