「父のアルバム」井上氏作(No.21〜No.30)

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父のアルバム 2003.06.26  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 21 昭和30年前後の浜島港 3/4  札場から大西製氷の方向を写したもので、漁から帰り荷おろしした漁船は写真の右側の岸壁に並んで係留されていて、その艫(船尾)の片側に四角く木の囲いがあり底板に穴が開いていて、それは船の便所だと教えられました。魚が上がると今でもそうでしょうが漁協のサイレンが鳴り、札場では鰹が並べられセリが始まって大変にぎわっていました。  漁船が出航ともなると今の漁船のように冷凍設備が整っていなかったため、写真に見える大西製氷の櫓のようなところから、ガラガラと氷を積込んでいました。大西製氷には浜島で唯一のエレベーターがあり、勿論それは氷を運ぶためのものです。 実家には氷で冷やす表面を銅板で張った冷蔵庫があったので、時々バケツをもって氷を買いに行くと、一階の保存庫から出してきた氷を大きなガンドウで少し切れ目を入れ、ガンドウの背を切れ目に入れコンと突き出すとスパッと割れて、その手際の良さに感心したものです。 志摩郡でエレベーターと言えば鳥羽市の駅前に、日和山公園へ登る物があるくらいで、遠足等で鳥羽に行くとよく乗ったものです。 道の向こうには紀文旅館と、我家の親戚でオオシキ網元の弥四郎屋が写っています。札場と早町(さまち)の間のところで、父はよく夕方釣糸を沖に投げておき次の日の朝、引上げると鰻がかかっていて俎板の上で鰻の頭を錐で固定して庖丁で開き、蒲焼をして家族でよく食べました。
父のアルバム 2003.06.29  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 22 昭和30年前後の浜島港 4/4  浜島港には時々鳥羽の海上保安部から巡視船が入港しました。写真の船は巡視船「はまちどり」の船橋で、他にもっと大型の巡視船「こうず」も来て、学校から見学に行き体験航海で英虞湾の外まで行き、熊野灘の荒波で船酔いのために気分が悪くなり、甲板にうずくまったままで航海を楽しむどころではなく、えらい目にあいました。  巡視船には放水銃や機関銃、大砲が搭載されていて、おまわりさんの拳銃以外見たこともない私は興奮を抑え見入ったものでした。  私の父の遺稿によると戦前、戦中出征兵士は浜島の宇気比神社、南張の楠の宮(正式には楠御前八柱神社、父の遺稿で初めて知った)御座の金毘羅不動尊、鳥羽の青峯山正福寺に詣で、浜島小学校で激励をうけ港から船で迫子浦まで行き、そこから迫塩小学校の児童にも見送られて、徒歩で二本松?と云うところを通り磯部に至り川辺橋の上で見送りの人達と別れ、逢坂山を越え(伊勢道路のことか?)内宮で武運長久を祈願し久居の歩兵第三十三連隊に入営するのがしきたりだったそうで、内宮に着いた時は足が棒のようになっていたと書かれていました。  私の父は昭和15年11月に出征し、歩兵第55連隊補充兵として中支からビルマへと転戦し、九死に一生を得て昭和21年6月に復員しましたが、一緒に出征した橋爪慶二郎様(タイワ)はビルマ(現ミャンマー)の土となり帰って来ませんでした。 また戦死されたヨハチヤの柴原貞男様(ビルマ)、チョウスケヤの柴原楠成様(ビルマ)、キンスカの親戚の柴原章様(中国)、柴原喜多雄様(ビルマ)、迫子の岡野弥比知様(中国)の方々とも戦場で関わりを持ったそうです。
父のアルバム 2003.07.08  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 23 昭和30年前後の浜島目戸 1/3  宝来荘から南風荘へ向かう中間で、宝来荘方向を写したもので写真の左側へ行くとホテル太平洋ですが、この時出来ていたのか写真に建物が写っていないので判りません。この左側に目戸山古墳(浜島古墳)があります。  18でも書いたように現在のバス停と鯨望荘の中間あたりから左に曲がると、左手は田んぼで右手には豚小屋があり、現在の郵便局のあたりを更に左に曲がると宝来荘があり、そこを通り越して進むと写真の場所に至りました。その道を各ホテルの送迎乗用車が土煙をあげて走っていました。 この迂回路の周辺は低地で田んぼでしたが、そこから東側は少しずつ標高が高くなり一面の畑地で、現在でも傾斜の面影が国道260号線の坂から感じられます。  その頃の目戸の様子が平成14年4月3日付中日新聞「あの日・あの時」に、浜島町の目戸山地区として昭和29年2月の写真が井上博暁様の投稿で掲載されています。
父のアルバム 2003.07.10  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 24 昭和30年前後の浜島目戸 2/3  南風荘と太平洋の間に浜島古墳群があり、その中の一つは盛土が紛失し石室の入口が露出していて、中に入ることが出来ました。中は子供の私でも背を屈めなければならないくらい狭く、昔ここには鬼が住んでいたと聞かされ、奥には火を焚いた跡がありましたが昔のものとも思われず、誰かが焚き火でもしたのでしょう。  先日、現地に行ってみたところ場所を間違えたか埋もれてしまったのか、石室はどうしても見つけることが出来ず、こんもりとした土盛りがあるだけでした。どなたかご存知の方がいましたならばお教えください。
