三瀬谷の変

天正4年(1576)、伊勢国度会郡田丸城。かつて南朝軍の拠点であったこの城の城主は、三介信雄、いまや天下の第一人者となった織田信長の次男であり、国司具房の養子となり前年伊勢国司北畠氏の家督を継いだ。その田丸城の一室には5人の家臣が円を組んで座っていた。

「柘植の、そのような陰気くさい顔をいたすな。」

「左様。事ここに至っては仕方あるまいが。」

最初に言葉を発したのは滝川三郎兵衛、一門木造家の庶子であるが、宗家を裏切り織田を引き込んだ男である。それを受けたのが長野左京進。だが、言葉とは裏腹にその顔は柘植のものと、さほど変わらない。

「斯様に言われても、某は得心しかねる。滝川殿、われらが、宗家に弓を引いてまで、織田に誼を通じたのはこのような事態を招かぬためではなかったか。我が娘を磔にされるのを血涙を流して黙殺したのはこのような思いをするためではない!」

柘植三郎左衛門は木造家の家老で、造反の際、質に出した一粒種の娘を磔刑にされたのだ。

「藤方様、奥山殿、日置殿、何ゆえ口を開かれぬ?国司家にとっての重大事であろうが」

同じようにふさぎこんでいる3人のうち藤方刑部は国司一門、奥山常陸介、日置大膳はともに国司家の重臣であった。

再び、沈黙に包まれた室内。やがて奥山は低い声でこうつぶやく。

「安土も酷な事をなされる。」と。

 

話は一刻ほど前にさかのぼる。信雄に呼ばれ参上した5人は上座に座る信雄の悲痛な顔を見た。

「ご本所様、火急のお呼び、何事でござりましょうや?」

「安土より使者が参った。大御所様を・・・」

「大御所様を?」

「討つべしと。」

室内は驚愕に包まれる。大御所とは、現在三瀬谷に館を構える北畠具教である。近隣にならぶ者のない大身の北畠家総帥にして、塚原ト伝から秘伝を授けられた剣の名手。昇竜の如き信長の大軍をわずか数千で迎え撃ち、見事撃退したのだ。以後は一線から退いて「大御所」と称しているものの、息子「中の御所」具房や、養孫にして娘・千代御前の婿である「ご本所」信雄よりもその信望は厚い。伊勢において、いや反信長勢力において具教の存在は大きい。信長にとって、目の上のたんこぶ、翼を与え野に放った虎とは正に具教の事であろう。

「それでご本所はなんと返答されました。」

奥山の問いに信雄は苦渋に満ちた顔で答えた。

「『否』と答えられるならそうしておった。」

「されば大御所様を討つと!」

「仕方ないではないか!その方ら、安土にさからえるか!」

信雄の頬には涙が流れた。信雄は、実父・信長を決して「父上」とは呼ばない。伊勢に馴染み、国司家の者になろうと必死でやってきた。具教もそれに答え精一杯国司としての教育をしてきた。けして甘やかしはしなかったが、その態度は敵の子に対するものではなかった。国司家を継承したとき、具教の顔はいつもの厳しい顔ではなく、実の子の相続を喜ぶ父の顔であった。

「やっと、国司家の人間になれた・・・」

信雄はその日、妻にそう語ったものだった。具教なくして今の自分はない。大御所こそ我が父だ。その実の父よりも大事な大御所を討て、と信長は言う。私は伊勢一国で充分だ。才気に走る同年の弟・神戸三七信孝のように織田の重鎮たろうとは、ひとかけらほども思ってはいないのだ。その三七も義父・神戸友盛を追放した。己の敗北を隠すため、子を人質に差し出した挙句、その子が家督を継いだのを良い事にその家の血流を絶やそうとするとは!あの男には、髪一筋の情すらないのか。しかしあの男には逆らえない。逆らえば、信長は信雄もろとも伊勢一国を火の海にする事は自明である。具教の首か伊勢の平和か。その選択に信雄は苦しんでいる。その苦渋の涙に家臣たちは何もいえなくなったのだ。

「その方らに頼む。大御所様を討ってくれ。私とともに「親殺し」「主殺し」の汚名をかぶってくれ!」

織田の血を示すうりざね顔を畳に押し付け、信雄は懇願した。数瞬の沈黙の後、滝川以下は

「御意」

と頭を下げた。

 

