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相賀浦のサイン

【 郵便番号 516−0118 】
【 市外局番 0599(64) 】


【歴史】
南勢町から南島町の海岸沿いにある、七つの平家落人の村=「竈方」のひとつ。かつては落ちのびてきた落人に漁業権はなく、製塩と林業を生活の糧としていた。明治以後は、山林を漁民と分け合うことと引き替えに漁業権を得て、源平仲良く暮らしている。 また正月4日には、竈方祭りが行われる。このときに公開される古文書は県の文化財に指定されている。
【産業】
一本釣り、延網の水揚げ高が南勢町で一番多い地区。1から3トン未満の漁船の登録隻数も最多。タイ、ハマチなどの養殖も盛ん。若干ではあるが、真珠養殖も行われている。


【砂浜と海跡湖のある町】

長い渚が弧を描く相賀浦ニワ浜、伊勢志摩国立公園では数少ない海跡湖もあり、ひなびた町のたたずまいが楽しめます。平家の落人の流れをくむと伝えられる集落や、その独特な民俗など興味ある秘境の場所です。

海蝕海岸と海跡湖

熊野灘の荒波が造りあげた天然の美。切り立つ崖と砕け散る白波に、海鳥が舞います。伊勢志摩国立公園の中でも超特級の風景であり、もちろん特別地域に指定されています。長年月にわたって、押し寄せる波が海跡湖を造りあげました。

【板の魚神事(大賀神社)】

毎年11月16日に相賀浦の大賀神社で行われる神祭にはとても変った神事があります。1年間の報恩感謝、また次の年の豊漁安全を祈願して、板の上に乗せた魚を奉納する『板の魚神事』は、1ヶ月前から塩臓しておいた鮪、鰹、鯛各一対を板の上に重ね、その上に『練りもの』と呼ばれる藁縄で飾り付けて供えます。その道中も大変面白く、また捧げられた魚は『御供さん』と称し、切り分けられ各家の神棚に供えられます。

【シルバーボランティア村田忠一さんの相賀浦ガイド】

相賀浦は湾の西の入口。茫洋と広がる熊野灘に臨み、定置網漁や養殖業の盛んな古くからの漁村で、山側には源平の合戦で滅亡した平家の一族が逃れて住み着いた集落、『相賀竃』があります。村田姓の家はその子孫。「昔は塩焼きを生業としていたから竃といったんですな。」相賀竃の総代だった村田さんは、今も正月に南島町の6つの竃と持回りで行われる『竃方まつり』の儀式を写真で説明してくださいます。「昔の相賀の部落はね、桂雲寺の前、防波堤の根元にあったんですわ。それが明治3年の秋大津波で全滅しましてね」現在の地に村が移転するに伴い明治8年に浦方(漁民)と竃方との合併が行われ、『相賀浦』となったとか。それではまず、集落を一望しようと高台に建つ相賀小学校に案内していただきました。昭和60年に統合、閉校となった校庭には『ああ母校』と刻んだ記念碑が建ち、階段を登ると五ヶ所湾と海跡湖・大池を区切るニワ浜の砂州が長く弧を描いて広がります。浜沿いの海にはハマチや鯛などの養殖筏の群。大池には真珠の筏。夏にはニワ浜は海水浴客で大賑いという話を聞き浜へ行ってみることにしました。石段を下り、相生橋を渡ると前方にこんもり茂った大賀神社の森。老木、大木が多く、神域にふさわしい雰囲気です。そのうえ御手洗石が3メートルもある巨大な自然石をくり抜いた見事なもの。「湾の外のヨナゴの浜の海中に有ったのを船で運びましてね、奉納したんですわ」由来を伺うと波の荒い外洋に生きる人々の豪放さ力強さが伝わってくるよう。神社の森と接してすぐ隣に桂雲寺の山門がありました。本堂や庫裡は鉄筋コンクリートの壮大な造り。遠洋漁業の船主の寄進を中心に檀徒一丸となって昭和55年に新築したものとか。しばしば高波の被害を受けてきた寺成ればこそなのでしょう。昔相賀の部落があったという辺りは、すぐ前が海岸。「ここはまだ、海水浴場の設備が不充分でね、老人会で駐車案内や空き缶の始末はさせてもらっとるんやが、毎年夏が来ると大変で」と笑う村田さんでした。

【体験型宿泊設備 海ぼうず】

平成12年4月12日、旧相賀浦小学校を改装した、体験型宿泊施設『海ぼうず』がスタートした。この地区には今まで沢山の方に宿泊して戴ける施設がなかったため、大きな関心が寄せられています。 海水浴や海釣りはもちろん、立網や地引き網に干物作り、磯遊びや海上巡りと、ようような体験が楽しめる施設になるとのことです。