天若日子伝説について

 

目次

はじめに

第一章 研究史

第二章 新嘗の反映について

第三章 成年式の反映について

第四章 「不死」について

第五章 似ることについて

おわりに

 

はじめに

 

 高御産巣日神(注1)と天照大御神は、中つ国の荒ぶる国つ神を服従させるように天菩比神に命じる。しかし天菩比神は復命しなかった。次に天若日子に命じるが、天若日子も中つ国に住みついてしまう。そこで今度は、雉に様子を見に行かせる。ところが、天若日子は、その雉を高御産巣日神より授かった矢で、射殺してしまう。その矢は、雉の体を突き抜けて、高御産巣日神の許に届いた。不審に思った高御産巣日神が、その矢を投げ返したところ、その矢は天若日子に当たり、天若日子は死んでしまう。天若日子のために葬儀が行われ、そこに阿遅志貴高日子根神が弔いに来る。ところが、阿遅志貴高日子根神は天若日子と容姿が似ていたため、天若日子と見間違えられてしまう。死人と間違えられた阿遅志貴高日子根神は怒って立ち去ってしまう。

 以上が、国譲り神話の初めを飾る天若日子伝説の概略である。この伝説の中の天若日子と阿遅志貴高日子根神が見間違えられたことについて、もともと二柱の神は、同一神であったのではないかということが言われている。

 そこで本稿では、天若日子伝説にそのような要素があるのか諸説を検討しながら、様々な観点から考察してみたい。

 

第一章 研究史

 

 天若日子と阿遅志貴高日子根神の関係については、諸説がある。

 まず、尾崎知光氏は、『古事記』にも『日本書紀』にも二柱の神が、「相似」ていると記されているところから、

  實は同一神の二面を代表したものであつたのではなからうか(注2)

と述べている。

 続いて、高崎正秀氏は、

  日本紀の本文は「返し矢畏るべし」といふ諺の本縁を説いて、天稚彦の死を語る処を「時に天稚彦、新嘗して休臥せる時なり」とある。これ が即ちやすむ――枕詞「安見しゝ」や大安殿・小安殿・御息所などの――の根源的な意味をなす休臥であるが、新嘗は要するに、新たなる日の御子神の天降り――復活再生の聖儀礼であった(注3)

として、天若日子が、新嘗をすることにより強力に御魂触りして復活し、阿遅志貴高日子根神となったと述べている。つまり、新嘗は、復活再生の聖儀礼であり、その最中に殺された天若日子には、復活再生する力があったのだという考えである。また松前健氏も

  ホノニニギノ尊が、マドコオフスマに包まれて天降って来たことも、穀霊が物忌みを通して新しく生れて来たという新嘗の祭の思想を表わしている。ワカヒコが忌み籠りして殺され、その喪屋にアヂスキタカヒコネが弔問する話は、ワカヒコが物忌みをして、復活した形がアヂスキタカヒコネだとも考えることが出来る(注4)

として、同様のことを述べている。更に山上伊豆母氏は、その考えを発展させて、

  青年の誕生は少年期の死によって始まることは、通過儀礼の原則である。アヂスキという修飾句をとり除いた神名「高日子」は、その成人と  しての命名であらう(注5)

と述べている。即ち天若日子が矢に当たって死ぬというのは、通過儀礼の儀式であり、この話が、成年式の通過儀礼を反映してできているという説である。

 この天若日子伝説が、天若日子と阿遅志貴高日子根神の同一性を表しているという説は、他にも、尾崎暢殃氏(注6)、武谷久雄氏(注7)、石上七鞘氏(注8)、萩原浅男氏(注9)、吉井巌氏(注10)、熊谷春樹氏(注11)、中西進氏(注12)、栗原隆氏(注13)、中鹽C臣氏(注14)、大前栄美子氏(注15)らが述べている。その中でも、大久間喜一郎氏は、

  死と復活を暗示する説話に違いない(注16)

とし、また西郷信綱氏も

  いうまでもなく復活思想を後世的に神話化したものである(注17)

として、この説を当然であるように述べている。

 ところで、阿遅志貴高日子根神が、天若日子の死によって生まれた神でないことは、『出雲風土記』の仁多郡の条に

  大神大穴持命御子 阿遅須枳高日子命御須髪八握于生 晝夜哭坐之 辭不通(注18)

