建門院残日禄〜北畠具教の妻〜(その1)
天正11年、覇王織田信長の後継を争う次男北畠信雄と三男神戸信孝は織田家宿老羽柴秀吉と柴田勝家を其々味方につけ、ついにこの年激突した。世に言う賎が岳の合戦である。この結果神戸信孝、柴田勝家、滝川一益、佐々成政らは敗退し、各々滅亡の道をたどった。そして北畠信雄は甥の三法師の後見となり「天下さま」になったが、しかし秀吉との確執がこのころより進行していた。丁度そんなころの話である。
それはただの領主の喧嘩で始まった。夏八月も半ばにさしかかった日のことである。信雄の家来で船江衆を率いる本田左京亮の従弟にあたる本田彦の進が子分達を率いて上庄の百姓たちに年貢を強要した事が発端であった。普通なら天下の主となった信雄の意向で村人達は本田に年貢を納めなければならない。しかしここは大宮氏の支配権だった。大宮氏といえば落ちぶれたとはいえかつては北畠氏の重要拠点・阿坂城を任されたいたほどの名門である。したがって領民達も誇り高くたかだか侍大将の本田氏のしかも当主ではなくその威を嵩に来た若者の言うことなど聞こう筈がない。腹のたった彦の進らは若い娘を強奪そのまま丘のうえにある小屋に立てこもった。騒ぎを聞きつけた領主の大宮大之丞が若い百姓数十名と小屋を囲んだ。
「船江衆に告ぐ!!!この上庄は国司さまより我らが給わった土地。己たちの言い分は聞けん!!!とっとと村から去れい!!!今なら手出しはせぬ」
その声を聞いた彦の進は小屋から子分達を引き連れて出てくると
「おうおう、誰かと思えばご家老さまの馬鹿倅。このわしの言い分を聞かぬという事は、天下様に対して弓を引く事と同じじゃ。それを覚悟で言っておるのであろうな。百姓どもが束になったところで我らにかなうはずもなく。言う事を聞いたほうが身のためと思うが。」
「黙れ!!!三介づれに媚びて取り入ったやつらの言う事など死んでも聞けぬわ。」
「抜かしたな!!!阿坂でも多芸でも死に損ねた不忠ものに・・・・・」
「貴様―」
大之丞の拳が彦の進の顔面を捉えた。彦の進は大之丞がもっとも触れられたくない部分に触れてしまった。これがきっかけとなって船江の侍と上庄の百姓が入り乱れての大喧嘩になった。
この騒ぎは当然本田左京亮にも聞こえた。激怒した左京亮は出兵しようとしたが、丁度その時訪れていた信雄の縁者生駒某が仲裁に入ろうと申し出、現地に向かったのだがここで二つ目の悲劇がおとづれる。もはや喧嘩の体をなさず合戦になっていた戦場に武装もせずに入っていった生駒は流れ矢に当たって死んでしまうのである。それを見た本田方は壊走をはじめた。
落ちぶれた家老の倅に敗れた、主君の親類を殺された。元々武闘派であった本田方の血は完全に逆流、同僚の津川玄蕃の援軍を得て翌日怒涛のごとく上ノ庄に向けて進軍した。
上ノ庄の村人達は立てこもる城もなく、大混乱に陥った。
「若さま!!!なんとすべえ」
「本田は1000の大軍じゃよ。」
百姓達は混乱する。大之丞は決意を固めるといった。
「黒野まで退く。そこで一戦すれば活路も開ける。」
夕刻、本田方は乱入した上庄に誰もいないとわかると全てに火をかけ全軍を黒野に向けた。
翌日黒野の地は本田の旗で埋まり、上ノ庄の百姓達は急ごしらえの馬防柵をならべ向かい合った。
「大宮大之丞!!!!家老の事して是までは黙認しておったが天下さまに弓引くとは何たる大罪。この本田、武士の情けでわざわざ出張った、覚悟せよ。」
左京亮の軍配がまさに振り下ろされそうとした時
「ご注進」
「なんじゃ!!!」
「ただいま、両軍の間に輿が紛れ込みましてございます。先頭には、割菱と四つ目の紋の旗が」
左京亮は戦場を眺めた。確かに割菱と四つ目の紋の旗を先頭に輿が入ってくる。
「しまった・・・・・・・、大宮の小倅、これを読んでおったのか。」
「彦の進様が輿に向かっておりますが」
「な、なに!!!!!!いかん、直ちに止めよ、いやワシがいく」
左京亮が慌てて馬を走らせる。
輿が地に下ろされた。中から一人の尼が出てくる。年のころ50ほどであろうか。小柄で優しそうな尼である。
「尼殿よ、侍の喧嘩に何しに参った!!」
彦の進が馬上から叫ぶ。
尼はにこりと笑うと、
「はい、この喧嘩止めに参りました。」
「こしゃくな!!!仏に仕える身がのこのこと出てくる場所ではない、とっとと下がれ」
「下がれば戦になりましょう?迷惑するのは関係ない黒野の民です。」
「斬るぞ!!!!」
彦の進が刀を振り上げたその時
「控えよ!!!!わらわを誰と心得る!!!」
尼の声が大音声に戦場に響き渡ったのである。この小さな体の何処からこの声が出るのかというほどの声に彦野進は落馬しそうになったほどである。
「控えよ、彦の進!!!!そのお方は・・・・・・・」
慌てて駆けつけた左京亮の声もかき消すほどの声がその続きを語った。
「わらわは前黄門三位具教卿の妻女建門院なるぞ!!!!そのほうらいつから主筋にその口がきけるようになったか!!!」
左京亮は彦の進を馬から引きずり下ろし、平伏した。
「御前様にはご機嫌も麗しく・・・・・」
「庵の表が戦ではとても麗しくなどあれませんぞ、左京亮」
「ハハッ、申し訳ございません。」
「悪いと思うならこの尼の言う事聞いてくれような。」
「否やもございません。」
「ならば大宮大之丞をここに呼びなさい。」
輿の前に建門院が立ちその前に本田左京亮、彦の進、大宮大之丞、大之丞の従弟九兵衛が平伏する。
「此度の喧嘩、聞けば大宮の土地に本田が踏み込んではじまったそうな。情けない。本田ほどのものがたかだか上ノ庄ほどの土地に執着し一族郎党引き連れて攻め込むとは・・・・」
「お言葉ではございますが、御前様。これは天下様の命令なれば・・・」
彦の進が不服そうに言うと建門院はキッと睨んだ。
「天下さまとは三介のことかえ?ならばわらわは天下さまの姑という事になろうな。わらわの言う事を気かぬとは不忠の始まりではないのかえ?」
「控えよ、彦の進」
左京亮が彦の進を押さえる。
「また、大之丞。そなたのしたことは関係のない黒野の民を苦しめる事になる。」
「お咎めは覚悟の上でございます。」
「とにかく双方とも兵を黒野から退きなさい。もし聞き入れるのであれば今回は咎めません。きかぬとあれば三介殿に掛け合いましょう」
「わかり申した。兵はひきまする。」
本田が答えた。
「船江衆が引くなら当方としても依存はございません。」
大宮も答える。
「ならばよし。喧嘩の終わらせ方は武士たるその方らならわらわよりよく知っておろう。得と拝見させてもらいます。」
建門院はそういい残して輿にのり自分の庵に帰っていった。
数日後大宮九兵衛が腹を切った、本田左京亮が彦の進を討ったと言う噂が流れた。
「大御所さま、皆同じ家中にいながら何ゆえ血を流したがるのでございましょうなぁ。」
建門院は亡き夫具教の位牌に向かって語りかけるのである。