「父のアルバム」(父の出張)井上氏作(No.92〜No.100)

画像 説明
父のアルバム

大きな画面で見るためには、ここをクリックしてください。
2004.02.03  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 92 奉安殿  桑名人 12でも紹介しました親戚の柴原通成さんが小学生のころ過ごした、朝鮮(現韓国)全羅北道にあった南原(ナムオン)尋常高等小学校全校生徒の写真とのことです。通成さんのお父上の弥太郎爺様は私の祖父の弟でたいへん頭が良く、学校の先生もしていたそうですが敗戦により全てを失い帰国し、私が子供の頃は頑丈な重量自転車に御座の笹野軒の菓子箱を何段も積み、毎日のように宿田曽まで未舗装道路の坂道をトボトボと和菓子を運び家族を養っていました。弥太郎爺様の顔はおぼろげながら覚えていますが、最近会った通成さんの顔が爺様そっくりになってきました。  後方に見える建物をみなさんご存知でしょうか。戦前に育った人達には形ですぐにわかると思いますが、天皇制国家を浸透させるために日本全国の小学校はもちろん、朝鮮半島にまで造られた「奉安殿」で中には天皇、皇后両陛下の御真影(写真)が納められていて全児童が毎日拝礼をしたそうです。野外に建てられたものを「奉安殿」と云い、講堂など室内に設けられたものを「奉安庫」と云ったそうです。通成さんに教えてもらいました。  平成15年8月7日の中日新聞夕刊に「壁の中から戦争遺跡」として、愛知県江南市の滝学園講堂の壁に塗り込められた「奉安庫」が見つかったと云う記事が載っています。また検索エンジンで「奉安殿」を検索すると、より詳しく教えてくれます。各地に神社や倉庫として残っているところもあるそうです。  旧浜島小学校の大運動場西南隅には砂場があり、砂場に滑り降りるように滑り台がありましたが、この滑り台のコンクリート製台座辺りが浜島尋常高等小学校のちの国民学校にあった奉安殿の跡だと母が言っていました。そのコンクリート製の台座も現在は撤去され道路になっています。
父のアルバム 2004.02.06  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 93  父の浜島尋常高等小学校の初等科記念写真。  懐かしい二階建て西校舎の前。父は大正3年生まれなので、この校舎が建てられてから10年くらいの経った頃の写真でしようか。この校舎の窓際に沿って時代によって木が植えられたり、花壇になったりしたのが他の写真から伺えます。
父のアルバム 2004.02.08  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 94  父の浜島尋常高等小学校の高等科記念写真。  当時の記念写真は西二階建校舎の職員室前辺りで撮影するのが恒例だったようで、この写真は昭和4年のものだそうです。  私も小中高校や就職後など種々の記念写真がありますが、小学校時は三年生のときに宮山で橋本美和子先生とクラス全員を撮った写真が2枚と、関西へ修学旅行に行った時の法隆寺、平安神宮、大阪城の記念写真がありますが卒業写真はあったのか見当たりません。  中学校では卒業アルバムが作成されましたので、学年のクラス別記念写真があり、修学旅行では東京の皇居の二重橋前で写したクラス記念写真があり、それぞれの写真をデジカメやスキャナーで複写し拡大写真にしたり、パソコンに取り込んで往時を偲び楽しんでいる次第です。
父のアルバム 2004.02.11  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 95  旧浜島小学校西二階建校舎。  既に小学校は出湯の浅間山麓に新築された新校舎に移り、伊勢湾台風での破損部分を直した二階建校舎も空家となり、窓と云う窓は雨戸や板を打ち付けられて見る影もありません。下の写真は中心部分を拡大したもので、校舎の西側は補強のためか斜めの柱木で二ヶ所が支えられていて、たしか裏側も同じ方法で補強されていたと思います。多分、昭和40年代の半ばの写真と思われます。  校舎の窓際にはコンクリートで東西に長く仕切られた花畑が造られていて、その東端の職員室前には浜島簡易水道が完成後だと思いますが、水飲み場も作られたのでした。役割を終えた小運動場では漁業関係の人が漁網の手入れをしているようです。左隅に見える大木は写真でもわかりますが根元が穴になっていて、子供の頃によく中に入って遊びましたが一度中を覗いたら白骨化した猫の死骸があるのを見てしまい驚き、その日は一日中気分が悪く以後そこでは遊ばなくなった思い出があります。写真では枯れたように見えるこの大木も今はもうありません。  拡大写真をよく見ると後方には高山(浜島病院)の建物が見え、祖母のハツ婆様はこの病院の二階に入院したまま70歳で亡くなりましたが、そのとき和具から嫁してきた祖母の死を悲しみ、叔母や従妹が「ワンワン」泣いていたのを覚えています。