北畠氏用語辞典(★は新規追加)

 

あ行

 

伊勢三座

北畠氏に保護されていた、猿楽座。松阪市和屋町の和屋座、松阪市阿波曽の青苧座、度会郡玉城町勝田の苅田座の三座である。北畠氏滅亡後は、山田に移住した。和屋座が現在の伊勢市一色町、青苧座が伊勢市竹ヶ鼻町、苅田座が伊勢市通町に移ったが、青苧座は廃絶。他の二座は現在も残り、「一色の翁舞」は国無形文化財指定されている。

 

犬型土製品★

小さな犬型をした焼き物。館跡で多数出土している。

 

今川氏

駿河、遠江の守護・戦国大名。足利将軍家の一族で「将軍家が絶えれば吉良家、吉良家が絶えれば今川家」と言われる家門。

伊勢北畠氏とは余り関係のない家と思われていたが、「羽林咏草」に今川軍が襲来した旨の記載がある。

 

羽林咏草

 北畠一族の国永(藤方氏に比定する説もあり)の歌集。天文元年から天正12年までしたためられている。今川氏・松永氏の侵攻など、歴史書としても大変貴重な書。「私歌集大成」第7巻に翻刻。別名「年代和歌抄」「北畠国永集」など。

 

宇陀三将

 大和国宇陀郡の国人3家、澤氏、秋山氏、芳野氏をいう。南北朝の頃から北畠氏の与力としてその影響下にあり、被官化していく。

澤氏に発給された文書群は「澤氏古文書」として北畠氏研究の根本資料である。

 芳野氏に関しては詳細不明、秋山氏は松永久秀の宇陀侵攻にあわせて叛旗を翻したこともある。

 

大御所

 前任の国司のことをいう。材親時代の政勝、晴具時代の材親、具教時代の晴具、具房時代の具教をそれぞれ称する。

 

大河内家

 北畠氏一門。顕能系2代目顕泰の子、顕雅を家祖とする。顕雅は兄満雅の戦死後、しばらく国司として政務を執ったと見られる。歴代当主はほぼ宗家からの養子である。

三瀬の変で信雄一派に滅ぼされる。

 

大河内城攻め★

永禄12年に行われた合戦。北畠具教が織田信長の侵攻に対し大河内城に籠城。攻めあぐんで兵糧攻めに切り替えた。北畠具房の養子に信長の次男・茶筅丸を迎えることで終戦。

 

岡本番屋事件

文明17年、北畠氏被官・榎倉武則・奥村二郎衛門が岡本に番屋を設置、両宮間の通行を阻害。北畠政勝は両名との被官関係を破棄、なお収まらない宇治・山田不和を調停するが失敗に終わる。翌年の山田出兵につながる事件。

 

織田秀雄

 北畠具豊(織田信雄)の嫡男。母は北畠具房の養女(具教娘)千代御前。越前大野を領し、大野宰相と呼ばれるが関が原合戦で改易。嗣子無く、断絶する。信雄・秀雄親子が国司家家督であったと解釈した場合は、秀雄の死を以って嫡流断絶と考えられる。

 

か行

上泉信綱

戦国時代の剣豪。元は上野長野氏に仕えるがその滅亡後諸国を回る。

伊勢に立ち寄ったときに北畠具教から宝蔵院胤栄、柳生宗厳を紹介される。

 

かわらけ★

 館跡から出土するものには地元産のものと京都産のものとがある。京都産のものが一定量出るのは県内では多気だけという。

貫高制

その田から取れる平均の収穫量を通貨である「貫」に換算し、税収の基本にする制度。北畠氏支配領域では確認できない。

 

北畠国永集

羽林咏草を見よ。

 

「北畠系」城郭

 15世紀頃から作られた築かれた伊勢の中世城郭の形式。山頂に曲輪を配し、切岸の下に帯曲輪・堀切・竪掘等で防御を固める形。北畠氏の勢力圏、一志・飯高両郡に多数見られる。

 

北畠氏館跡★

 津市美杉町にある北畠氏の館跡。現在は北畠神社の境内になっている。明応8年に一度焼失し、翌年に再建されている。

 

北畠氏館跡庭園★

 北畠氏館跡に残る庭園。晴具の岳父管領細川高国の作とされる。米字池、枯山水など見どころが多い。

 

北畠家連歌合

文明2年、多芸に連歌師宗祇を向かえて250番・500韻の連歌合を興行。これに一条兼良が判詞、跋文を加えた連歌集。

 

