「父のアルバム」井上氏作(No.41〜No.50)

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父のアルバム 2003.09.07  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 41 昭和30年代の南張 3/4  南張浜の西側を写したもので、乳牛の親子をつれた人が人気の無い浜辺を散歩していて、父はこれでも絶好の構図だと思いシャッターを切ったのではないでしょうか。  海岸の外れの岩礁には現在は波消しの堤防とテトラポットが置かれて、写真を写した頃とはおもむきが異なっています。手前の岬の上には現在は国民年金保養センター「はまじま」があり、その下を南張トンネルがとおり宿田曽への道は昔と比べ大変近く便利になりました。  小学一年生のときの担任をしていただいた川口いさ先生の家も牛を飼っているのを聞き、同級生と一度歩いて訪ねていったことがあり、確か楠の宮の近くにご自宅があったと記憶しています。そのとき生まれて初めて目の当たりに牛を見て、その大きさにビックリしたことを覚えています。  浜島の本町通りの街中を一度だけ馬が荷車を引いて、大きな馬糞をまき散らしながら荷物を運んで行くのを見たことがあり、その馬体とワラの混じった馬糞の大きさに子供は皆驚き大騒ぎしたものでした。あの馬は何処から来たのでしょうか。また馬と云えば伊勢市とか二見町へ行くと観光馬車があり、乗った記憶がありますが後ろの車に乗るので、馬の匂いが臭かった思い出があります。
父のアルバム 2003.09.10  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 42 昭和30年代の南張 4/4  南張農家の牛小屋で小屋から顔を出しモーと鳴く声を聞き、父は思わずシャッターを切ったのでしょうか、今はもうこのような藁葺き屋根の建物を見ることはなくなりました。どちら様のお宅か解らないのに勝手に写しておいてなんですが「これは私の家だよ」との、メッセージが返ってくるとうれしいのですが。南張の前川上流にある奥山池には小学校の遠足で行ったことがあります。  小学校の遠足では他に、塩鹿浜や田杭川の奥の水源池、大山さんそれから当時は何も無かった御座の白浜などへ行きました。奥山池へ行ったときは池の近くでアクビ(あけび)を見つけましたが、蔓が高くて取れませんでした。  私は低学年のときは身体がとても弱くいつも母が弟を連れ、行列の後ろから付き添ってきてもらっていました。その母も84歳になり視力が衰え、外へ出るときは手を引いてやらなければならなくなり、遠くにいて何もしてあげれない自分が情けないやら悲しい事この上もありません。  浜島から見ると南張の山は横に幾筋も線が見えましたが、あれはミカン畑だと聞いたことがありました。この頃から南張ではミカンや温室でのメロン栽培が始まったのでしょう。
父のアルバム 2003.09.14  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 43 昭和30年代の水産試験場  私の父が奉職していた三重県水産試験場の二景。     正面に車寄せの玄関がある建物が事務棟で、右手の建物は二階に丸窓が幾つも並んでいて中に標本室があり、私は何度も父の職場に遊びに行き標本室の中にも入りましたが、色々な海の生物の標本が大きなビンに詰められて並んでいました。その部屋は気味が悪く独特の匂いがして、あまり好きではありませんでした。  写真には三本の鉄塔が立っていますが、左の二本は四本足で事務棟の裏にあり、右の鉄塔は三本足で正面玄関の右手に立っていて、四本足の鉄塔よりも後年に建てられたと記憶しています。遠洋漁業の漁船との無線通信のための鉄塔で、奥の建物に無線室がありモールス信号の音がしていて、これによりもたらされる情報が町じゅうに拡声器で「第○ ○○丸は凪良く…」と放送されていましたが、この鉄塔はもうありません。  水産試験場はもともと岩崎新地にあったものを、昭和7年にこの建物が新築されたとのことで、戦時中は館山海軍航空隊の水上飛行機がいたそうで、私の兄はその部品を拾ったことがあったと言っていました。  二葉の写真をよく見ると屋根の形が違っていて、下の写真では四角の陸屋根ですが、後に雨漏り修理のためと聞きましたが、寄棟の屋根が上に載せられた形になりました。この建物の奥には渡り廊下で繋がったたくさんの建物があり、子供の私にはたいへん大きく見えたイケスもあり一部が鉄柵を境に海とつながっていました。  この試験場の敷地の直ぐ前に祖父が所有していたモーター船の船引き場があり、引上げる時は家から押し車にコロの木材を何本も積んで運び、水辺からウインチのところまで並べ、ウインチは木材を縦にしたもので、穴に横棒を差込み押しまわしワイヤーを巻き船を引上げました。その後ウインチは鉄製の歯車のついたものを使うようになりました。  父は私が高校進学時、新設高の尾鷲工業高校に無線通信を教える電子科が出来ると聞きつけてきて、そこへ進学するように勧めました。もしかしたら浜島の無線局に勤めさせたかったのかもしれませんが、尾鷲工業高校に進学後に無線通信士の国家試験を受験しましたが、1〜3級まであり在学中に3級無線通信士の免許は取得しましたが、無線通信士にはならず日本電信電話公社(のちNTT)に就職し、父の希望は叶えられなかったのかも知れません。 その尾鷲工業高校も尾鷲高校と合併し校名は無くなってしまいました。