と、生まれてから鬚が、八握になるまで泣いていたと記していることからわかる。

 では、天若日子伝説は、天若日子が復活するという所伝の変形したものであったのであろうか。また、それは、新嘗祭や成人式の通過儀礼を反映したものであったのだろうか。そこでまず、その反映したものという考えから検討してみたい。

 

 注

1、神名の表記は、古典や論文の引用意外では、『古事記』の表記を使用し、『古事記』の中でも、表記が変わったものについては、「天若日子」の条に初めて使われた表記を使用することを原則とする。また漢字も、古典や論文の引用、人名以外は、現代表記を使用する。また、書名も現代表記で統一した。

2、「記紀歌謡覚え書――天稚彦神話と歌謡に関する仮説――」(『国語と国文学』30巻2号、至文堂、昭和28.2、四頁)

3、「柿本人麿終焉歌とその周辺」(『国学院雑誌』第57巻第6号、昭和31.12、八七頁)

4、『日本神話の新研究』(桜風社、昭和35.8、二三六頁)同様のことを「天若日子神話考」(『国学院雑誌』第63巻第9号、昭和37.9、一六六頁)でも述べている。

5、「味耜高彦根神と神戸剣」(『神道学』第66号、神道学会、昭和45.8、一一頁)

6、『古事記全講』(加藤中道館、昭和41.4、一九九頁)

7、笠間叢書第20巻『古代氏族伝承の研究』(笠間書院、昭和46.6、一二二頁)

8、「賀茂の伝承」(『国学院大学大学院紀要』第3輯、昭和47.3、一三七頁)

9、「天若日子神話所見の美濃国なる『喪山』考――その所在と伝承の背景――」(『千葉大学人文研究』3号、昭和49.3、二頁)

10、「天若日子の伝承について」(『境田教授喜寿記念論文集上代の文学と言語』、境田教授喜寿記念論文集刊行会、昭和49.11、七四頁)

11、「葬礼と挽歌――天若日子葬儀と夷曲――」(『国学院雑誌』第77巻第7号、昭和51,7、三六頁)

12、古事記を読む2『天降った神々』(角川書店、昭和60.12、二七頁)

13、「天若日子説話と遊部――「遊」の構造を中心として――」(『国学院雑誌』第89巻第2号、昭和63.2、六九頁)

14、「女神考」(『古事記大成』第5巻、平凡社、昭和33.12、二一六頁)

15、「原新嘗祭と殯宮儀礼――その相関関係と相互発展の過程――」(『日本書紀研究』第十四冊、塙書房、昭和62.2、七五頁)

16、「天なるや弟たちばな考――夷曲とその周辺――」(『明治大学教養論集』第69号、昭和45.2、四一頁)

17、「鎮魂論――劇の発生に関する一試論――」(『古事記大成』第2巻、平凡社、昭和32.4、二二〇頁)

18、日本古典文学大系2『風土記』(岩波書店、昭和33.4)より引用(二二六頁)

 

第二章 新嘗の反映について

 

 天若日子が新嘗をしたと記しているのは、『日本書紀』の本文に

   于時、天稚彦、新嘗休臥之時也(注19)

とあるだけで、『日本書紀』の本文以外に天若日子伝説を伝えている『古事記』や『日本書紀』の「一書」にはそのところを

   中天若日子寝朝床之高胸坂以死(注20)

   中于天稚彦之高胸(注21)

として、新嘗をしたということは伝えていない。それではどちらの話が古いのであろうか。

 この三つの天若日子伝説について、諸説を見てみると、まず津田左右吉は、「一書」について、天若日子伝説には関係のない「夷振」歌が記されていることと、中つ国の荒ぶる国つ神は、宗教的意義での邪心であり、天若日子がその国つ神を娶ったと記していることから、『古事記』の話よりも更に後に潤色された点があるとしながらも、本来は比較的古い形の話であったとしている。(注22)また、

   古事記や書紀の本文のやうな物語がもとになり、それを改作することによつて上記の「一書」の説話が形づくられたと見るのは、説話の潤色者の心理として、困難ではあるまいか。(注23)