北畠具教の法名

三種伝わる。

@  寂光院心祖不知

A  天覚

B  快翁宗治

 

北畠神社★

@  津市美杉町にある北畠顕能らをまつる神社。旧別格官幣社。

A  多気郡大台町にある北畠具教をまつる神社。

 

「北畠様」花押

 政郷の政勝改名時に改判した花押が定型化し以後の国司花押に模倣されるようになった。大型化し、下部に大きな空間を作るのが特徴。

 

禁酒令★

 弘治3年に伊勢国内に出された法令。永禄元年に解除される。

 

 

郷銭

国内の各郷に対し北畠氏が賦課した税。

 

国司兄弟合戦

 明応6年、国司北畠材親と、弟侍従北畠師茂との間で行われた家督争い。明応四年の連署書状事件によって、材親に罷免された被官衆が師茂の舅・木造政宗とともに師茂を擁立。材親は母とともに師茂派の大御所逸方らに幽閉されるが脱出し、木造城を攻撃。材親側が優勢となり城まで追い込むが、中勢の長野氏が突如参戦、後背より襲われ大敗する。

 長野氏による介入を恐れたと見られる逸方により、師茂は城から出て出家するが、切腹させられる。逸方は失脚し材親の単独統治が始まる。

 木造氏との和睦は永正元年に実現。木造城は被官澤氏によって治められる。

 

国司奉行人

御教書、奉書の発給人。政勝以降は、国司諱の一字と、「兼」を組み合わせた名乗りで共通する。勝兼(政勝)、方兼(具方)、国兼(具国)、教兼(具教)、房兼(具房)等。出自については山室氏、国司一族など諸説あり不明。

 

五ヶ所教忠事件

永禄初年頃、五ヶ所城主の被官五ヶ所教忠が突然切腹を命じられる。五ヶ所氏は明応4年の訴状事件では反材親派であったが、その後は特にお咎めもなかった。五ヶ所氏の家臣田曽北村氏には一ノ瀬忠弘から「動揺せぬように」との書状が送られる。

志摩国方面には沢氏が出兵するなど国司支配に亀裂が入り始めていたということもあり、五ヶ所氏が敵対する前に機先を制したのではないかと思われる。

福島末尊事件とならび、国司家の支配能力が低下してきた一例である。

 

国司茄子★

 北畠氏が所有していたところからその名がついた茶器。松花堂昭乗、若狭酒井家などを経て大正12年に藤田家へ。

 

木造氏★

 北畠氏の一族。宗家の北畠氏とは何度も対立している。

 

御用銭

土器の産地有爾郷に対し、伊勢国司が賦課した税。伊勢神宮より撤廃を要求される。

 

さ行

坂内家

北畠一門。顕能系二代顕泰の子雅俊を家祖とする。歴代当主のうち宗家の子女が継承している場合がおおい。三瀬の変において滅亡。

 

三国司

建武中興以降、戦国時代まで「国司」と称した大名家を指す。通常伊勢北畠氏、土佐一条氏、飛騨姉小路氏を呼ぶが、伊予西園寺氏、阿波一宮氏、陸奥浪岡氏等を入れる書物もある。

 

三御所

 北畠一族のうち、大河内、坂内、田丸の三家を指す。木造家を加えて四御所とすることもある。具教具房執政期の当主は大河内頼房、坂内具祐、田丸具忠といずれも具教の叔父に比定される人物である。

 

在地奉行人

 いわゆる国司近臣。奏者として副状、使者として活動。鳥屋尾氏、大宮氏、真柄氏、稲生氏、山崎氏、方穂氏のような在地の家臣からなる。国司領支配の吏僚である。

 

直状

北畠氏の発給文書形式のひとつ。いわゆる書状形式を採る。宛行、安堵等に発給。

 

「新撰菟久波集」

明応4年成立の準勅撰連歌集。教具、政郷、材親のほかに被官数名も入集。

 

青磁水鳥形香合★

 北畠館跡から出土したとされる青磁の香合。使用者の富や権威を表すものとされる。

 

関銭

伊勢国街道の関所で負担する通過料。扶持として宛がわれる。

 

袖判御教書

北畠氏の発給文書形式のひとつ。北畠教具の従三位叙位により、御教書発給資格が発生し、次代以後は官位に関係なく発給される。「兼」字を持つ奉行人が登場する。宛行、特権付与、安堵に際して発給。

 

た行

多芸御所

伊勢国司北畠氏の館を御所と称する。現在の津市美杉町に遺跡が残る。御所、詰城、山頂の霧山城を合わせて多芸城と呼ばれることもある。

 