父のアルバム 2003.09.20  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 44  三重県水産試験場事務棟裏の浜木綿   水産試験場事務棟の裏には建物に沿って花壇があり、天然記念物の浜木綿がたくさん咲いていました。私は浜島の町の花は浜木綿だとばかり思っていましたが、母から町の花は浜ナデシコだと教えられました。何時か種を持っていって桑名でも家の庭で咲かせようと思っています。 私の父は昭和5年16歳の時に三重県水産試験場雑用夫、同10年に水産試験場雇となり昭和13年24歳の時に、水産試験場に三重県農林主事補として判任官四等で正式採用になり、昭和43年三重県志摩土木事務所に移るまで6年間の軍隊生活を入れ38年間勤めました。 祖母は任官時に「息子が判任官になった」と喜び、近所に言って廻ったそうです。判任官(今で云う地方公務員)とは戦前の雇の上の下級役人で、それに対して高等官は奉任官、勅任官と云い今で云うキャリヤー官僚のようなもので、その差は大変なものだったそうで、何においても差別があり父の遺稿には三重県庁へ行くと高等官用として別に便所が設えてあったと書いてありました。 昭和13年頃の父の月俸は35円だったと書き残しています。   HP管理人さまへ  当方のミスにより大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。ありがとうございました。
父のアルバム 2003.09.23  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 45 大矢取島灯台の側  左の写真は大矢取島の灯台の側で写したものですが、肝心の灯台が写ってなく残念ですが(2002.10.25.kkkさまが写し投稿していますが)、灯台は昭和30年に建設されたそうで、それまではちょうど灯台の位置あたりに大木が立っていて(木の種類は松だったか?不明、横に広がた枝ぶりだった)大矢取島の特徴で、写生に行き大矢取島を描く時は必ずその大木の右上に描いたものでした。小矢取島には木は無く当時は上のところに少しだけ草が茂っていました。  右の写真は釜崎の突堤から写したもので、大矢取島の思い出には忘れられないことがあり、それは島の北側の灯台へ登る石段の下(2002.10.25.kkkさまが写した登り口の下あたり)の海岸に機雷が上がったことがあり、漁の網にかかったのかうち上げられたのかは忘れましたが、見に行ったことがあります。当時は島への堤防は釜崎の突堤と同じで、二ヶ所切れかかれたように低くなっていて、そこを苦労してよじ登りたどり着きました。  その機雷は直径が1mもあったでしょうか、子供の私には両手を回しても後ろに手が廻らないほどの大きさで、赤茶色に錆ついて上部に何本かの突起(信管)の跡がありました。その機雷の自衛隊が処分したのか、いつの間にか無くなっていました。  大矢取島に関わる思い出がもうひとつあります。それは中学一年のときの事で、そのころ私は図画工作が得意でしたが、図工の授業のとき先生は教科書の一つの絵を指して、この絵の良くないところを示せと言いました。その質問にたいして答えたのがH・Kさんで、絵の真中に煙突が上から下まで描かれていて、画面を左右に割っていると答えました。その答えに私は心臓が飛び出すほどのショックを受けました。私が描いていたのは画用紙いっぱいに大矢取島を真中に描いたものだったからでした。それ以来、私は図画についてすっかり自身を無くしてしまいました。  話はそれますがこのH・Kさんのことについてもう一つ思い出があり、それは数学の時間で先生が数の単位を質問され、私は億、兆までは知っていてそれで終りだと思っていましたが、H・Kさんは兆の次に京(キョウ)、亥(ガイ)とすらすら答たので、先生は兆まで知っていればよいと発言を止めたほどで、聞いていた私は唖然呆然でそのことから日本の数の単位は不可思議、無量大数(10の68乗)まであるのを知ったしだいです。  私の父とH・Kさんの父上様は仕事上の付き合いがあり、私が高校を卒業し就職説明会に父と津市へ行く時に、H・Kさんの父上様に伊勢市まで自動車に同乗させてもらったことがありますが、そのときに家から出てきて洗濯物を取り込んでいたH・Kさんに会ったことがありますが、身体全体が輝いて見えました。中学時代とは違いきっと充実した高校生活を送ったのではないかと思ったものでした。
