「父のアルバム」井上氏作(No.81〜No.85)

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父のアルバム 2004.01.01  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 81  小学6年生のクラスメート  私たち昭和22年生まれは昭和34年の伊勢湾台風のため6年生の校舎が倒壊してしまい、浜島中学校の教室を間借りして勉強をしていた頃のもので、それまで昼食は家に帰って食べていましたが、弁当を持って通学しました。私の記憶では新校舎が完成する迄に昭和22、23、24年生まれの学童が中学校で勉強して、24年生まれの弟は途中から新校舎で勉強をしたと覚えています。  私たちの時代はクラス全員の記念写真のほかは、女生徒と一緒に写真を写すことなどめったに無く、この写真がどのような事情で誰に写してもらったのか全く記憶になく、多分先生の誰かが写してくれたのでしょう。私のアルバムにある娘が学校等での写真を見ると、小学校から大学までどれもかも男子とダンゴになって写り、その手はかならずお約束のようにピースをしています。  写っているのは修くん、文俊くん、要くん、秀行くん、哲央くん、志仁くん、そして私で、後ろの二人の女性は64でも紹介しました左が西飯美也子さん、右が柴原よし子さんで両人とも近所の岩崎にお宅がありました。  場所はたぶん浜島中学校運動場の最東端で舟は中学校所有の和舟だったかと思います。写真の左手が菅田で二つ目の護岸堤の奥に、丸い形をした我家の田があるはずですが、先日、護岸堤の上まで行って見ましたが雑木で阻まれ、奥へ入って行くことは出来ませんでした。  背後の海岸は田杭浦でその後方は現在の汐見成だと思いますが、当時は道路の奥は谷に沿って汐止めの溜池と田んぼがあるだけでした。以前にも書きましたが私はこの地を汐見成と呼んだ記憶が無く、姪が住んでいると聞いても場所がわかりませんでした。汐見成団地の信号を少し浜島方向に行った道路の西側は段々畑で山に上り、東側は深い谷になっていて降りてゆく道が有り下は田んぼになっていましたが、今は埋め立てられて住宅地になっています。  この中学校の周囲は菅田、広見、田杭などと呼ばれていますが、すべて塩屋地区だと母から教えられました。勿論、現在の汐見成団地も。  2004年最初の「父のアルバム」投稿です。  本年もお世話になります。
父のアルバム 2004.01.03  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 82  小学6年生の同窓生  この写真も誰に写してもらったのか覚えていませんが、場所は背景からたぶん浜島中学校だと思いますが、もしかしたら岩崎の海岸かも知れません。私たち浜島中学校16回卒業生は40歳のとき山崎先生、作田先生、山下先生を、50歳のとき山崎先生、作田先生をお招きして同窓会を開催しましたが卒業生全員が集うには程遠い状況ですが、それでも有志が集まり「十六夜会(イザヨイカイ)」なる会をつくり周期的に集まって旧交を温めているとのことです。  中学校卒業時、担任だった作田昊先生が言った「友達を大事にするように、このなかでもう一生会えなくなる人もいるのだから」と話された言葉がまだ頭に残っています。既に同窓では昭和39年3月オーストラリア西方での第3幸喜丸の遭難により二人亡くなられ、また病気により数人の方が鬼籍に入られてしまったと聞きおよんでいます。  写真左から哲央くん、嘉市くん、博文くん、正彦くん、薫くん、正守くんと前にいるのは私と阪東の稔之くんで、彼には悪いのですが運動能力に劣る私が徒競走でドベをとらずに済んだのは、ひとえに彼のおかげでした。哲央くんはお父上様が銀行マンで転勤が多く、途中で転校してきて私と容姿がよく似ていたようで、母は間違えて呼び止めたことがありました。またお父上様には私の長姉が結婚のときに仲人の労をとっていただきました。嘉市くんは伸くんとマラソンが得意で、博文くんはみなもとや食堂の弘和くんと共に一番気が合う友で、正彦くんとは盆踊りで会いお互いの亡父の遺稿本を交換しました。稔之くんの家は映画館浜島座を経営していました。
父のアルバム

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2004.01.06  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 83  昭和の始めころの志摩郡陸上競技大会記念写真  大正8年生まれの母は尋常高等小学校時代に身体も大柄で足が速く、志摩郡の陸上競技大会に何度か出場したそうで、長兄と弟は母の能力を引き継ぎ足が早かったのですが、私は残念ながらその恩恵には預からず、後ろから数えるほうが早い位置を何時も走っていましたが、どうしたことか小学校上級生のときに障害物競走では、二度ほど一等を取ったことがありました。  二人の姉はどうだったか聞いていませんが、次姉の通信簿を見たことがありますが殆どの学年でオール5だったので、多分次姉も足が早かったのでしょう。  一度父と弟の三人で長兄が出場した、郡の陸上競技大会を見に鵜方の文岡中学校へ行ったことがあるので、母のこの写真も文岡中学校の校庭かも知れないと思っていましたが、母に聞いたところその場所を覚えていて和具の志摩水産学校(現志摩水産高等学校)の運動場だったそうです。  母は生来髪の毛が太くて多かったため、走る時に邪魔になると当時の校長先生から後頭部の髪を切れと言われ、その部分をもとから切り周りから髪を束ねて後ろで縛り、わからないようにしたと言っていましたが、今の時代に先生が女生徒にこのようなことを言ったら人権蹂躙だと大問題になるでしょう。
父のアルバム 2004.01.10  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 84  昭和初期の学生服 1/2  私の父は浜島尋常高等小学校高等科を卒業後、昭和4年に宇治山田市の私立井上速算学校に、引き続き私立商工実務学校に入学し簿記や測量を学んだそうで、その頃の生徒の姿がうかがわれますが、学生帽に和服と袴姿が多かったようで、写真では学生服の生徒も見えますが、別の全員写真では圧倒的に和服の生徒が多く写っています。
父のアルバム 2004.01.13  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 85 昭和初期の学生服 2/2 同じく私の父が宇治山田市の井上速算学校在学時と思われる二態で、当時の詰襟学生服は黒ではなかったのか、それとも夏冬での違いでしょうか。私は小さい頃によく似た白地に黒か紺の霜降り状の学生服を、誰かが着ているのを見たことがあります。