として、『古事記』や『日本書紀』の本文よりも「一書」の方が前の段階であると述べている。

 津田左右吉が潤色であるとした「夷振」歌について、土橋寛氏は、

   「天離る 夷つ女」の歌にしても、単に喪に集うた者の歌というだけでは、物語とどう結びつくか見当もつかないが、『古事記』や別伝においては、「目ろ寄しに 寄し寄り来ね」の句は、下照媛が味耜高彦根神を見まちがえた「衆人」に対して、目を寄せてよく見よ、と訓した歌と解され、本文よりは筋が通るのである(注24)

として、「夷振」歌は、もともと『古事記』や「一書」のような所伝をもって伝えられていたが、『日本書紀』の本文のほうは、所伝に手を加えたために、歌と物語が合わなくなってしまったのだと述べている。更に、服部旦氏は、天若日子の諸伝承を比較し、『日本書紀』の本文が、三熊之大人を天菩比神の子として登場させていること、つまり天菩比神の登場は、天若日子伝説と大国主神を結び付けようという作為が見られ、その子にも現れる場を与えていること、『古事記』を参考踏襲している点があること、つまり『古事記』の伝承を大体は継承しながら、『古事記』の伝承の矛盾を修正、合理化している点が見られること、雉の名称が、『古事記』の伝承の誤解によるものらしいこと、つまり「鳴女」を「無き名」と誤解したと見られることの三点から、その成立が、『古事記』や「一書」よりも新しいとしている。(注25)

 以上のことから考えると、『日本書紀』の本文の伝承は、比較的新しいものであり、『古事記』や「一書」の方が、原形をとどめているように思われる。

 では、そのことについて、私は新嘗の行事から確かめて見たい。

 新嘗について柳田國男は、その「新」の原義を考え、産屋を表す、ニホ・ニフ・ニュウという語から来ているのではないかと述べている。(注26)このことをふまえて、三品彰英氏は、

   稲と人間の産屋が語源的に一つの原始的観念から出たものとするならば、ニフナメは本来、女性の行なう儀礼であったのであり、神話の語るニヒナメがアマテラス大神・ワカヒルメあるいは、神吾田鹿葦津姫の実修する神事であり、それがまたホノニニギノミコトないしはヒコホホデミノミコトたちの出誕する前提であったことも充分に理解できる(注27)

として、新嘗の行事は、古くから女性が実修者であったことを述べている。また、『万葉集』の東歌に

   尓保杼里能 可豆思加和世乎 尓倍須登毛 曽能可奈之伎乎 刀尓多弖米也母 (三三八六)

   多礼曽許能 屋能戸於曽夫流 尓布奈未尓 和我世乎夜里弖 伊波布許能戸乎 (三四六〇)(注28)

とあり、これを折口信夫は

   この民謡は女が作つたものか、男が作つたものかはわからぬが、歌の上の待つ者は女であるはずだ(注29)

と述べている。またこのことについて、三品彰英氏は

   神話の語る新嘗にしても、東国地方の民俗においても、ニヒナメの実修者は女性、特に妻・主婦であったが、後代の朝廷における新嘗・大嘗は天皇の行なう式典となっている(注30)

として、新嘗の実修者は女性であったが後代になって天皇が、行うものになったと述べている。また坂橋隆司氏も同様に

   下総の国の歌が、人々の口に歌われていた頃は、まだまだ新嘗の実修者は女性、特に妻であり主婦であったようである(注31)

と述べている。

 このように見ていくと、古代の新嘗は、女性が、実修者であったようである。天若日子は、「日子」という名からもわかるとおり、男性である。このことから天若日子が新嘗をするという話は、比較的新しい話であることがわかる。少なくとも天若日子伝説は、天照大御神の新嘗の神話と神吾田鹿葦津姫の新嘗をする神話との間に語られているけれども、それら二つの神話よりは、新しいことになる。しかし、この天若日子伝説には、異伝が見られるので、新しいものだとは考えにくい。このことから考えると、新しいのは天若日子伝説ではなく、『日本書紀』の本文に記された天若日子が新嘗をするという話が新しいと思われる。そうすると、天若日子伝説の原形には、新嘗をする話は存在しなかったと考えられる。従って天若日子が新嘗をしたという所伝から、天若日子に復活の要素があったということは、言えない。

