1.「不智斎の首塚」

  去る5月9日、お仕事が休みでありましたので飯高町の北畠具教首塚に行ってきました。胴塚はしょっちゅう行くんですが首塚は2度目。織田信長が暗殺という手を用いてまで倒さなければならなかった具教卿。家臣が命をかけて守ったその御首にもう一度お会いするためです。

「面白いか?」人にはそう聞かれます。面白くはありません。わざわざ山登りして墓参りするだけです。でも、そこに行けば、敬愛する人は確かにいるんです。剣豪としてはあまりにも無残な死、忠臣たちの手によりやっとたどり着いた彼の永住の地。そこに行って聞こえるはずのない声を聴く。見えないはずの顔を見る。そこに意義を見つけ出すのです、僕はね。

車で2時間弱。麓に車を止めて山に向かいます。山中にあるためひざに故障のある私には大変苦痛でありました。その苦痛を乗り越えやっとついた首塚。そこには大きな五輪塔が私を待っていてくれました。それを見ればそれまでの疲れも吹っ飛びます。「久しいのう。息災か?」僕にはそう聞こえました、具教卿の武将らしい声が。「はい。卿にもお変わりなく。」そういって持参したお酒と線香を供えしばしその場にたたずみます。剣豪であり名門の当主であった具教卿と薨後399年に生まれその生き方にほれ込んだ私との2度目の会見。北畠氏の同好の士についての報告、今後の我々の活動を見守ってくれるよう祈念し、具教卿と殉難した忠臣たちに見送られ帰途につきました。やはり北畠氏は私のライフワークになりそうです。

16.具教卿胴塚について(具教卿関連史跡その1)

三重県多気郡大台町字上三瀬。ここは北畠ファン、ことに戦国期北畠氏を中心にしている方は避けて通れない場所です。なぜなら、ここは戦国北畠氏終焉の地であるからです。ここで何度も述べたかと思いますが、織田信長の謀略により北畠具教卿は逆臣達の刃にかかり憤死、嫡子具房は押し込めと言う非常手段により滅亡いたします。その際に討ち取られた具教卿の首は家臣が奪還し飯高町の山中に葬られました。三瀬に残った胴はそのままその地に葬られています。これが胴塚です。

なんでこんな事を説明するか、と言うと、「なぜ、首塚と胴塚があるのか?」という質問をよく受けるからです。

僕が初めてこの地を訪れたのは、実は遅く大学4年の春です。友人が林業組合に就職したい、と言い出し、その彼をもう一人の友人(彼が木造研究家です。)と共に送った後一緒に訪ねたのです。ちょっとわかりにくいところにあるのですが、写真で見たとおりの胴塚がそこにあります。行きたくて行きたくてしょうがなかったその場所に立っている。そのときの感激はどんなものだったでしょう。線香を手向け手をあわせたまま、その場に立ち尽くす僕を木造研究家の友人は複雑そうな視線で眺めておりました。その夏には、2度目の訪問。この時は高校時代の友人たちと共に行きました。北畠氏フリークである僕と兄弟のような付き合いをしている彼らは浮かれている僕をただ、眺めていました。その後館址、北畠神社をまわり一人熱く語っている僕に半ば呆れ顔でしたがね。

それ以後、毎月といっていいほど通い詰めの私です。

こんな感じで皆さんに具教卿関連史跡と共に私の思いをお伝えしていきたいと思います。

20.田丸城について(具教卿関連史跡その2)

田丸城。以前にも言いましたが私はここで初めて「北畠」というものに出会いました。まさに僕にとってここは聖地そのものです。准后・北畠親房が築城し吉野朝廷の拠点として機能したこの城はやがて北畠支族の田丸氏の居城になります。この田丸氏もなかなか面白い家系でありますのでいずれ研究してみたいなとも思っています。     

  信長による伊勢侵攻後、国司家に養子に入った茶筅丸はここを居城にして三瀬谷の具教館や中心たちの居城とにらみ合う形をとっております。そして、天正4年11月25日、三瀬の変にて具教卿が謀殺された同じ日、信雄は義理の叔父にあたる長野具藤、式部親成、坂内具義らを誘殺しました。これをはかなんだ正室、千代御前は自害。ここは、国司家の忠義と矜持の象徴であったと同時に国司家滅亡の墓標でもあります。そんなところですがいまは後世立て直されたものの石垣しか残っていません。

それでも、僕はここに行って、たたずんでみます。なぜなら、ここが僕の「原点」なんです。ここが今の「北畠具顕」を生んだ母の胎内なんです。ちょっと感傷的かな()。だからここに行くと改めて自分を考え直す機会を与えられます。「具顕よ、お前はそも何者ぞ?」この答えを出そうと僕は必死です。