「・・・大御所様は動きすぎた。おとなしく三瀬に隠遁してくれれば良かったものを」

「蘇原、四五百、紀州蜂起・・・、これでは、『討ってくれ』といっておるようなものじゃ」

藤方、奥山ともにあきらめたかのように見える発言しか繰り返さない。

「奥山の、それはわれらの至らぬところではないか。われらが大御所様を巧みに封じて居ればこのようなことにならなっかったのだ。」

柘植の言葉に日置は冷笑して

「そして、その失策を問われ、大御所のみならず、ご本所様も露と消えるというわけか。なれば隠居の大御所に死んでもらわねばなるまい。ご本所をむざむざ死なせるわけにも行くまいて。」

「日置!貴様は、主を討てるのか!大恩ある北畠家を見捨てると言うのか!わしにはできぬ!もう一度問う。討てるのか!」

「それは主殺しができるか、という問いか、それとも剣の名手を討てるか、という問いか?」

興奮して叫ぶ柘植に対して、日置はこう言い放った。

「なっ・・・・・・・」

絶句する柘植を横目で睨みつけ、日置はこう続ける。

「もはや賽は投げられた。領地のお墨付きまでもらった。いまさら、悔やんで何になる。このようなところで火を囲んでおらずさっさと帰って、討つ手はずを考えようではないか。わしは先に帰るぞ。」

それを合図に柘植を残して各自の居館へ引き上げていった。

「わしにはできぬ。わしには主殺しなど・・・・」

 

同日夜、奥山居館。

「領地がいまさら増えたところで、大御所亡き国司家に意味などないな。」

奥山常陸介はこうつぶやいて、お墨付きを燭台の火にかざした。

「柘植の、わしにも主は討てぬ。」

奥山は、病と称して討手に参加せず、頭を丸めて城を廃したという。

 

同日夜、藤方居館。藤方刑部は家臣・軽左京を召し出した。

「左京。わしのために死んでくれぬかの。」

「ハ?某、何時でも殿のために死ぬ用意はできておりますが。」

首を傾げる左京に藤方は、田丸の城での話をした。

「・・・わしは国司一門じゃ。自らの手で大御所を討つなどできはせぬ。」

うなだれる藤方。紀州蜂起では、息子は大失態を起こした。あまりのことに、父は怒りの余り藤方に目どうりを許さない。この上、主殺しの汚名まで着れない、と藤方は言うのだ。

「わかりました。所詮陪臣にござれば、大御所の恩は、私には届いておりませぬ。主君のため討手になりましょうぞ。」

藤方は、討手に名代・軽左京を遣わした。しかし、それを知った父、慶由はこれを恥じ井戸に身を投げ自決したと言う。

 

柘植居館。

「なんとしても大御所を死なせてはまずいのだ。われらは主殺しなどすべきではない!」柘植は討手には加わる覚悟を決めた。しかし、決して具教を討たせまい、と誓った。

「この書を佐々木に渡せ。そして手はずどおりにと伝えよ。」

 

滝川居館。

「われらが三瀬に向かったら多芸に居る政成殿に使いを出せ、早急にだ。」

滝川とて、国司家の血を引く。むざむざ大御所を死なせるつもりはない。本拠多芸にいる一門の政成に知らせて、援軍を仰ごうと言うのだ。そうすれば、大御所の首を取れなくても周囲は納得するであろう。ただし、ばれれば自分の首が飛ぶ。千両役者になりきらねばならなっかった。

 

日置居館

日置のもとに長野左京進が訪れていた。互いに酒を酌み交わす。

「家城ならなんとしたかな。」

「『大御所を守って織田と一戦』位のことは言うだろう。」

「大河内で名を挙げた3人ではあるが、明暗は分かれたな。」

「家城は事後、兵を挙げるだろう。そして死ぬだろうな。」

「われらとて、生きて三瀬から帰れるとは限るまい。」

二人は、具教を討つことに異はなかった。ただし、具教の強さを誰よりも知っていた・・・

 

天正4年11月25日、いよいよ事は動き出した。

三瀬の変(後編)

 霜月の夜は、冷たい。伊勢特有の大風が吹き荒れる。

「奥山殿は来ぬ、と?」

柘植三郎左衛門は嘆息とともにつぶやいた。

「柘植の、おぬしが来ぬと思って居ったがの」

日置大膳の皮肉にはこたえず、他の面々にこういった。

「そろそろ参ろう、もたもたしては御本所様の気をもませるだけだ」

先日「主殺しはできぬ!」と叫んで取り乱した彼の姿からは本日の様子は奇異に映る。開き直りか、かつて国司家に反旗を翻したときのように冷静になったか、それとも娘の敵を討つ気になったか・・・、滝川三郎兵衛はその様子をいぶかしんだが、それを顔に出すような男ではない。長野左京進、藤方刑部の名代・軽左京も同じ感想を抱いたようだ。最も軽はその場にはいなっかったのだが。とにかく5人は馬を歩ませ出した。行く先は三瀬館。目的は旧主・北畠具教の首をとること。