 それではなぜ、『日本書紀』の本文には、天若日子が新嘗をしたと記されているのだろうか。

 そこで注目したいのは、『日本書紀』の本文にある、天若日子が天降りをした時の

   吾亦欲馭葦原中國(注32)

という言葉である。これを『古事記』では

   亦慮獲其國(注33)

としており、「一書」には、このことは記されていない。

 『日本書紀』の本文に見られる「馭」と『古事記』に見られる「獲」とでは、意味が違ってくる。つまり「馭」というのは、その国を統治すること、即ち天皇になることを意味している。これに対して「獲」は単に手に入れるという意味であり、「馭」ほどの意味をもたない。すると「馭」というのも、『日本書紀』の本文だけの所伝ということになる。新嘗をする話は、実はこの「馭」に対応して語られたのではないだろうか。つまり、天若日子は、天皇の位をねらっていたわけであり、そのことを達成するための新嘗であったように思われる。このことから、『日本書紀』の本文に記された天若日子が新嘗をするという話は、単に天若日子を天命に背いた者であるというだけでなく、天皇の位をねらう奸賊に仕立てあげるための作為であったと思われる。

 いずれにしても、資格の無い天若日子が、天皇になれるはずはなく、『日本書紀』の本文に記されている「新嘗」という言葉にも、復活の意図はなかったと考えられる。

 

19、日本古典文学大系67『日本書紀上』(岩波書店、昭和42.3)より引用(一三七頁)

20、日本古典文学大系1『古事記祝詞』(岩波書店、昭和33.6)より引用(一一六頁)

21、注19(一四五頁)

22、『日本古典の研究上』(『津田左右吉全集』第一巻、岩波書店、昭和38.10、四九六〜五〇一頁)

23、注22(五〇二頁)

24、日本古典評釈全注釈叢書『古代歌謡全注釈日本書紀編』(角川書店、昭和51.8、二三頁)

25、「天若日子神話――成立順序・成立過程・資料性――」(『中央大学国文』10号、昭和41.9、三二頁)

26、「稲の産屋」(『新嘗の研究』第1巻、創元社、昭和28.11、二二頁)

27、『三品彰英論文集』第5巻(平凡社、昭和48.12、四三二〜四三三頁)

28、日本古典文学大系4〜7『万葉集一〜四』(岩波書店、昭和32.5、昭和34.9、昭和35.10、昭和37.5)より引用。括弧内は国歌大観番号。(三巻、四一六・四三二頁)

29、「新嘗と東歌」(『新嘗の研究』第1巻、創元社、昭和28.11、七二頁)

30、注27(四三四頁)

31、「践祚大嘗祭と『古事記』」(『野州国文学』24号、国学院大学栃木短期大学国文学会、昭和54.11、五八頁)

32、注19(一三五頁)

33、注20(一一二頁)

 

第三章 成年式の反映について   

 次に、天若日子伝説に、成年式の通過儀礼が反映しているか見ていきたい。

 成年式の通過儀礼が反映していると考える時、疑問に感じられるのは、そこに成長が見られないことである。つまり、成年式の通過儀礼の前後には、成長が伴うはずであるのに、この伝説には、阿遅志貴高日子根神が、天若日子に見間違えられたという所伝が見られる。それは二柱の神が「相似」ていたためであるが、もしこれが成年式の通過儀礼を反映しているのなら、「相似」ているということは、変化が見られないことを意味し、成長が見られるとは言い難い。

 そこで、成年式の通過儀礼の前後では一般的にどのような変化が見られるのかということについて見てみたい。

 成年式の儀礼を終えた成人について、竹中信常氏は、

   「一人前になった」ということは、現実的には一体どのような形で考えられているであろうか。このことは色々の角度からみることが出来るが、宗教学の立場からこれを規定してみると、それは結婚可能の限界に達したことと、祭儀に参与し得るようになったことの二つに要約することができる(注34)

としている。また三品彰英氏もサエノ神の行事や、盆踊りの習俗が、成年加入式の名残りだとして、サエノ神が、性的な神としての機能を持つこと、つまりサエノ神の祠は、性器崇拝のところであること、また盆踊りの踊りの後に、一種の性的開放が続くことを挙げて、大人の世界への加入は、性的生活の公認である(注35)

