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五ヶ所浦のサイン

【 郵便番号 516−0101 】
【 市外局番 0599(66) 】


【歴史】
五ヶ所は、昔「五ヶ瀬」と呼ばれていた。五ヶ所川の下流一帯が五つの瀬をなしていたところから、この名が付いたと云われている。
また、ここは南北朝から戦国時代、愛洲氏の台頭によって栄えることとなった。現在、町役場・町立病院・学校などの公共施設が集中した南勢町の中心である。

【産業】
真珠養殖に従事する家が最も多い頃、浜揚げシーズンの11月から2月にかけては、岸辺の作業小屋で貝剥き作業が行われ、次々と神秘的な光を放つ珠が採り出される。
次いで多いのがマルゴマークで有名な「五ヶ所みかん」を栽培する農家。温暖な気候の中、日照時間の長い南斜面に作られた畑で育てられる五ヶ所みかんは、甘さと爽やかな酸味を併せ持つ南国の太陽の味。
その他にも、八朔・甘夏・セミノールなど柑橘類が豊富な里。


【愛洲の哀話と真珠・みかんのふるさと】

南勢町の中心地。観光の拠点地でもあります。真珠養殖、青のり養殖のほか、背後の段々畑は全て五ヶ所みかんの畑。秋から冬への実りの頃は黄一色の景色となります。愛洲一族の哀話とそれを物語る城址や塔頭を訪ねるのも良いでしょう。周辺には、白滝のある切原、サイクリングにも好適な中津浜浦などの静かな集落が点在します。

五ヶ所城址と愛洲一族の塔頭

愛洲城址石柱 愛洲一族の居城であったと云われる五ヶ所城址は小高い森の中、竹藪に囲まれた素掘りの堀が遺構として現存します。城郭史上貴重なもの。その近くには一族の墓が並び戦国の哀話を秘め、訪れる人が絶えません。
愛洲氏塔頭中世の城跡としては『詰めの丸』(戦時の砦)と『居館』(生活の住居)の跡がはっきり残っている貴重な遺跡で、居館は顕彰碑の建っている詰めの丸から南に向かって200mのところ(現在はみかん畑)。この辺りからは、山茶碗、土師器片、宋銭などが出土していて往時の栄華が偲ばれる。

【剣道の始祖 愛洲移香斎】

愛洲移香斎像愛洲移香斎は約六百年前の南北朝時代に南朝方の忠臣として活躍した豪族・愛洲氏の一族で、全国の剣道家から『始祖』と仰がれている剣豪。享徳元年(1452)に生まれ、青年時代を五ヶ所で過ごし三十代から他郷に武者修業を重ねた末、『愛洲陰流』を創設し全国に広めたと伝えられています。剣祖祭公開演舞剣豪として有名な新陰流の始祖・上泉伊勢守信網や塚原卜伝もこの陰流を受け継ぎ柳生新陰流も愛洲陰流の枝派。現在に伝えられる日本剣道の源を探ると移香斎の愛洲陰流に辿り着くといわれ、五ヶ所はいわば剣道発祥ゆかりの地なのです。
郷土の剣豪を世に出そうと昭和57年秋、『愛洲移香斎顕彰会』(会長岩城弘氏)が設立され、以来毎年八月第三日曜日には五ヶ所各地にノボリを立ち並べ、愛洲城址で移香斎を偲び、内外の高名な剣道家を御招きして『剣祖祭』を盛大に行っています。また毎土曜日の夜七時過ぎには青少年体育センターからはピシッ、ピシッと竹刀の音と共に「エイ、ヤーッ、メーン」と元気な少年剣士たちの気合の声が聞こえてきます。

剣道の頌徳碑

碑は五ヶ所城址のほとり愛洲の里の庭園に建ち、明治以来南勢地区にあって剣道の発展に努めた先師の功績と遺徳を後世に伝えるため、剣租縁の地を選んで建てられたもので松坂伊勢志摩などの十八名の剣道家の名が刻まれています。

