「父のアルバム」井上氏作(No.71〜No.80)

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父のアルバム 2003.11.29  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 71 早町海岸より航行する奥志摩フェリーを見る。  この日は何か特別な日だったのか、大漁旗が各船に立てられその間から浜島と御座をつないだ、今は無き奥志摩フェリーが大崎を背景に近づいてくるのが見えます。私も一度だけですが志摩半島を一周した時、御座から浜島へこのフェリーを利用したことがあります。  大漁旗をよく見ると 「辻栄丸」、「弥ソベ丸」、「由丸」、「重助丸」がなんとか読み取ることが出来ます。  1で投稿した写真に写っていたフェリーを見てメールを下さった Hさんは初めて付き合った彼女と乗ったフェリーの事など忘れかけていた記憶が蘇ったそうで、通勤や志摩水産高校への通学に利用され想い出をを持っている人がたくさんいるのでしょうか。  この頃フェリーの乗船場は鴻住の海上保安庁浜島分室と隣り合わせてあり、岩崎の巡航船乗り場(松坂屋前)にも乗客の乗り降りに立ち寄ったと記憶していますが確証はありません。水産試験場横の鴻洲埋め立て完成後は現在の巡航船乗り場(実家の船引き場のあったところ)に変わりましたが、平成元年に運行が終ってしまったそうです。御座と浜島間はれっきとした国道260号線であり、なんとかフェリーの復活を望む人が多いのではないでしょうか。
父のアルバム 2003.12.03  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 72 冬の防寒着  弟や従兄弟と一緒に実家の裏庭で写した写真で、浜島は雪が降っても積ることは滅多に無く、私の記憶では一度だけ大雪が降り隣の庄七屋の石垣にうっすらと少しだけ積ったのを覚えていて、子供はみんな初めて見た積雪をかき集め大騒ぎをしました。私が初めて大雪を見たのは就職後、職場の先輩に連れられて大垣市へ挨拶に行った37年程前の19歳の時でした。  近鉄養老線の電車が大垣市に近づくにしたがい、外の景色が段々白くなり大垣市街は一面真っ白の光景に驚愕し怖くてまともに歩くことも出来ませんでした。今、住んでいる桑名市は三重県の最北端で冬のシーズンには伊吹おろしや鈴鹿おろしが厳しく毎年、雪が2〜3度は10〜20cm以上積る事があり、屋根の南側に積った雪は日が当たると「ドドドッ」と物凄い音をたて滑り落ち、北側の雪はほおっておくと固まり何時迄も残り雨樋を痛め、道路の雪もほおって置くとカチンカチンに凍ってしまうため、浜島では味わった事がない雪かきをしなければならず真冬でも汗をかく程で、その点では浜島はいいなあと白い息を吐き直ぐ痛み出す腰をさすりながら思います。  就職後に始めたスキーは30年以上続け新婚旅行も板を担いで北海道へ行ったくらいで、スキーを滑るのも雪道を自動車で走るのも南国育ちにしては自信があります。しかし何度も雪道でスピンしたり吹雪で目の前が真っ白になり何も見えなくなったりして、冷や汗をかいた経験も度々あります。一人娘もヨチヨチ歩きの頃からスキー場へ連れて行き、1人前にスキーを滑れる様になり親を超える程までに腕を上げたのに、最近は親を裏切ってスノーボードにハマリ込み憎らしい限りで、ボードを担いで海外まで足を伸ばす様になり、今年の夏はスイス〜イタリア〜ドイツ〜関空と一人で乗り継いで帰ってきたと、信じられないような事を当然のように言っていました。  昔の防寒着は品質が悪く首まわりがハシカいセーターの上に、写真のようなカスリの布地に綿入れの羽織が普通で首にはマフラーを巻きつけ寒さを防ぎました。大体の子供は冬になると鼻たれ小僧になり青バナを垂らし、服やセーターの袖で拭くため鼻水が乾き袖はピカピカに光り硬く固まっていました。最近は鼻水をたらした子供は見かけなくなりました。衛生健康面で進歩したからでしょうか。  年月は過ぎ甥が小学校へ通う様になった頃には、教育方針が変わったのか真冬になっても半袖、半ズボンで通していて、寒くないのかと周りの心配をよそに本人はいたって平気な顔をしていました。