   即位式は成年式の特殊化されたものであり、成年式を経ることは性の開放、つまり結婚の資格をうることをも意味したのだから、即位が結婚をふくむのは当然である。(注36

と述べている。これらの話から判断すると成年式の通過儀礼の前後では、性的生活の公認がされているか、いないかの違いがあることがわかる。つまりそのことは、成年式の通過儀礼前の者は、未婚者でなくてはならないことになる。

 そこでこのことを天若日子に見ていくことにする。

 『古事記』には、天若日子が天より降った時のことを

   於是天若日子、降到其國、即娶大國主神之女、下照火賣(注37)

としている。また、天若日子の葬儀の時のことを

   於是在天、天若日子之父、天津國玉神、及其妻子聞而(注38)

としている。またこの二つのことを『日本書紀』の本文では

   來到即娶顕國玉之女子下照姫(注39)

   故天稚彦親属妻子皆謂(注40)

としており、「一書」では、

   天稚彦受勅來降、則多娶國神女子(注41)

   時天稚彦之妻子、従天降來(注42)

と記している。これら三つの天若日子伝説を見てみると、すべてに天若日子には、天にも地上にも妻がいたことがわかる。このことは天若日子が結婚を経験していることを意味しており、それから考えると、天若日子はすでに成人していることになる。

 また、松村武雄氏は

   成年式の儀禮を構成する主要素の一は、或る人物が該儀禮に於ける司會者として、この入信式を受ける若者にさまざまの難事を課して、成年となる資格を有するか否かを檢定することである(注43)

として、大国主神神話に於ける須佐之男命がその司会者にあたり、大国主神は、成年式の通過儀礼を行ったと述べている。では、天若日子はどうであろうか。天若日子を地上に派遣したのが、高御産巣日神と天照大御神であることから考えると、司会者になるとすれば、この二柱の神である。しかし天若日子は、天命に背き、しかも高御産巣日神の返し矢で死んだのであるから、成年となる資格はなかったと考えられる。

 以上、見てきた通り、天若日子は、成人しており、成年式の通過儀礼とは考えにくい。また、もし成年式の通過儀礼が反映していたとしても、天若日子には、その資格がなく、復活したとは考えられない。  

34、『宗教儀礼の研究』(青山書院、昭和35.6、二〇〇頁)

35、『三品彰英論文集』第6巻(平凡社、昭和49.8、四三一頁)

36、『古事記の世界』(岩波書店、昭和42.9、一五三頁)

37、注20(一一二頁)

38、注20(一一六頁)

39、注19(一三五頁)

40、注19(一三七頁)

41、注19(一四三頁)

42、注19(一四五頁)

43、『日本神話の研究』第三巻(培風館、昭和30.11、三〇五頁)

 

第四章 「不死」について

 

 天若日子は、高御産巣日神の返し矢によって死ぬ。このことを『日本書紀』では、本文、「一書」ともに

   此世人所謂、反矢可畏之縁也(注44)

としている。もし復活の信仰があったとするならば、「反矢可畏」という話の意味が消えてしまうことになる。

 更に、天若日子伝説は、生きている者が死んだ者と間違えられることが、忌み嫌うべきことであるという由来が伝えられた神話であるから、復活を意味していたとするならば、この話の意味自体が、消えてしまうことになり、阿遅志貴高日子根神が怒って去ってしまう理由もわからなくなってしまう。

 それでは、天若日子に復活の要素が本当にあったのだろうか。復活したと誤認されることは、復活したとなす信仰が変化したものと言えるだろうか。その前に阿遅志貴高日子根神は、天若日子が復活したと誤認されているだろうかということを考えていく必要がある。そこで、阿遅志貴高日子根神が天若日子の復活した姿と見間違えられたとされているところについて見ていきたい。

 『古事記』によると、天若日子の父、天津国玉神は、阿遅志貴高日子根神を見間違えた時、

   不死有祁理(注45)

と言っている。ここで注目したいのは、「不死」という言葉を使った点である。はたして蘇った者に対して「不死」という言葉を使うだろうか。

『古事記』に出てくる蘇生を意味する言葉としては、伊邪那岐命が、黄泉国へ行った伊邪那美命に対して言った

   故、可還(注46)

