43.東門院具親伝

私の一生は一体なんだったのであろうか?前生を南都の僧侶として修行に明け暮れ、後半を勝ち目の無い戦に捧げつづけた。あの日、あの事件が無かったら私は一僧侶として何も苦しむことなくその生涯を閉じられただろう。「大御所横死」、これが私の人生を変えたのだ。

兄は確かに偉大な人だった。剣を取れば無双、歌道や学問にも通じていた。幼い頃から木造の兄、具政や私はその兄の有能さ、強さに憧れを抱きつつも嫉妬する心もまた持っていた。いくら、嫡男として有能な家臣師範に着いていたとしてもだ、私にだって、木造の兄にしても同じ条件であって兄と同じことができたのだろうか?私は出来ないと思う。それがわかっていた、いや、それ故に私は兄を憎んだ。木造の兄も同じ思いだったはずだ。

兄に勝てるものなどいるわけが無い。これが兄弟の、いや一族の暗黙の了解であったのだ。そして「北畠具教」と言う壁を超えるため、次兄・具政は織田信長を伊勢に引き込んだのだ。次兄の兄への羨望は反逆という最悪の形で兄を苦境へ叩き込んだ。私が木造に入っていたらどうだろう?やはり同じことをしたであろうか?いや、できない。仏門に入って解る。結局、木造の兄も己で越える道を見つけられなかったのだ。その機会さえ得る事ができなかったのだ。

だが、私は違う。兄を隠居に追い込み、あまつさえ謀殺した織田信長、彼を倒す事で私は偉大な兄を超えられる。国司家復興、伊勢回復、どのような大義名分も私の本心ではない。兄具教を越え、北畠一になる。この一心で私は還俗した。具親と名乗り、旧臣を糾合し、私は伊勢へと進んだ。

しかし、天はやはり私に兄を越えさせようとはしなかった。敗退に次ぐ敗退。甥、亀寿丸を国司家として担ぎ大河内顕雅卿のように国司家を仕切る。六角家から妻を娶り安芸にいる大樹、甲斐の武田らと手を組み信長を倒そうとした。しかし、結果は三介にさえ勝てず安芸に亡命。あの信長が本能寺で明智日向に討たれたと聞いた時私の胸にあったものは「仇を討ちもらした」という無念さでも、「伊勢回復の好機」という期待でもなく「兄を越える機会を永久に失った」という悔しさでいっぱいだったのだ。伊勢、そして伊賀で北畠復活を待つ家臣たちは快哉を叫んだという。明智に投じた者達もいたらしい。私を伊勢に呼び再興戦を始めたが、もはや私にその気力は無かったといっても良い。

今、私は南勢の領主となった蒲生氏郷の食客となって、伊勢にいる。三介を追い出すためだけに成り上がりの猿面冠者のその又家臣に寄寓することとなった。北畠の名を利用するためか、私に蒲生の与力になれと猿は言う。しかし私は断った。田丸の直昌がいる。木造の兄は三介について尾張に入った。もはや、武家としての北畠は、必要ないのだ。京に行き、公卿として行きたい。そう望む私に返事はするものの一向に沙汰は無い。そして私は病に倒れてその生涯を終えようとしている。わたしの死で伊勢に再び北畠は立つ事は無い。いや、兄の死で北畠は終ったのだ。