【愛洲の館周辺マップ】

愛洲の里・館周辺マップ


【切石の祠と城址の古井戸】
愛洲の里・切り石の祠   愛洲の里・古井戸址


【愛洲氏縁りの五ヶ所三寺】

寿山印禅師(1458没)の創建で、城址を対岸に見る見晴らしの良い高台に曹洞宗如意山正泉寺があります。五ヶ所城主愛洲重明の姉が護持したと伝えられるこの寺には、頂頭部に数カ所穴を開けられた元禄15年の銘入りの銅鐘があります。これは浜の漁師がこの鐘が鳴ると魚が逃げてしまって、「漁が出来ない」と泣きついたので音を小さくするために穴を開けたのだという逸話があります。その梵鐘脇には、獅子島から移植した珍しいハマジンチョウの一株が植樹されています。
 また、海岸警護のために紀州藩から御番所に詰めていて、客死した藩士やその家族の墓所があり史跡となっています。また1214年写経による県指定文化財・大般若経六百冊の蔵書を所蔵しています。
 正泉寺から海に向かって暫く歩き二葉旅館へ続く小道を入ると石垣の続く参道に入ります。正門から見える本堂には龕木(がんぎ)と呼ばれる雨風よけのスカートのような軒が垣間見れます。ここは、運慶作と伝えられる正観音像を本尊とする、臨済宗妙心寺派の瑞雲山青龍寺と呼ばれる寺で、端正な庭には鐘楼と石造りの五重塔が建っている愛洲氏の菩提寺です。裏手奥には自然石で造られた愛洲氏祖先の小さな墓が鎮座しています
 創建は1555年(弘治元年)、愛洲氏の滅亡と共に消滅しましたが、その後再興・移転を経て江戸時代の初期(明暦・万治の頃)に現在の青龍寺が建立されました。門脇には白と紅が鮮やかに混色する椿が植えられています。
 青龍寺の下には西本願寺派守護山医王寺があります。地元ではこの寺を『下の寺』先の青龍寺を『上の寺』と呼びます。参道には樹齢100年を越える大銀杏の大木があり、毎年鈴生りの銀杏の実を付け近所の人達を喜ばせます。
 正面に本堂、右脇には薬師堂が見えます。創建当時は、愛洲氏の祈願所であり、真言宗瑠璃光山医王教寺と呼ばれ薬師三尊を本尊としていましたが、宗旨改めで現在の浄土真宗の寺となりました。本堂は、1811年(文化8年)に玉城町田丸玄徳寺から移築された物です。野口雨情が詩作に使ったとされる嫁入り籠が、現在も本堂脇の軒に吊されています。

はまじんちょう…本州唯一の貴重な花

湾最奥の小島獅子島に自生する熱帯植物で、本州唯一の貴重なものです。
2月早々にうす紫の可憐な花が咲きます。海上の道をたどり遠き島から流れついたのでしょうか。自然の営みにロマンを添える名花です。
ハマジンチョウ

獅子島のある風景 五ヶ所湾の一番奥、五ヶ所港の目の前にこんもり浮かぶ小島・獅子島は、本州でただ1株と珍重される熱帯植物「ハマジンチョウ」が 自生する島として有名です。島の西側の浜弁財天が祀られている赤い鳥居の側に生えている常緑の低木で、湾内巡りの観光船からもよく見えます。 誰かがこの地に移植したのか、流れ着いたのか、そのルートは謎とされ、県の天然記念物に指定されています。この木が花を付けるのが早春2月。 薄紫の1センチほどの小さな花で、花弁の先が五枚に分かれ、沈丁花に似ていますがあの強い臭気はありません。十年ほど前、島の護岸工事の際に分けた という一株が、五ヶ所の高台にある正泉寺の庭でも、可憐な花を付けます。

【弁天さんの船のパレード】

弁天祭りの船のパレード7月中旬、五ヶ所浦天王祭と前後して五ヶ所漁協主催の弁天祭が行われます。普段渡る術のない獅子島へ上陸するチャンスです。大漁旗や吹き流しを旗めかせた飾り船が数多く出船し、獅子島・漁組荷揚げ場を往復して祭り客を送迎します。
島内の社に参ると紅白のお餅のプレゼント、和尚さんを迎えての祈祷が終わると餅まき・豪華賞品が当たる宝探しと楽しい行事が一杯の当地の祭りです。地元住民以外でも参加できますので、お気軽にお越し下さい。
弁天祭りの餅撒き

みかん園から五ヶ所湾を望む
みかんのある五ヶ所湾風景

【高名なマルゴ印のネーブル、ポンカン】

マルゴみかんの柑橘積雪知らずの温暖な五ヶ所湾奥一帯は、名産『五ヶ所みかん』のみならず晩柑類の栽培にも適し、その種類の豊富さでも有数のみかん処。甘夏、八朔をはじめ、ネーブル、イヨカン、ポンカン、レモン、グレープフルーツ・・・山には昔ながらの酸味の効いた夏みかん、農家の庭先にはキンカンやザボンの木も植えられています。西洋梨のような形をした『ヒョウカン』温州みかんとオレンジとの交配種セミノールとは兄弟格の『カラー』など珍しい品種もあって、まるでみかん類の標本園のよう。ネーブルやイヨカンは12月から1月にかけて収穫され、共同撰果場が集荷するまで乾燥しないようにビニール袋に詰められて各農家で保管されます。ただし出荷量は温州みかんに比べればごく少量でポンカンなど、二、三百ケースとか。例年マルゴ撰果場では、ネーブル、ポンカン、イヨカンは2月下旬に、ハッサクは3月初旬、甘夏とセミノールは4月下旬頃から出荷を始めるそうです。

椿のトンネル

伊勢鳥羽の海岸べりのどこにも見かける紅の藪椿。五ヶ所の裏山には老木若木が枝を広げ自然のトンネルを形作っている。幹と幹との間から見える照り返す五ヶ所湾。掃き清めたような道に散り敷く紅色の花頭の風情が季節を感じさせます。 つばきの花