父のアルバム 2003.12.06  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 73  夏の夕涼み  前回とは一転して夏の様子で、今のように各家庭にエアコンなど無い時代は、暑さをしのぐには扇風機にあたるか庭先で夕涼みをするのが一番で、風呂からあがると写真の様な椅子で涼んだり、父につれられ弟と三人で岩崎の海岸から札場までよく散歩をしました。時には自家の船で父が魯を漕いで港の周りを巡ったりしましたが、夕方の海の上はたいへん涼しかったです。一度など魯の一部が外れて海に落ち流れてしまったため父が泳いで取りに行ったことがありました。船に残された私と弟は父が泳ぎ船へ戻ってくるまで、不安で不安で仕方なかったのを覚えています。  写真の椅子は木製の枠にストライプの模様が入った厚手の布が座るところに付いていて、後ろの切り込みの位置を替える事により、三段階程にリクライニング出来ました。しかしこのままでは蚊に刺されるので、蚊取り線香を焚き水槽があると金魚を飼い、水にわくボウフラを食べさせました。この椅子は平らに折りたためて、使わない時は場所を取らず大変便利な物で、家には三台くらいあり裏庭で夕涼みをしましたし、街に出ると所々の路地でこの椅子を見ることができました。古書に掲載されている写真をみるとこの椅子は戦前からあった様ですが、今は見ることが無くなりました。  私の家では当時は少なかった内風呂があり薪を燃料に焚きましたが、銅製の風呂釜はすぐ壊れるので銭湯へもよく行きました。その頃の浜島には栄湯や善代湯など3〜4軒の銭湯がありましたが、現在と違い蛇口から出てくるのは水だけで、湯船の水を初めに熱く焚き上げてから水でうすめ、湯がぬるくなると壁の穴から風呂焚き人に「ぬるいぞ〜、もっと湧かせ」と怒鳴り追い炊きさせました。また身体を洗う時は湯船の渕にズラリと並んで坐り、湯船から湯を木桶で汲んだりして洗うため、湯船の湯の表面には何時も垢がたくさん浮かんでいて、不衛生この上もありませんでした。その頃、大人の銭湯代は確か11円で子供は5円だったと記憶しています。  私の家では武叔父さんが金魚を飼うのが趣味で、いくつもの水槽に色々な種類の金魚を飼い、大きいのではボコボコ頭のオランダシシガシラが綺麗で、ほかにランチュウやリュウキン、デメキン等を飼っていました。また水槽にシュロを入れて、それに卵を産み付けさせ孵し稚魚から育てていました。武叔父さんの結婚式は実家で行い、披露宴は裏の家の二階の四部屋の襖を外して行い、その料理も親戚や近所の人の手伝いで自家にて作りました。60の神祭で踊っている従妹は武叔父さんの娘さんです。  私は生来左利き(ギッチョ−今は差別用語か?)でそれを他人に知られるのが大変苦痛で、叔父さんの結婚式の時も他所の人がたくさん来ていたので、一人隠れて食事をしていましたが他所の婆様に見つかり「この子はギッチョやったのか」と言われ恥ずかしい思いをし、小学5年のとき修学旅行が近づいてきたため旅館で左利きを級友に見られるのがいやで、必要に迫られ苦労して一年がかりで右利きにかえましたが、うまくいかずついつい左手を使うと父からきつく叱られました。  従って今でも箸とハサミそれから最近ではパソコンのマウスは左右どちらでも使え、怪我などして右手が使えない時は便利に思う事もあります。ちなみに鉛筆は左手を使うと母から「バシッ」と手のひらを叩かれるので、初めから右手を使って字を書きました。今の世の中テレビを見ていると、料理の番組などでタレントが平気で左手で箸を持っているのを見るに付け、信じられない気持になるのは私だけでしょうか。