27.三瀬谷参詣記

  11月25日、わざわざ休みを取っていってまいりました。無論三瀬谷まで。私のうちからチョコ1時間。遠いですねぇ。激戦となったのは松阪市ですから。そこまで30分かかるんですよ。紀州方面に向かって只ひたすら車を走らせる。もう眠たくってねぇ。何回寝そうになったか。いくらなんでもまだ具教卿と冥界で謁見なんてのは勘弁して欲しいですから。やっとついたと思ったら、狭苦しい道を駐車場まで行かなきゃなりません。大台町はお茶の産地ですから、茶畑の中に駐車場があります。この日はおばあちゃん達が紅葉狩りでもするのか歩いてましたね。それこそ戦国時代にここで何があったか知らずに。あんまり地元でも普及してないみたい。どうした、大台町!

さて、車を止めた後ちょっと歩くと胴塚があります。ちょっとした森を抜けて畑の真中を抜けて小川を渡るとそこにあります。この日は線香を持っていったんですけどね。馬鹿なモンでジッポのライターを持ってたんですよ。線香に火をつけてたらガスが切れてねぇ。慌てて車に戻って100円ライターとりに行きました。卒塔婆が新しいものに代わっていましたが徳松と亀松のものはなくなってました。

  その後、館址に行ったんです。なんかねそこにも胴塚碑がありまして。そこにはお供えが一杯供えてあって。「ああ、わかってる人たちってやっぱりいるんだなぁ」ってなんだか嬉しかったです。

   それから、神社に参詣に行ったんですけども、人っ子一人いない。寂しいものです。あ、知ってます?神社には具教卿の像があるってのは有名な話ですけど、創建当時から具教卿の首塚のところの土が祀ってあるんですよ。これを取って来るとき首塚の地元の人は手伝わなかったといいます。祟られるって言ってね。そういう風に言うって事は静かに眠ってもらおうというのが根底にあったと思うんです。昔の人たちはやっぱりそういう風に悲劇を解ってたんだな、と思います。以上、参拝日記でした。

33.五箇篠山城(具教卿関連史跡その3)

 先日、勢和村に行く機会がありましてその途中で五箇篠山城に立ち寄りました。ここは別に具教卿に関係があるわけじゃありません。時の城主野呂氏が具教卿の命で志摩海賊衆討伐にいったというくらいです。関係があるのは、具教卿亡き後、舎弟・東門院具親が2度目の再興運動を始めた拠点であります。具親はここから北畠最後の栄光の場となった大河内城奪還を目指したと言います。もちろん、建物が残っているわけではありません。説明書きには具親挙兵なんて事は書いてありませんがそれでもいまだ城跡は勢和の山奥から伊勢平野を睨んでいます。しかし、具親は武運なく敗れます。武家としての北畠氏は2度の具親敗退、信雄の織田復姓によってなくなったのです。          

北畠氏は確かに滅びました。しかし、その史跡は全て伊勢全土を睨んでいます。あたかも北畠武士団が伊勢を魂魄になっても守りつづけるかのように。現在の三重が名古屋の植民地、大阪のベッドタウンなどといわれても伊勢人最後の矜持がここに表れていると思うのは私だけでしょうか。

37.北畠史跡探訪・大河内城

永禄12年、伊勢の剣豪国司・北畠具教と尾張の風雲児・織田信長の最初で最後の対決である大河内城決戦。

この城を訪ねたのはたった1回、大学時代の事です。さほど堅固とも思えない城跡でした。7万もの大軍を以って囲むほどの城じゃないんですよ。はっきり言ってしまえば3万で落とせるんじゃないかなぁと思うんです。

しかし、それが持ちも持ったり30日。大変でしょうね。餓死者も出たでしょう。兵糧がたくさんあったとはいえ負傷者も多く抱えて死んでいくのを見なければいけなかったら相当辛かったんじゃないかと思います。それでも信長相手に徹底的に交戦した。何故なんでしょう。一国平和主義でも覇権争いでもなく、ただ、乱入者が許せなかったんでしょうね。

あの戦いが無かったら北畠はどうなっていたんでしょう。滅んでなかったとは思いません。あの時点で戦ってなかったらおそらくもっと兵力差があって一撃で撃破されたでしょうから。あの戦いで北畠は全国に武名を挙げたでしょうか?あげていません。結局は織田の情報操作で降伏した事になっています。

しかし、伊勢と言う平和な土地を信長に蹂躙されないための合戦だったのではないでしょうか。そこに勝ち負けはなかったのかもしれません。