地方色豊かな注連飾り 蘇民将来子孫の門

伊勢志摩・度会地区では『お伊勢さん』の土地柄で年を通じて民家の軒先に注連飾りをつけて病魔祓いや招福祈願を行っています。市販の飾りは隣町の玉城町ものが多いようですが、地元でもそれぞれの家風を表した松飾りや注連飾りを見かけます。 年の暮れ、玄関や神棚だけでなく倉や便所にも注連縄を飾ります。縄に添えるのは縁起物のウラジロ、ユズリハ、ヒイラギ、アセビ。地区や家によって多少の違いがあります。
また、注連飾りに使うお札には『笑門』、『招福』、『蘇民将来子孫の門』などと書かれているものがありますが、最後の『蘇民・・・』が注連縄の元になったとされるものです。蘇民はあることから神様に「これから疫病が流行るので一族の腰に藁縄を巻き付けて他の民と区別しなさい、私が悪疫を祓います。」と命じられたので、そのようにすると一族だけ生き残った。それ以来麦藁を腰につけていたがどうにも動きにくいので藁縄を門前に飾って悪疫から一族を守ったという云い伝えからでたお呪いです。

【観光旅館 二葉】 66-0028 和風の落ち着いた趣

観光旅館二葉 五ヶ所浦のバスセンターから程近く、路地を入った一角に創業大正10年という老舗旅館『二葉』があります。
白壁に黒の格子窓と欄干がくっきり映える木造3階建て、主人は『ふるさとの会』の前代表・中西延吉さんです。
 「私で3代目でしてね。現在は建築できない建物ですが、2回ほど改装して小綺麗にしました。昭和11年に五ヶ所へ来遊した野口雨情が泊ったのは本館の隅の部屋で、直筆の書が残っています。」
 館内は純和風のしっとり落ち着いた雰囲気。階上の窓からは、波静かな五ヶ所湾の景色が見渡せます。
 「お泊りのお客様は、大阪や名古屋方面からが多いですね。ゆっくり寛いで美味しいものを食べにお越しになるご家族連れやグループ、それに春夏は合宿の学生さん。地元の方にも色々宴会に利用していただいています。」
 名物料理は、旬の魚介の活き造り『愛洲舟』。鯛、伊勢海老、あわびなどの豪勢な舟盛りで、土地の豪族・愛洲氏に因んで名付けたものとか。
 その史跡、五ヶ所城址へは歩いて10分ほど。楽しい散策コースです。「青龍寺から上がった裏山も、湾の眺めがいいのでお勧めしています。」
 交通公社や近畿日本ツーリストなどの協定旅館。

民話・むかし話【牛鬼】 愛洲滅亡の秘話と創作民話『うしおにさま』の基

愛洲の里・うしおにの石像江戸時代の『勢摩軍記』によると、五ヶ所湾の切間の谷にひとつの洞穴があり、ここに牛鬼という変ったものが住んでいた。首から上は牛の頭をし、人間の様にものを言い、一日に千里も走る通力をもった強鬼だったという。 この牛鬼は、よく西山にでてきて、五ヶ所城の殿様(愛洲重明公)が城中で弓の稽古をするのを眺めていた。ところが、弓自慢の殿様が、あろうことか、ある日、その矢を牛鬼めがけて放してしまった。矢は牛鬼の胸元へ当たり、牛鬼は西山の畑へ真っ逆様に転げ落ちた。このときの牛鬼の泣き声はすさまじく、その上、真っ黒な煙がもうもうと立ち上がった。その煙にむせんだ城主の奥方は毒気にあてられ、治らぬ業病を患うことになった。そのため、親元の北畠家へ養生という口実で帰され、あとから離縁を申し送られ、奥方はそれを悲しんで自害してしまった。 この非道を怒った北畠家は、ついに軍を起こし、とうとう愛洲家は滅亡してしまった。この牛鬼というのは、もともと五ヶ所城の主人だったそうで、死際に「自分を助けておけば、この城は末長く繁盛するものを」と言い残したという。西山の下の『ウシマロビ』という地は、この牛鬼が転げ落ちた地であると言われている。
一年を通じてみかんを提供する直売店【土実樹(つみき)】 みかんの里五ヶ所に出店
 収穫祭の折り、講演ゲストとしておいで戴いた事もある切原・日の出農園の溝口安幸氏が、土実樹写真当会事務局(グリーン・アンド・グリーン)の道向かいに一年を通して温州みかんをはじめとする柑橘類の産地直売をおこなう出張店舗『土実樹』をオープンしました(H12.10.8)。当会五ヶ所湾ふるさとの会発起人の一人でもある志摩ヨットハーバー寺田氏が参加する、ふるさと産品直送『てんぷな会』の一員でもあり、柑橘の他にいろいろな南勢町の地元産品を取り扱っています。当地においでになったとき、お土産探しに困ったら一度お寄りになってみてはいかがですか・・・・・・。