父のアルバム 2003.12.10  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 74 餅つき  昔は暮れになるとそれぞれの家では畳をめくりあげて障子や襖をはずしての大掃除と、餅つきが始まり正月の準備をしました。学生帽を被った兄が杵を持ち母が合いの手を入れていて多分、宇治山田商業で学んでいた兄が暮れに下宿から帰ってきた時の写真だと思います。父は頼もしく成長した長男を嬉しく思い、シャッターを切ったのでしょうか。  写真では手で餅つきをしていますが、私の実家では昔この日が来ると朝早くから親戚の人が集まり、まとめて各家庭の餅を一緒に一日かけてつきました。庭にドラム缶を輪切りにした様なカマドを置き、何段も四角形のセイロを重ねて餅米を蒸し上げ、また杵は馬に良く似た形の足で動かす四つ足の物で丁度、馬の顔の部分が杵になっていて父や叔父さんたちが上に載り足で踏み、離すと落下して臼に落ち餅をつく仕組みになっていました。最初は軽くトントンとつき少し粘りが出てくるに従い、強くペッタンペッタンとついていきました。小さい私たち子供は危ないのでその上に乗せて貰えませんでしたが、いつか大きくなったら乗れると思っていましたが、その時はついに来ず家庭で餅をつくこともなくなり、山本屋さんなどの米屋に頼んで機械で餅をつくようになりました。  私達子供は蒸し上がった餅米のオコワを少し貰って食べるのも楽しみで、熱い熱いと言いながら口の中で噛んでいると、甘味とともに餅のように粘りが出てきました。つき上がった餅は粉をまぶした大きな俎板の上で丸餅やへーぎ餅に切り分け、それから木の枠に型入れし平に伸ばしてアラレ用にしたり、中にアンを入れてアン餅にしました。なまこ状のへーぎ餅やアラレはそれぞれに木などで作った刃のついた便利な道具があり数日後、半乾きになると細かく切って乾かしました。  へーぎ餅は甚よまさんで商品化され妻の実家の明和町でも売っていて、義母さんがよく送ってくれますが昔は私の家でも作っていて、胡麻やシソ(ちそ)ヨモギを入れて後に生活に余裕が出る様になってからは、白砂糖や黒砂糖を入れた砂糖餅も作る様になりました。それだけ戦後まもない時代の砂糖は貴重品でした。  餅を焼く時はガスやレンジなどは無く火鉢に炭火をおこし網を置き、アン餅は焼くとアンが吹き出してきて、熱い熱いと言いながら指で取り舐めたもので、砂糖餅は焼いていると二倍にも三倍にも大きく膨れ広がるので、火箸で抑えながら裏返し裏返して焼きました。今では電子レンジでチンすれば硬い餅が柔らかくなってしまいます。  餅の中にアンを包み込んだのがアン餅で、餅のまわりにアンを塗ったのがアンピン、少し餅米を混ぜて炊いたご飯を丸く握ってアンを塗ったのがボタ餅で色々作って食べました。浜島は丸餅ですが妻の実家の明和町は角餅です。ボタ餅を作ったのは盆だったかな?。  昔は私の家でもアンを作りました。小豆を何日も煮て柔らかくし肉引きでつぶし布で濾し豆の皮を除き、キザラの砂糖を入れて更に煮込むと初めは薄い紫色が段々と濃いツヤのあるトロトロの紫色に変わり、熱がさめると柔らかめの甘い甘いアンが出来ました。これは母や叔母が作っているのを側で見て覚えていたもので、正確ではないかも知れません。  今は密閉して冷蔵庫に入れておけば、餅は何時までもカビが生える事は無くなりましたが、昔は直ぐに青緑色のカビが生えてしまうので、焼く前に庖丁などでカビを削り落として焼きましたが、少しくらいカビが付いていても平気で食べました。硬くなった餅を柔らかくしたりカビを防止するために水に浸けたりしました。  鏡餅は今のように真空パックなど無いため、すぐにヒビ割れしカビが生えてしまいましたが、カビを落とし金槌で叩き割ってから焼きましたが、カチカチで柔らかくはならず硬いまま歯を立ててガリガリと食べました。アラレはアラレ炒りで火鉢の周りをカケラだらけにし炒ったり、その後で鍋に黒砂糖を入れ熱して溶かしたところに炒ったアラレを入れ、シャモジで満遍なくこね回して砂糖アラレにしました。  火鉢に火を起こすときは初めに消炭にマッチで火を付け、フーフーと口で息を吹きかけ火を広げてから火鉢の真ん中に置き、その上に炭を隙間が出来るように組み合わせて(空気が入りやすく火のまわりが早い)積み上げ、更に息を吹きかけて炭に火を付けてから、三ツ足の金属の台(名は忘れた)に網を置き、金属の火箸で餅を裏返しながら焼きました。