また入院のとき担架で運ばれるのを見た近所の小童どもが「死んだのか」「死んだのか」と喚いているのを聞き、側に付き添っていた私は子供とは云えその無神経な声に無性に腹が立ったのを覚えています。  病院は坂を上って行くと蘇鉄だったかが植わった前庭があり入口を入ると右側が受付と診察室で、中央の廊下をはさんで左側が待合室で窓に沿って長椅子があり、その奥が薬局で正面廊下の奥には二階への階段と手術室があり、子供の私には何か恐ろしい感じがしました。レントゲン室もあったと思いますがさだかではなく、記憶違いがあるかも知れません。またこの時代は一度薬袋を貰うと節約のためか、次回に来院の時は薬袋を持ってくるように言われました。  私は小さい頃に右腹がズキズキ痛み診察の結果、慢性盲腸の疑いがあるとして明日にも手術と言われ、生きたここちがしなかったことがありましたが、翌日にはケロッと治って危うく腹を切られそうになり、言っては悪いけれど藪のお陰で大変な恐怖を味わったことがあります。そのとき何時も恐ろしいばかりの父が「大丈夫やで、大丈夫やで」と励まし、勇気付けてくれたのを覚えています。父の遺稿を読むと父も軍隊時代に出征した中国で軍医の誤診により、特異体質で盲腸が左にあるとか屁理屈を言われ、危うく腹を切られそうになったことがあったために、あの優しい言葉になったのかと後になって思いました。  学校の西門の両側に石柱が立っていたようで、すっかり忘れていましたが思い出してみると石垣に沿って低い石柱が立ち、その間を二段の鉄管でつないであったような気がします。この門の石段を下りて行くと右手の細長い建物で和船を造っていて、あの狭い道を完成した船を大矢の浜まで運べるのかと余計な心配をしたものです。2の写真に写っている玉転がしの紅白の玉や、綱引きの太く長い綱それに体操用具を入れてあった体操小屋はすでに無く、そこには懐かしいマツダの軽自動車キャロルが止まっています。  2003年11月19日付け中日新聞の「あの日あの時」に「秋の大運動会 浜島」として、昭和17年の運動会の様子を井上博暁さんが校舎のほぼ全景が写った写真を提供しています。この写真では西校舎の前は大きな木が植えられ、しっかり枝を広げ葉を付けているのが伺えます。
父のアルバム 2004.02.15  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 96  旧浜島小学校大運動場と宮山。  新校舎へ移転した後の幼稚園だけが残った大運動場の様子で、子供達が休日なのかソフトボールを楽しんでいて、古タイヤで道路と仕切りをしてあります。伊勢湾台風で倒壊した教室はきれいに撤去され、そこには幼稚園の遊具なのかブランコ、すべり台、ジャングルジム、ウンテイ等が設置され便所、小使室があった建物、改修された二階建て西校舎が写っています。  写真の西校舎東端は本来は小使室の建物と同様に寄棟の屋根でしたが、伊勢湾台風での損傷修理時に放送室を撤去し、切り妻の屋根に造り直されています。宮山(みやま)の崖の崩壊も相当進んでいたようで、崖に沿って運動場に立っていた鉄棒や崖の中央部に造ってあったゴミ焼き場も見当たりませんが、右端に僅かにすべり台の階段が見えます。山に林立していた松の大木は一本も見えず、ただ西行法師の歌碑だけがポツンと寂しそうに佇んでいます。父のアルバム 9、27、29の写真に多数の松の大木が写っていますが、その変わりようには目を疑います。  この運動場に溢れんばかりの子供達が毎朝、授業が始まる前や昼休み放課後にいくつもの集団をつくり大声をあげ、鬼ごっこや胴まいなどをして駆け回っていたのが目に浮かびます。またここは宮山を削って造成した運動場のようで、所々に岩が剥き出しのところがあり勢いあまって転ぶと膝や肘を擦りむいてしまい、東西校舎間の奥にあった保健室へ行き赤チンを塗ってもらいました。私どもが小学生だった50年程前の団塊の世代は一学年が四クラス程で、一クラスで50人近くの鮨詰め学級で、桧山路から通って来る児童は弁当持参でした。  朝礼は毎日だったか週一回だったか覚えていませんが、みんなが背の低い順に前へならいをしてそれぞれ一列に並び、私は阪東の稔之さん(トッチャン)がいたので何時も後ろから二番目でした。校長先生や他の先生の話を聞き終ってから運動場いっぱいに広がってラジオ体操をしたあと、全員で数分間の校庭の石拾いをしましたが拾っても拾っても元々岩肌のため、次々に石が湧き出てきて尽きることがありませんでした。あの拾った石ころは何処へ捨てたのか全く覚えていません。  私は、この崖の上から模型飛行機を飛ばしたり、祖母が持っていた和紙を貰い糸を糊付けして直径1メートルほどのパラシュートを作り、おもりを付けて投げ下ろしたりして遊びましたが、パラシュートは風に乗ると高く舞い上がって何処かへ飛んで行ってしまいました。伊勢湾台風時に潰れた教室へもぐり込んで取り出してきて作り直した飛行機は、左に曲る癖がありましたが思った以上に良く飛びました。  私は、初めて購入したマイカーの三菱ミニカ70で浜島へ帰り、この運動場へ持ち込みスピンターンの練習をして、デフとショックを破損し取り替える羽目になり思わぬ出費を強いられたことがありました。この車は2サイクル2気筒360ccのエンジンで、フルアクセルで走るとモクモクと白煙を吐いて走りました。今の軽自動車と違い全長3メートル、全巾1.3メートルで燃費はリッター7キロしか走りませんでした。ほかにスバルR2、スズキフロンテ、ダイハツフェローと四サイクルエンジンのホンダN360それからマツダのキャロルはアルミ四気筒エンジンを売り物にして、これらの自動車が日本のモータリゼーションを担い街を走り廻っていました。