の「還」や大国主神が、八十神に迫害を受けて死に、神産巣日神のはからいで、復活した時の

   令作活(注47)

   而取出活(注48)

の「活」がある。しかし、「不死」という言葉は、『古事記』では、他に例がない。

 そこで、『古事記』以外で「不死」という言葉を見ると、『日本書紀』の垂仁天皇の二八年の条に、倭彦命の殉死者の話があり、そこに

   數日不死。晝夜泣吟(注49)

とある。ここでは、日が経っても生きながらえて、昼夜泣いていたという意味で、「不死」は、生きながらえるという事を意味している。

 また、『万葉集』を見ると

   君家尓 吾住坂乃 家道乎毛 吾者不忘命不死者(五〇四)(注50)

   塩滿者 水沫尓浮 細砂裳 吾者生鹿 戀者不死而(二七三四)(注51)

   外目毛 君之光儀乎 見而者社 吾戀山目 命不死者(二八八三)(注52)

   妹待跡 三笠乃山之 山菅之 不止八將戀 命不死者(三〇六六)(注53)

の四首に「不死」が見られる。ここで使われている「不死」も、すべて、生きながらえるということを意味している。

 このように「不死」には、生きながらえるという意味があったと思われる。それならば、蘇生とは意味が違ってくることになる。

 そこで次に『日本書紀』では、この部分をどう記しているか見てみると、本文、「一書」ともに

   吾君猶在(注54)

と言っている。『日本書紀』には、この二例以外には、「猶在」は見えない。しかし、神代上の天照大御神の天磐戸隠れの条の第二の「一書」に

   其瑕於今猶存(注55)

と、「猶存」の文字が見える。その傷は、今も残っているという意味で使われている。

 このことから考えると、『日本書紀』の「猶在」にも、蘇生を意味する要素はないように思われる。

 それではなぜ、生きながらえるという意味の言葉が使われたのであろうか。

 『古事記』によると、高御産巣日神は、返し矢を投げる時、

   或有邪心者 天若日子 於此矢麻賀禮(注56)

と言っている。「麻賀禮」というのは、当たって死んでしまえという意味であり、このことから考えると、この「麻賀禮」に対して、生きながらえるという意味の「不死」が使われたのではないだろうか。つまり、天若日子が生きながらえているということは、邪き心がなかったことを意味し、それを天津国玉神が喜んだのだと考えられる。『日本書紀』の本文では、その伝承はないが、「一書」には

   若以惡心射者、則天稚彦、必當遭害。若以平心射者、則當無恙(注57)

とあり、同様のことが言える。

 以上のことにより、天若日子伝説では、阿遅志貴高日子根神を、天若日子が蘇生した姿に間違えたとはしていない事がわかる。従ってこの話が、復活をなす信仰の話から、変化したものだとはいえない。

 

44、注19(一三七、一四五頁)「一書」では「反」が「返」になっている。

45、注20(一一六頁)

46、注20(六四頁)

47、注20(九四頁)

48、注20(九四頁)

49、注19(二七三頁)

50、注28(一巻、二四六頁)

51、注28(三巻、二三〇頁)

52、注28(三巻、二六六頁)

53、注28(三巻、二九八頁)

54、注19(一三七、一四五頁)

55、注19(一一七頁)

56、注20(一一六頁)

57、注19(一四五頁)

 

第五章 似ることについて

 

 次に似ていることで、復活したという所伝が変化したといえるかどうか見ていきたい。

 『万葉集』に

   天飛也 輕路者 吾妹兒之 里尓思有者懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 眞根久徃者 人應知見 狹根葛 後毛將相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣淵之 隱耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隱如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使之言者 梓弓 聲尓聞而 將言爲便 世武爲便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 輕市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者爲便乎無見 妹之名喚而 袖曾振鶴(二〇七)(注58)

という歌がある。また

   河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶(四二五)(注59)

という歌がある。この二首の歌はともに、せめて死んだ人に似た人にでも会えないかということを歌っている。それは、他人でもいいから、似た人を探して、自分の感情を抑えようというものである。当時の人のこの考えは、天若日子の葬儀が、あれほど詳しく書かれていることから考えても、伝説に反映していたと考えることができる。葬儀が、生き返ることを期待して行われるのは当然であるが、そこに似た者が現れた話があるからといって、復活したという所伝が変化したものだと考えるのは、早計であるように思われる。