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2003.12.14  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 75  母の浜島尋常高等小学校修学旅行 1/2  私の母は大正8年生まれで84歳になりましたが、浜島尋常高等小学校の修学旅行で関西地方に行った時の写真で、右端が母で写っている同級生も亡くなった人が多いと言っていますが、去年は8020運動で三重県歯科医師会長表彰を受け、広報はまじま(2003.1.)にも載りました。  この写真は女生徒だけですが、他に昭和8年に宇治平等院で男女全員が写った写真もあります。しかし男生徒は戦争が激しくなった頃に現役兵として出征した人が多く、不運な時代に生まれ戦争の犠牲になった人が多いようです。  母は卒業後は農業を手伝っていましたが、農業は嫌いだとこぼしていたのを実父の飲み友達(岩本氏)に聞かれ、それなら良い嫁ぎ口があると紹介され17歳で嫁いだのが私の実家で、嫁いでみると仲人口の典型で聞くと見るとでは大違いで、家事から畑仕事や田んぼ仕事まであり、よく「理一おじに騙された」と言っています。  母は女ばかり6人姉妹の五番目で、姉の次女、三女、四女は二十歳を前に相次いで若死にし、長姉にも子供が無く母だけがニ女三男の子を産み、従っていらん子の次男である私が母の実家の養子に狙われた訳でした。また祖父母は男の子がほしかったためか6人目は50歳を過ぎてからの子で(当時50歳を過ぎてからの出産は命懸けだったはず)、結局その子も女で(私の叔母)それがたたったのか祖母は中風で倒れ半身不随になり、かぞえ85歳で死ぬまで15年間寝たきりで、母は私と弟を連れて舅、姑にに気を使いながら毎日のように見舞いに行き、下の世話などをしていました。  18歳で長女を出産し続けて次女を、父が臨時徴集で出征した昭和15年には長男が腹の中にいたそうで、21歳で銃後の母になり昭和21年に父が復員するまで舅、姑に仕えてきたそうで、長兄は生まれてから5歳まで父親の顔を見た事が無く、なつかなくて困ったと母は言っていました。また父が出征の時に津市の阿漕駅まで見送りに行きましたが、常に舅、姑の後ろに控え妊娠中でもあり、駅のホームでの最後の別れも出来ず先に旅館へ帰されたそうです。  平成11年に母は夫に先立たれた後、兄嫁の世話になりようやく安楽な余生を過ごすはずでしたが、思いもよらず兄嫁は2年後に癌のために先立たれ一家の大黒柱を失い、体力的にも精神的にも未だ苦労が耐えません。遠地に住む私は一ヶ月に一度くらい母の顔を見に帰り、繰り言を聞いてやるのが精一杯で情けないかぎりです。
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2003.12.18  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 76  母の浜島尋常高等小学校修学旅行 2/2  男子は学生服、女子はセーラー服を着用していますが、制服を着用するようになったのは、この年代頃からだったと母は言っていましたが、当時の経済状況から子弟の制服を揃えるのは、親にとって並大抵の苦労ではなかったろうと思えます。  日本はこの後、満州事変、支那事変(日中戦争)、太平洋戦争と突き進み男子は戦死した方が多いと母は言っていましたが、この時代にも女生徒のスカートをまくりに来る野郎等(やろら)がいて困ったと母が言っていました。  写真には昭和8年4月21日 宇治平等院にて と注釈が書かれています。この時代の修学旅行は4月に行われたのでしょうか。修学旅行で思い出したことがあります。私たちの小中学校の頃はカメラを持って行くことは禁止されていて、旅行には写真屋さんが同行して写した写真をほしいものだけ買ったと記憶しています。しかし、私はその写真を買わなかったのか父のアルバムには小学校の大阪城、法隆寺、平安神宮、中学校の皇居二重橋のそれぞれの記念写真があるだけです。  父の影響で私も写真には大変興味を持ち今日に至っていますが、当然父のカメラは触らせてもらえませんでしたため、雑誌の付録で付いていたり、おもちゃ屋で売っていた日光写真で遊んだり、通信販売でだったか売っていたフジペットという丸いファインダーが上に出ていたカメラが欲しくて仕方がありませんでした。始めて父のカメラを使ったのは次姉が結婚したときでした。しかし写した写真は慣れていなかったためかすべて露出不足で暗い写真ばかりでした。  先日、京都へ紅葉見物に行ったとき日本各地から修学旅行の男女生徒をたくさん見ましたが、殆どの手にはカメラはもちろんカメラ付き携帯電話があり、互いに写しあっていて時代の違いを痛感しました。また女生徒の制服のスカートがあまりも短いのに、私ども夫婦はあきれ目のやり場に困りました。