父のアルバム 2003.07.14  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 25 昭和30年代の浜島目戸 3/3  目戸山古墳の隣に多分観光客のために造ったのだと思いますが、小さな公園があり池のそばにブランコと誘導円木がありました。  以前に 5で浜島小学校に誘導円木があったと書きましたが、私の思い違いで小学校には無かったようで、目戸山の物と混同してしまったようです。 話は変りますが私は目戸の海岸だったか、鯨望荘の向こうの黒崎海岸だったか思い出せませんが、岩のあいだから機関砲の不発弾を拾ったことがあります。そのときはそれが何かも知らず二段ロケットだと言って弟と振り回して遊んでいましたが、そばを通った大人の人に「そんな物で遊んでいると爆発して手が吹っ飛んでしまうぞ」と言われ、びっくり仰天し直ぐに役場の隣にあった警察に持っていきましたが、生憎おまわりさんは不在で正面のカウンターに置いて帰ったことがありました。 また小学校の保健室の隣にあった物置小屋で、小銃の槓粁が数本針金で巻き束ね、置いてあるのを見たことがありました。当時はそれが何かは判りませんでしたが、未だ戦争の余燼が彼方此方に残っていたようです。戦争中は学校では配属将校による軍事教練が行われ、軍隊から小銃が払い下げられたと聞いていますので、その一部だったのかも知れません。
父のアルバム 2003.07.18  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 26 昭和30年代の宮山 1/3  鉄棒をしっかり握り締めて足を踏ん張っている私は、父にそこに立てと言われ怖かったけれど渋々立ったところを写したものです。今はもう取り除かれてありませんが50代、60代の人は覚えている場所だと思います。  旧浜島小学校の大運動場東端に宮山に登る坂道があり、それを登りきったところに西行法師の歌碑(昔と形が違う)があります。その後ろに崖に突き出て鉄棒のワクで出来ていて、床に板を敷き詰めてありその一部が四角に切りかかれていて、下に堤防が出来る前はここがゴミ捨場だったと聞きました。またこの右手の崖は少しくぼんでいて堤防に降りることが出来ました。  平家物語にも出てくる西行法師は鳥羽上皇の北面の武士で、名を佐藤義清と云い誤って恋する女性を手にかけてしまい、武士を捨て出家し諸国を巡り歌を詠んだとのことですが、はたして浜島へ立ち寄ったのでしょうか。   はなれたる しららの浜の沖石を くだかで洗う 月の白波
父のアルバム 2003.07.21  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 27 昭和30年代の宮山 2/3  宮山のえべっさんの近くで三脚を立て、一連の写真を撮影した父と私と弟、それから従兄弟(現在豊田市在住)の四人で松の木の根元で写したもので、36の西行法師歌碑とゴミ捨場は左後方の奥にありました。よく見ると歌碑の下部が四角い台になっていて、今との違いがわずかにわかります。  宮山にはご覧のように松の木などの大木がたくさん茂っていましたが、昭和34年の伊勢湾台風で大木の殆どは倒れていまい、その先は運動場にまで倒れこんで、私たちはその幹を伝って運動場から宮山まで登って遊びました。松の木の幹からはマツヤニが滲み出ていて、それを指につけ服を挿むにして引っ張ると「ビュー」と服が破れるような音がして、当然に服がマツヤニで汚れ母に叱られました。  倒れた木はそのうち撤去されましたが、えべっさんの東側に倒れた木の根っこが何時までも残っていて、根っ子の一本が長く伸び私たちはその形が象に似ていると言って周りで遊びました。  昔はこの太平洋側にゴミを捨てていたようで、ゴミではありませんが宮山の下の磯で私は黄色い犬の死骸が打ち上げられているのを見たことがあります。  その犬は野良犬で町内を暴れまわり、ある人は「おれの家の鶏が100羽も食われた」と怒り心頭で追い掛け回し、たくさんの人が棍棒などを持って出てきて追い詰め、明治屋さんの裏にある家の縁の下に逃げ込み手が出せなくなり、そのうち誰かが空気銃を持ってきて狙い定め「バシッ」と撃つと「キャイン」と鳴く声を聞きました。  犬はどこかへ逃げてしまったようでしたが、そのうちに捕まって殴り殺され海に捨てられたのか、ムシロに包まれて磯に打ち上げられていました。