 そこで、今度は、なぜ阿遅志貴高日子根神が死者と間違えられたのかということについて見ていきたい。

 阿遅志貴高日子根神については、『古事記』『日本書紀』以外では、『出雲国風土記』の意宇郡の条、楯縫郡の条、神門郡の条、仁多郡の条、『播磨国風土記』の神前郡の条、『釈日本紀』に引用されている『土佐国風土記』の土佐郡の条、『出雲国造神賀詞』に、その名が見える。注目すべきは、『釈日本紀』に引用されている『土佐国風土記』の記事である。

 『土佐国風土記』は、現存しておらず、『釈日本紀』に引用されているのみである。その資料性については、『釈日本紀』の引用が、他の引用文を見ると、そのままの原文で引用していることがわかる。このことから、かなり信用がおけると考えられる。その『釈日本紀』に

   土佐國風土記曰。土佐郡。〃家西去四里有土佐高賀茂大社。其神名爲一言主尊。其祖未詳。一説曰、大穴六道尊子、味?高彦根尊(注60)

と二ヶ所引用されている。一言主尊(注61)という神は、『古事記』の神代の巻には、姿を見せないが、雄略天皇が、葛城山に登った時に、山に現れたことを記している。その様子を

   彼時。有其自所向之山尾登山上人。既等天皇之齒鹵簿亦其裝束之状。及人衆相似不傾。爾天皇望。令問曰。於茲倭國除吾亦無王。今誰人如此而行。即答曰之状。亦如天皇之命。於是天皇大忿而矢刺。(注62)

として、姿が全く天皇と似ていたとしている。しかし、似ていたのは、姿だけでなく、言動も同じであったと記されている。このことは、一言主尊が、天皇に似ていたのではなく、似てしまう性格があったのではないかと考えさせる。この一言主尊が、『土佐国風土記』に一説によると阿遅志貴高日子根神であるということが書かれている。この同一神説について、宮地直一氏は、

   ともに大和の葛木に祀られて所在の接近するだけでなく、兩神の間に於ても高鴨の稱を共通にし、時に同一神にましますかと思はせる程に、相混淆した間柄に居られる(注63)

として、明らかに別神であるが、性格は似ていたということを述べている。この共通する性格が、人に似てしまう性格ではないだろうか。以上の様に考えてみると、阿遅志貴高日子根神が天若日子に似ていたのは、阿遅志貴高日子根神に似てしまう性格があったからであると考えられないだろうか。するとやはり、、似ていたということで、天若日子が復活する所伝の変化したものであるとする事には無理を感じる。

 

58、注28(一巻、一一四、一一六頁)

59、注28(一巻、二〇四頁)

60、神道大系古典註釈編五『釈日本紀』(神道大系編纂会、昭和61.12、二九〇・三六八頁)より引用。

61、『古事記』では、「一言主大神」と記されているが、『土佐国風土記」の内容を説明するため「一言主尊」で統一する。

62、注20(三一六頁)

63、「土佐国風土記逸文の発見」(『史学雑誌』第55編第7号、山川出版社、昭和19.7、一九頁)

 

おわりに

 

 このように様々な観点から考えてみたが、いずれも天若日子伝説に復活を意味する要素は見られず、またそういった所伝からの変化とも認めにくい。

 天若日子伝説が阿遅志貴高日子根神の登場で終わっていることから考えると、阿遅志貴高日子根神を登場させることが天若日子の目的であったと思われる。つまり、天若日子伝説は、天若日子が天降る神話に阿遅志貴高日子根神の人に似る性格を利用して登場させたのだといえよう。

 今後の問題としては、阿遅志貴高日子根神の登場の必要性なども検討しなければならない。また、「夷振」歌の解釈や天若日子と七夕の関係など天若日子伝説については、まだまだ研究課題が残っている。しかしそれらの問題においても、天若日子の復活は大きく影響しており、中には復活を前提に論を展開しているものも見られる。この当たり前に思われている説にもまだまだ問題があるということが本稿で実証できたのではないだろうか。

 

終了

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