父のアルバム 2003.12.22  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 77  昭和20年代初めの姉の学芸会 1/3  昭和21年3月1日に次姉(結婚式のとき露出不足の写真を写してしまった)が七歳のとき小学校の学芸会で「桜井の別れ」の主役、楠木正成を演じた時に記念に写したもので、左の正行役の方は現在東京にお住まいと聞きました。  姉に聞くと劇を演じていた時に刀を抜く場面があったのですが、どうしたことか肝心の時に抜けなくて困ってしまい、劇中に「先生抜けへん」と先生を見ておもわず叫んでしまったそうです。
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2003.12.24  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 78  昭和20年代初めの姉の学芸会 2/3  これも次姉(前列左)が出演した「お猿の関所」と云う学芸会の劇の記念写真です。昭和13年12月30日生まれの姉の同級生の方、76と合わせて記憶にあるでしょうか。
父のアルバム 2003.12.27  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 79  昭和20年代初めの姉の学芸会 3/3  これは長姉(昭和12年4月1日生まれ)の学芸会の記念写真で、姉はセーラー服(右側)を着ているのでどういう役回りだったのかは聞いていませんが、担任は男生徒にはおそろしい先生で有名だった芳森先生だったようです。他にクラス全員で大矢の浜で写した写真もあります。  16で私が海水浴の後の着替えで女生徒(もも○さん)と口喧嘩になり、教室で騒いでいた時に「何を騒いどる。さっさとやらんか!」と言って怒鳴られたのも芳森先生でしたが、幸いにも担任には当たらず助かりました。でも写真を見ると女生徒には優しかったような顔をしていますねぇ。
父のアルバム 2003.12.30 ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 80  昭和33年の学芸会  これは私が小学5年生時の学芸会の様子で、もちろん旧小学校東校舎の仕切りの板戸をぶち抜いた会場 (この構造が東校舎の伊勢湾台風での倒壊の原因か?) での一場面です。主役を演じた柴原修さんの独演会のようなもので、彼は始めから終りまで出ずっぱりで、今でもあの長い台詞をよくも覚えたものだと感心します。  残念ながら私の台詞は何と言ったのかは覚えていませんが、たった一言でした。左から修くん、和行くん、嘉市くん、哲央くん、志仁くん、博文くん、薫くん、そして私の面々で、学校帰りの出来事を演じました。この写真は父が写したものではなく、学校で写し希望者が買ったものなので同級生で持っている人もいると思います.  私の学芸会で一番思い出にあるのは、この一年前に四年生のとき「さぼや」の柴原勇先生のもとで演じた「登場人物」と云う題名の劇で、私は劇中最初の場面で谷水栄さんと二人で、江戸からアメリカまで宝物を運んできた駕篭カキを演じたもので、神祭の法被を着て台詞も何口かありクラスの男生徒全員が出演して、インデアンやカウボーイが出てきて最後に宝物は猫だったという筋書きで、結構観客にはうけて爆笑の連続でした。45年も前の遠い思い出です。


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