・・・・・・・その姿を見届けた男が別のほうへ馬を走らせる。行く先は一つ、多芸館。

 

その日は寒空に灰色の雲の立ち込める朝だった。館の主は白い寝巻きのまま、火桶に手をかざしていた。最近、風邪を引いたか体がだるい。北畠具教、「大御所」と呼ばれる男である。突如、進行してきた織田信長と大河内城にて50日に及ぶ激戦を展開、和睦の後はここ三瀬にひきこもり、信長の統一政策をことごとく阻もうとしてきたがすべて、信長の悪運の故か成功はしなかった。

「大御所様、若君様が・・・」

乳母に手を引かれたのは亀松丸、侍女に抱かれたのは徳松丸。二人とも、三瀬に篭ってから生まれた子である。老いてからの子は可愛いという。嫡子・具房は「馬にも乗れず」と評されるほど、太った体であり、具教が贔屓目に見ても「総領の甚六」であり、次男・具藤は、養家を滅ぼして帰ってきた。三男・親成は織田との和睦の際強硬論を唱えたが、その後はどうということもない。やはり具教としては、まだ見ぬ孫や、この幼い子らに期待するしかない。

「よいか、父はここで終わる気はないぞ、いつかそなたらに多芸の屋敷を見せてやる。我が領国をすべて見せてやるぞ」

幼子二人を受け取り、あやしているが今日に限って泣き止まない。その時近習、佐々木四郎が来客を告げた。

「ご本所の使いとして滝川様以下5名お越しにございます。」

「来たか・・・」

具教は、子を乳母に引き渡すと広間に向かった。

 

「大儀じゃのう、ご本所は息災かの?」

「ハッ、大御所様には、ご機嫌うるわ・・・」

「よい、よい、茶でも入れてやる、楽にせい」

と、具教が茶を入れ、前に出そうと前かがみになった瞬間、長野左京進が立ち上がり、部屋にある具教の槍を取るや否や、

「御所様ご免!」

と突き出した。歴戦の猛将の繰り出す槍に、刺客の誰もが「討ち取った!」と思った。しかしその槍先はしっかりと具教の手に止められていた。引き戻そうとしても動かない。

「何の真似かの?」

具教の声は、低い。下から見上げる目は息子たちに向ける柔和な目ではなく、剣豪の目であった。

「上意にございます。」

他の4人は抜刀する。

「三介か、それともたわけの信長か!」

「どなたでもようございましょう、冥土の土産にもなりませぬ。」

日置の冷笑に具教は無言で槍を投げつける。持った長野もそのまま、投げ飛ばされた。

「四郎!」

佐々木から剣を受け取ったが、その剣には細工され抜けない。

「逆臣は所詮逆臣か、のう、柘植よ」

具教は鞘ごと刀を振り回し柘植たちにたたきつける。そのうち鞘が割れ、光る刀身が姿をあらわした。血みどろになり、痣だらけになった刺客たちは

「ヒッ」

と叫んだ。剣豪具教に対し勝機ありとすれば、剣を抜かせぬ事である。その大前提が覆されたのだ。

「日置、来ぬのか?鬼でも見たような顔をして居るぞ。」

日置はこの中では一番具教の強さを知っている。その彼が動けないのであれば他のものが動けようはずもない。

全員が殺される。そう思った瞬間、具教は剣を捨てた。

「わしの負けよ、たわけに負けるとは、わしのほうがたわけじゃったわ。この首くれてやる。わしには逆臣でも三介には忠臣であれよ」

「軽!行け!」

柘植の叫びに軽左京が奇声を挙げて具教に突っ込んだ。佐々木が具教の背に飛びつく。鈍い音とともに具教の寝巻きが真っ赤に染まった。

そのまま床に倒れた具教を6人は見下ろす。

「つ、つ。柘植様。こ、こ、こ、これでよかったのでしょうか?」

「佐々木よ、お前はようやった」

 

