【野口雨情詩碑巡り】
童謡『七ツの子』の作詞者・野口雨情は、1882年茨城県茨木市(当時の中郷村)に生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)を卒業。坪内逍遙に教えをうけ新体詩を志しました。民謡、童謡が盛んに歌われた大正の中頃には北原白秋、西条八十らとともに数多くの民謡・童謡を発表したのです。作詞の合間に全国各地を巡講して民謡・童謡運動の普及に尽くした功績は大きく南勢町にも昭和十一年七月『五ヶ所小唄』作詞のために立ち寄っています。代表作は、『船頭小唄』『波浮の港』などの民謡、『十五夜お月さん』『青い目をした人形』『雨ふりお月さん』などの童謡多数。
さて、『五ヶ所小唄』を作るために雨情は、毎日毎日各地に出かけました。主に自転車や舟を利用したといわれますが、時には土地の若い衆を担ぎ手に籠で山道をかけ登ることさえあったとききます。その雨情がよく利用した籠が今も五ヶ所・医王寺に残っています。雨情の作風は「土の詩人」と言われるように、それぞれの土地の素朴な情緒を詠いあげたものが多いようです。五ヶ所浦『二葉旅館』に宿をとった雨情は、景色を見渡せる部屋で心に浮かぶままを『五ヶ所小唄』にしたといわれています。その足跡は現在の刻み込まれた十三基の詩碑で五ヶ所湾岸に辿ることができます。

礫浦
礫台場の名残の松は 思や幾年経つのやら

相賀浦
波にぬれぬれきみ網曳いて 女ながらも夜を明かす

礫浦は魚の養殖筏が一面に浮かぶ湾央の入り江。詩碑は龍泉院境内、幕末の砲台ゆかりの浜に昭和59年に建てられたもの。丘の上、薬師堂奥には日和山古墳の石室が遺っています。相賀浦へは4.8キロ断崖上をゆく眺めの良い道が続き、途中には五ヶ所湾を一望できる南海展望公園も。美しく弧を描くニワ浜に下り、港に入ると橋の傍らに詩碑が建っています。

船越
空の雲さへ龍仙岳に 夜は来て寝て朝帰る

内瀬
空の月さへ内瀬の湾の 浜の小舟の中に照る

龍仙山は湾岸でもっとも高い標高402メートル。サニーロードと船越の集落から、車の通れる道が中腹へ通じ『楓江湾』の眺め抜群。詩碑は国道260号を西へ、消防署の側に建ちます。船越トンネルを出ると内瀬の入り江。村島の対岸に詩碑が建っています。冬は一面アオノリのノリ網。伊勢路川河口にはハマボウの大群落があり、夏黄色の花を次々開かせます。

宿浦
かつらじま
葛島なら廻れば一里 海女の貝とり舟で見る

田曽浦
みさきとどまり
三崎止尼崎かけて 岩に散るのは浪の華

宿田曽は遠洋漁業の港町。魚市場の前から新道の坂を上がると、小さな祠のある一角に詩碑があります。長い防潮堤の先に浮かぶのが葛島、背後の丘は南朝史跡『花岡城址』折り返して新道を湾口に向かって約五百メートル、八柱神社の横の港を見下ろす高台に詩碑が建っています。傍らには大きなカツオの像、崖の下には遠洋漁船の一年船員『炊き』の像も。

五ヶ所浦
伊勢の五ヶ所は真珠の港 波のしずくも珠となる

ここは五ヶ所愛洲の城址 聞くもなつかし物語り

五ヶ所など湾奥の浦々では、冬が来ると真珠貝の浜揚げ・採取が始まります。ここは大正時代からの伝統のある養殖の海。詩碑は町民文化会館の庭に建てられています。国道を渡って『愛洲の里』へ、道標に従ってみかん畑の細道を登ると丘の上に愛洲氏の五ヶ所城址。途中、詩碑のある付近には居城跡も遺っています。

切原
山にひびいて白滝さへも 水は砕けて花と咲く

剣峠
神路山越えまた来ておくれ 乙女椿の咲く頃に

切原は五ヶ所川上流の集落。昔、五ヶ所街道と呼ばれ、魚を伊勢の街へ運んだ剣峠越えの道が通っています。途中、道標に従って右折すると、詩碑の建つ白滝の入り口へ1.5キロ。元の道に戻り急カーブの道を登り詰めると標高333.9メートルの剣峠。詩碑の前からは、山並みの彼方に光る五ヶ所湾が望めます。切り通しの先は伊勢市、椿の純林が見事です。

伊勢路・瀬戸橋
穂原瀬戸渓つつじが咲いて 鮎は若鮎瀬をのぼる

瀬戸渓は伊勢路川上流、サニーロードの瀬戸橋辺りの峡谷。詩碑の建つ向かいの切り立った崖には四月上旬、淡いピンクのミツバツツジが花咲き、彩りを添えます。

中津浜浦
月の出頃か御所島あたり 啼いて渡るは磯千鳥

サニーロード終点から湾央に突き出た中津半島へ。途中、右折するとヨットハーバー、右手には国立養殖研究所。詩碑は集落の入り口、茶臼島を背にして建っています。

神津佐
梨の花見りや神原恋し こひし神原梨どころ

神津佐は五ヶ所湾への東の入り口。南勢町誕生以前は、隣の磯部町に編入した東部を含め神原村といい、梨を特産とした。詩碑は県道沿い、神原神社の石段横に建っています。