父のアルバム 2003.07.26  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 28 昭和30年代の宮山 3/3  今も昔と変らぬえべっさん(鼻欠け恵比須)  えべっさん自身は変わりありませんが、昔はその周りに石柱が立っていて、写真で私と弟が跨っているのがえべっさんの前に二本立っていた大きな石柱で、他に四方を囲むように数本の小さい石柱が立ち、それぞれが鎖で繋がれていたと記憶しています。私はえべっさんの烏帽子の上にまで登ったりして遊びましたが、さぞえべっさんは迷惑だっただろうと思います。  何時見てもえべっさんの鼻が欠けているのが不思議でしたが、そのうち誰かに漁師がお守りに削っていくのだと教えられました。またえべっさんの前には今も石碑が立っていて、多分えべっさん建立に関する経緯の文章が刻んであるのでしょうが、昭和七年と読めるだけで裏に廻ると発起人一同と思われる先人の名前が刻まれています。  名前の中に実家の親戚にあたり戦前、戦中浜島町長をされた柴原庄太様や私の祖父の名前も辛うじて読むことができますが、ほとんどの文字は読むことは出来ません。この石碑と西行法師の歌碑は共に昭和七年に建てられたようです。  ここで浜島町長様並びに町会議員、町職員のみなさまにお願いがあります。ぜひ現地を見ていただき、苔むしたこの石碑と西行法師の歌碑ともどもそこに刻まれてある文字の復元をお願いできないでしょうか。  毎年、一月も終わりの頃になると民放テレビのニュースでは、きまって鼻欠け恵比須の初笑いが放映されます。浜島町の発展は観光を抜きにしては考えられず、町村合併後ではそこまで痒いところに手の届く行政を期待出来ないかも知れず、是非とも合併前に実現することを懇願し、貴重な観光資源として何時までも保存されることを希望します。また浜島墓苑右手丘の上にある戦没者慰霊碑につきましても、一部判読不能の戦没者名がありますので、こちらの修復も合わせてお願いしたく思います。  たまにしか帰ることのない者が勝手なことを申しましたが、私のような者には余計に目についてしまうのかも知れません。お気に触る方がいましたならばご容赦のほど。
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2003.07.29  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 29 昭和7年宮山西行法師歌碑除幕?  この写真は祖父のアルバムにあったものを父が保管していた一枚で、写真の説明は何も書かれてなくどういう時の写真かは判りませんが、周りの松林の状況から場所は宮山のようで、左側に写っている白いものは西行法師の歌碑ではないでしょうか。  この西行法師の歌碑は浜島の歌人、田中稲花氏により昭和七年に建立されたとのことで、この写真が昭和七年のものだとすると歌碑建立の記念写真かも知れません。四角い枠で写っている人が田中稲花氏でしょうか。ご存知の方はお教え願います。写真の左から二人目の人物は私の祖父に似ていますが、昭和七年とすると少し年を取りすぎのようにも感じられます。  以上、この写真については全くの私の推測です。  伊勢えび祭の賛否両論の活気のある書き込みが一段落し、最近みなさんの投稿が少ないですね。このため私の投稿の間隔が狭くなり投稿しづらいので、みなさんどんどんカキコみを願います。
父のアルバム 2003.07.31  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 30 昭和30年代の浜島〜鵜方道路 1/3  桧山路川と桧山路橋を見る。  私は父から22インチのあずき色の子供用自転車を買ってもらいました。チョットしたことで拳骨が飛んでくる恐ろしい父でしたので、未だに何故父がこの自転車を買ってくれたのかは判らず、特に学業が優秀だったわけでもなくたまに努力賞を貰うくらいで(当時学年ごとに、優等賞、努力賞があった)、図画で何かの表彰を受けた事があったので、その褒美だったのかも知れません。  この頃に子供用の自転車を持っているのは浜島では数えるほどもなく最初、両方に補助輪を付け慣れると片方(左側?)を外し、直ぐに乗れるようになりました。みんな大人用自転車の三角のフレームの間に片足を入れて、車体を斜めにして上手に乗っていました。今では滅多に見かけませんがハンドルに乾電池入りのブザーをつけている自転車が多く、ベルの代わりにボタンを押すと「ブー」と音を出して走り廻りました。  写真は父と弟の三人で鵜方まで、今で云うサイクリングをした時に桧山路橋を写したもので、橋の巾は自動車が一台やっと通れるくらいの巾で欄干は非常に低く、自転車で渡るときは怖かったので降りて押して渡った記憶があります。この時、弟は父の自転車の荷台に新聞紙を敷いて乗っていましたが、舗装もしてない道でさぞ尻が痛かったことだったろうと思います。  この橋は昭和39年に架け替えられ現在の桧山路大橋が完成し、最近同じ場所へ行って見ましたが草木が高く茂っていて、道路から橋を見ることは出来ませんでした。  ちょうど写真の左側は実家の持山で、当時台所の燃料は殆どが薪でどこの家でもセンジの竈から外に煙突が伸びていて、食事時になると煙がたなびいていたもので、冬になると毎年写真の右手の山と、左手の崖下の雑木を切り出しにつれていかれ、自家のモーター船に薪を山と積込み岩崎の海岸まで運び、我家の中の家と裏の家の間には薪が針金で束にして山と積まれていました。 一度、祖父と叔母等は木を積み過ぎて船が沈んでしまい、ちょうど通りかかった巡航船に助けられ、船の中の炭火で身体を温めたそうです。この山は保安林のため木の伐採は出来ませんでしたが、戦前から燃料確保のため特例として戦後まで伐採が認められていたそうです。


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