父のアルバム 2003.09.27  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 46  三重県水産試験場所属の水産調査船 あさま丸  約200トン位の小さな船で、近海の水産資源を調査していたのではないでしょうか。
父のアルバム 2003.09.27  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 47  三重県水産試験場所属の水産調査船 神威丸(じいまる)  写真の神威丸は二代目か三代目のようで約300トンくらいあり、遠洋漁業の調査航海を行ったようで、初代は機帆船で父のアルバムに帆を張った写真を子供の頃に見た覚えがありますが、失われたのか見つかりません。    その初代か二代目の神威丸かどうかは判りませんが、同名の船が戦争中の昭和19年に小笠原諸島の硫黄島付近で、アメリカ軍に沈められたそうです。  写真の船尾右側に二三人の人がいる所の四角い囲いが船の便所で、囲いの床に穴が開いていて直接海に落ちる構造でした。雨やシケの日は濡れ鼠で用を足していたのでしょうか。
父のアルバム 2003.09.27  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 48  三重県水産試験場所属の水産調査船 大勢丸(たいせいまる)  この船は、あさま丸、神威丸と違い鉄船で4〜500トンくらいはあったでしょうか。完成時に一般公開され見に行きましたが船橋の中で、自動車のハンドルのような小さな舵輪を見て、こんな大きな船がこの小さな舵輪で動くのだと説明され、他の鰹船の大きな木製の舵輪を見慣れた私には驚きでした。
父のアルバム 2003.09.30  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 49  三重県水産試験場事務室の石炭ストーブ  水産試験場に勤務していた父は天気予報で雨になると報じていても、雨が降っていない限り滅多に雨具を持っていくような人ではなく、出勤後に雨が降り出すと私と弟が傘とゴム長を届けるのが役目でした。  二人で雨具を届けると父はいつもお駄賃に10円をくれるので嫌ではありませんでしたが、冬の寒い雨が降る日はサマチの堤防道路では手先がちぢかみ辛いものでした。試験場の事務室に入るとそこは別世界のようで、石炭ストーブが焚かれ冷え切った身体を暫くのあいだ暖めることができました。 ストーブの燃料は石炭やコークスで裏庭に積んであり、コークスはそれを頭髪にあてると小さな穴に髪の毛が引っかかって痛く、坊ちゃん刈りの弟の頭に当て頭髪を引っ張っていたずらしました。すると弟は何時ものことで親父に御注進で、私の頭に拳骨が飛んでくるのが常でした。 当時一般の家庭の暖房は石炭ストーブや電気ストーブなどあるわけがなく、炬燵があるくらいで寝る時は炭火か豆炭を入れたアンカがあれば良いほうで、ゴワゴワのカーキ色の毛布(軍用?、救援物資?)や綿入れを頭から被って振るえながら寝たものです。 写真をみると当時は黒色の足袋とゴム草履(アサブラ)を履いていて、セーターは材質が悪かったのか首まわりがハシカクて、慣れるまでたいへんでした。 投稿者:-A・)vさま、浜島座と平和劇場の写真ですか。むずかしいですね。1の浜島全景に小さく平和劇場が写っていますが。
父のアルバム 2003.10.03  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 50  浜島町の神祭 1/11  10月は宇気比神社の神祭ですね。昭和30年代初めの神祭の一連の写真がありましたので投稿します。小さい頃はウキヒ神社と呼んでいましたが、正式にはウケヒ神社だそうで元々は八王子社と呼ばれていたのが、明治4年に改称されたとHmajima Storyに記載されています。  写真は神祭の風景で場所は横井屋さん、大木屋薬局さん、三善堂書店さん辺りで小さい子供は「ワッショイ」「ワッショイ」と掛け声をかけ、首からかけた拍子木を「チョン」「チョン」とたたき、大きい子供は神輿を担ぎ宇気比神社まで行きお払いを受け、帰りは各所に立ち寄り菓子などを貰う楽しい一日は今も同じでしょうか。 私は40年余りのうち一度だけ従妹が踊りを踊ると聞き、写真を写しに帰った時以外は神祭を見ていないので現在の様子はよくわかりません。


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