父の癌との闘い

父が今年になってよくお酒に酔うようになった。
お酒には強い人だったので年かなと思っていた。
4月ごろ、ついに倒れてしまった。
病院に行くようにすすめたが酒の飲みすぎやといって行かなかった。
8月10日、クラブから帰ると父が血尿が出て入院したと聞く。
あわてて病院に行くように準備していると
生徒のことで小学校の先生から電話があり長くなってしまった。
そのうちに父が帰ってきた。
入院準備の為に返してくれたとのこと。
その夜、正式に入院した。
はじめは膀胱が悪いのだとばかり思っていたが
内視鏡で見ても綺麗だと言う。
前立腺かなと考えていた。
エコーをとった日、先生がうまく写らなかったと父に言った。
「エコーがうまく写らない?」
僕にはその意味がよくわからなかった。
次の日、CTをとった。
たいした検査じゃなかったと父は安心していたが
病院から帰ると病院からの留守電が入っていた。
話があるので病院へ来てくれとのこと。
急に不安が頭をよぎった。母も不安そうだった。
その不安は的中した。
「腎臓癌」ということだった。
それも10pぐらいになっているという。
それはCTの写真を見てもよくわかった。
それを摘出すると言った。
父にも告知した。
僕が癌だと言っているのに、父は良性やろうと言っていた。
僕たちには平気そうに言っていたが
叔父には「夕べは眠れなかった」とこぼしていたらしい。
とにかく神に祈るしかなかった。
「なにか解決策を教えて下さい。」
すると新聞に「アガリクス茸」の文字
癌にはアガリクスが有効だという。
見舞いにきてくれた叔母を送りにいったついでに
書店へ行った。
たくさんの癌の本があった。
アガリクスの本を一冊買って帰った。
母がさっそくアガリクスを注文してくれと言った。
しかし、何がいいかわからなかったので
インターネットで調べた。
そのうちどれも怪しげに思えてきた。
そんなとき、父が外出許可をもらって帰ってきた。
父にも話をするとアガリクスを飲むという。
父を病院へ送ってから薬局へ行った。
アガリクス茸の製品が4つあった。
そのうちレトルトパックのものとお茶を買ってきた。
父は病院でお茶を飲むように言われていたので
どうせならアガリクスのお茶がいいだろうという判断だった。
家に帰ってインターネットで調べて見ると
韓国に「MESIMA」という癌の薬があるという。
ちょうどうちの学校の職員旅行は韓国だった。
しかし、教科書問題や靖国神社参拝の問題であまりいきたくなかった。
そんな時、父の入院だったので断るつもりでいた。
しかし「MESIMA」を手にいれるチャンス。
二日後、韓国へ旅だった。
他の先生たちは眼鏡などを見ていたので
一人で薬探しをした。
なかなか薬局がみつからない。
道を聞いてもよくわからない。
やっと見つけた薬局で「MESIMA」を注文した。
しかし、全然言葉が通じない。
英語で話したり漢文を書いたりしたが結局なかった。
また薬局を探して「MESIMA」というと今度はすぐに通じた。
値段を聞くと280000ウォン。
日本円でいいかというとウォンで支払えという。
どう説得したか覚えていないがとりあえず日本円で支払いをした。
買ったあと、すごい汗をかいていた。
しかし「MESIMA」は、いかにも薬っぽくて父に飲ませる気になれなかった。
父にはアガリクスを通常の二倍、後、アガリクス茶を何杯も飲ませた。
手術を前に父の血尿も止まり、父は安心しているようだったが
僕達は逆に不安だった。
クラブの最中、母から電話があった。
病院が来てくれと連絡してきたという。
三時からということでクラブだけ終え、病院へ行った。
先生の話では癌は脾臓から血液を採っていて
脾臓を取らなければいけないとのことだった。
また、すい臓も尾の方を一部切るとのことだった。
脾臓はともかく、すい臓を切ると言うのは僕にはショックだった。
8月30日クラブの試合を他の先生に頼んで手術に付き添った。
父は自分でもわりと平気やと言って手術室に入っていった。
4時間で終わると聞いていた。
しかし、5時間経っても、6時間経っても連絡はない。
これは他の臓器も切っとんのかなと考えていた。
7時間後、手術室前に来てくれと連絡があった。
中から先生が出てきた。
摘出された大きな腎臓があった。
半分に切ってあって中は真っ白だった。
「脾臓からもすい臓からもうまく剥げました。」
しばらく意味を理解するのに時間がかかった。
腎臓の摘出だけでよかったのだ。
集中治療室に入ると父が目を覚ました。
「痛い、痛い」の連呼。
看護婦さんが座薬を入れますねというと
「なんでもして」と言った。
こんな父を見るのは始めてだった。
次の朝、面会に入っていくと
「お茶を飲みたい」
とまた、ワガママ。
酸素マスクも取られた。
その日、看護婦さんが
「今晩は、救急の番にこの病院がなってますので夜、集中治療室を空けてもらわないかんかも」
と言われた。
夜では騒々しいので夕方のうちに個室に移してもらった。
しかし、父は痛み止めの作用で僕と話をしていても眠ってしまう。
9月1日学校が始まる。
午前中は病院へ行けなかったが、一度ベッドから立ってみたという。
すごい回復力やなと驚きながら午後から父に会いに行く。
「今日は立ったんやって」
「もう、立たへん。痛かった。傷口開いたかも。」
と弱気なことを言っていた。
「そんなことで開くか。」
というと、「そうか」と安心していた。
その日のうちにガスが出た。
やはり、うちの父はただ者ではない。