其の帰路、具教の首は多芸にいるはずの芝山小次郎、大宮多気丸に奪われた。

「柘植、そなた何か図ったな?」

「なぜそう思う?」

「なぜ、陪臣の軽に討たせたか、と思ったからの。それに、佐々木のおびえは半端でなかったではないか。」

「滝川殿、なにゆえ多芸から斯様にはやくあの二人が来れたのだ?」

「なぜわしに問う?」

「深い意味はないがの。」

二人は顔を見合わせる。ほかのものは気息奄奄、首を奪われた衝撃で二人の会話を聞く気力はない。

補逸.三瀬の変後伝

伊勢田丸城。岳父・北畠具教を謀殺させた北畠信雄は同じ日、義兄になる長野具藤、式部親成、合婿の坂内兵庫を宴に事寄せて暗殺させた。大河内、坂内、岩内など田丸家を残して、一族をことごとく討ち取らせた。愛妻・千代御前は悲嘆に暮れ自害した、いまわの際に「鬼」の一言を残して・・・。

・・・・そして信雄は、養父・北畠具房と会見していた。

「何ゆえ、大御所のみならず、一族を謀殺した?」

具房は具教に似ず、「馬に乗ること能ず」といわれるほど太っていた。口調もいつもの凡庸なものであった。

「毒を食らわば皿までと申しましょう」

信雄は冷静に語ろうとしたがやはり表情も声も引きつる。

「私も討つか?」

「討ちません、長島の一益のところに行っていただきます。」

「私は毒にもならぬ、と思うか。父を殺した息子を命と引き換えに許すと思うか」

具房の目が変わる。厳しい、子を叱責する親の目であった。

(大御所の目じゃ)信雄は思った。この方まで討てぬ、大御所はこの人の中に生きて居る。

「・・・・義父上、いや本日よりは大御所様じゃ。これ以上私は恥はかけぬ。我が子と思うならば我が意に従ってくだされ」

「申し上げます!」

近習が飛び込む。

「何事じゃ」

「賊が乱入、ご母堂鶴女の方様を拉致いたしました。追っ手を向かわせましたが・・・」

「追わずとも良い。いまさら何ができる」

信雄は静止した。

「良いのか」

「父が討てぬように、母も討てませぬ。」

近習を下がらせると、信雄はこう付け加えた。

「まだ見ぬ兄弟も死なせはしませぬ」

具房は滝川一益のところに幽閉、4年後開放されたが同年死去した。享年34歳。信雄はこの後、伊賀に大乱を引き起こし、世に愚将とさげすさまれた。彼の胸中に何があったか、誰にもわからない。

 

多芸霧山城。城代北畠政成は芝山、大宮から報告を受けていた。

「間に合わなんだか、首はどうなった。」

「父、出羽守が守って逃げました。」

「ならば良し。ここにお迎えできぬのが残念じゃがそれも仕方なし。そなたらはこれから東門院様にこのことを伝えよ。そして還俗して国司家を再興していただくよう頼め」

二人が部屋を辞するとあとから一人の男が入ってくる。滝川の家臣であった。

「これで良いかの」

「よろしいかと」

「あとは仕上げじゃ」

「仕上げとは?」

「多芸は大御所に殉ずる。三介に仕える気はない」

12月、霧山城は織田の猛攻により落城、政成以下みな国司に殉じた。

 

翌年の正月ある庵に一人の男が訪れた。庵主は建門院、具教正室六角氏である。訪れた男は軍師鳥屋尾石見守。

2日前、ですか」

「早速、千代松丸様と名づけられました。家臣一同「御高様」と呼んでおります。」

「頼みますよ。国司家の血を守ってたも。」

「命に代えましても」

 

一方、紀州山中。初老の男が剣を振るっていた。

「まだ死ねぬ。まだ死ぬわけにはいかぬ。奴を倒し必ず帰って見せる!」

 

 

・・・・・・・具教暗殺事件、世に三瀬の変といわれる事件には具教は何もできず死んだという説と19人を殺し自決したという説がある。また、具教は紀州に逃げたともいう。国司家再興も弟具親、外孫坂内亀寿、「嫡孫」昌教が図ったといわれる。

果たして、真実はどこにあるのか。史料に語られる歴史もそうでない歴史もある。我々にそれを知る術はない。ただ想うのみである。

歴史は黙して語らない・・・・・

 

作者より

やっと終わった・・・史料には沿わないかんし、かといって人の感情も出さないかんし疲れた。真実はどうだったのかまさに「歴史は黙して語らない」のです。ここまでこの駄作に付き合っていただきありがとうございました。

外に出る。