父のアルバム 2004.02.19  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 97  旧浜島小学校のすべり台  浜島小学校のすべり台は大運動場の西南隅に、大鉄棒に対面したコンクリートの台座(旧奉安殿?)から砂場に向かって三本設置されていて、子供が喜んで遊ぶ遊具でしたが何時の日か宮山への登り坂に三本とも架け直されたようで、 このすべり台も浜島幼稚園が立て替えられたときには撤去されたようで何時の間にか無くなりました。  宮山への登り坂の下部は全面がコンクリートで固められていましたが、写真のように10メートル程登ったところの側面から、グルリと砂場のところまでの崖は岩肌がむき出しになっていて、今でもその痕跡がわかります。それからゴミ焼き場の左手は崖の窪みを伝って、また旧すべり台の隅は剥き出しの木の根っ子を伝ってそれぞれ宮山へ登ることができました。  この坂を登りきった角の崖下の中間2メートル程の高さのところに1〜2メートルの横長の段があり、私たちは崖を攀じ登りその削れた段のところでも遊びました。
父のアルバム 2004.02.24  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 98  釜崎(鎌崎)突堤の変貌  釜崎の変化が解るので比較写真にしてみました。  上の写真では未だ岬をグルリと廻る堤防が出来ていません。この時に南風荘が出来ていたのかどうかは写っていないため解りません。また突堤に二ヶ所あった切り欠きも明確に見ることができます。  中の写真には既に堤防が出来ていて、その上には何棟かの海女小屋が建ち並び、小屋の中では磯から上がった海女さんたちが、冷えた身体を焚き火で温めて休め世間話の笑い声が聞こえていました。  南風荘は工事中か北側に足場が組まれています。また堤防は外側をグルリと廻って造られたのではなく、岬の先端の一部をくりぬくように削りとって造られたようで堤防の左側に取り残された岩の塊が見られます。  下の写真は現在の様子を写したもので堤防は目戸からビン玉道路となり、突堤はきれいな遊歩道状になり手摺も出来、付け根部分も大きく変わっています。しかし、観光ホテルの衰退はたいへん残念なことです。   最近、南風荘の庭にあった古墳跡を探しに行きましたが、その荒れ様は大変なもので雑草のため入るのも困難な状態でした。
父のアルバム 2004.02.29  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 99  釜崎突堤の岩塊  釜崎の堤防が出来たことにより取り残された岩の塊の変貌が解ります。岩塊の先端には僅かに草も生えているのが見え、その下部は堤防と繋がっています。  下の写真は最近のもので、岩塊の柔らかい部分は長年の風雨や波浪のため喪失したのか、最上部と堤防に接した部分が無くなって岩塊は独立しています。また沖には防潮のためのテトラポットが長く設置され、目戸の海岸を台風の波浪から守っています。  下の写真では満ち潮のため解りにくいのですが、磯の形状は良く見ると昔と変わらないようです。
父のアルバム 2004.03.03  ◆ 父のアルバム   投稿者:井上   桑名人 100  釜崎突堤。  釜崎突堤の付け根にあった階段から東の方向を見たもので、突堤にあった二ヶ所の切り欠き部分が黒く横線になって見えます。子供の頃の私たちは突堤の先端へ行くのに、これが最大の難関で切り欠き部分を下りた後よじ登るのに背が低すぎて大変苦労しました。  現在の突堤はご覧のように巾も広く切り欠き部分は無くなり、コンクリートむき出しだったのがタイル状に綺麗に張りつめられて、両脇は手摺が設けられ安全にも配慮され容易に先端まで行けます。あの切り欠き部分は子供が危険な突堤の先端部分へ行かないための配慮だったのか、それとも突堤の強度上の構造だったのでしょうか。  先端は防潮堤のテトラポットと繋がり、遠く四国の四万十川から運ばれてきたと聞く大矢の浜の砂浜を守っています。遠くには矢取島と城山の一部が、その向こうに合歓の郷がある大崎半島が見えます。突堤の巾が広がった分だけ北側の磯が少なくなったようです。  2004.2.2.  -A・)vさん投稿の釜崎突堤の現状ともどもご覧いただければ幸いです。