田丸家

 北畠一門。家祖具忠は国司材親の子と推定される場合がある。三瀬の変で滅亡を免れ、蒲生氏郷の与力大名、後、岩出城主となり独立。関が原の合戦で石田三成の西軍に属し、戦後改易される。大名として残った最後の北畠氏。

 

大老

北畠氏の執行機関。大宮氏(阿坂)が就いたというが、実在は定かではない。

 

塚原卜伝

戦国期の剣豪。

北畠具教、足利義輝などが師事した。北畠具教は秘伝「一の太刀」を伝授されている。

卜伝は永眠前、倅彦四郎に対し「伊勢の国司に「一の太刀」を受けよ」と言ったとされる。

 

詰城★

 北畠氏の多芸御所の背後の尾根に築かれた城。有事の際はここにこもったと考えられる。

 

土岐氏

 美濃の守護、戦国大名。斉藤道三に国を追われる。

 北畠氏とは南北朝以来北伊勢の支配権をかけて合戦に及ぶ。伊勢半国守護の土岐世保氏は満雅、教具親子と戦って滅亡。

成頼女が具方正室。

 

な行

中御所

 織田信長次男、茶筅丸が北畠氏を継承した時の北畠具房の呼称。大御所・具教健在による。

 

浪岡北畠氏

 伊勢国司家顕能の兄弟、顕家もしくは顕信の系統の北畠氏。陸奥津軽郡に勢力を張る。居城は浪岡城。戦国末期に一族との対立等を起こし、天正8年、津軽為信の攻撃にあい、滅亡。浪岡御所と称する。

 

年代和歌抄

羽林咏草を見よ。

 

は行

福島末尊事件

 天正元年、長島一向一揆の際に一揆方の日根野弘就を船で運んだことを理由に神領山田の被官・福島末尊父子が討ち取られた事件。同じく山田の被官北氏より養子を取り、名跡を継がせることを具教・具房、信雄ともに承認した。

 

奉行人奉書

北畠氏の発給文書形式のひとつ。年号がついている者は安堵等に年号のないものは一般的な命令に際して出される。

 

扶持人破棄令

 北畠氏が戦国大名化する過程で取った政策。在地領主に対し百姓・寺院等を召抱えることを禁止した。家臣団の官僚化を目指した政策といえる。

 

本所

 現任の伊勢国司のこと。

 

ま行

三瀬の変

天正41125日、織田信長・信雄親子に買収された北畠旧臣が具教の住む三瀬館を襲撃。具教やその幼児を暗殺。同日田丸城で長野具藤、北畠親成ら一族も謀殺。大河内氏、坂内氏らも討伐され北畠氏は滅亡する。

 

三瀬館跡★

 多気郡大台町にある北畠具教の館跡。三瀬の変の主舞台の一つ。

 

棟別銭再賦課令

北畠氏が戦国大名化する過程で取った政策。被官に給与されていた(国司が徴収を停止していた)棟別銭を再び徴収開始したことをさす。これが明応四年の事件の契機にもなる。

 

明応錯乱

国司兄弟合戦を見よ

 

明応4年の連署訴状事件

 明応4年、大宮氏、澤氏、日置氏ら有力被官が国司に対して、1.材親側近の排除2.徳政実施・棟別銭賦課の停止等を求めて連署訴状を提出、材親の拒否により内乱直前にまで至り、美濃へ出陣途中の大御所逸方が帰国鎮撫した事件。この後、材親が大宮氏らを追放したことにより国司兄弟合戦が始まる。

 

明応の大地震

  明応7825日に房総から紀伊半島にかけて起こった浜名湖が海と繋がったほどの大地震。伊勢・志摩も大被害を受けた。

大湊では家千軒と人五千人が津波で流されたとされ、全国的に有名だった安濃津はこのとき壊滅状態に陥った。

 

や行

山田三方出兵

北畠氏の神郡(伊勢神宮領)支配において、外宮門前町・山田は抵抗する立場をとったため、北畠氏はしばしば、山田に対して攻撃を行っている。

@  宝徳三年、教具が野篠、小俣等を焼き討ちし、宮川渡河を示唆。

A  寛正6年、田丸城攻撃への報復、謀反人を追討するとして斎宮・小俣方面まで進出。

B  文明18年、岡本番屋事件を引き起こした榎蔵氏らを懲罰するために、宮川渡河。山田焼き討ち、外宮炎上。

C  延徳元年、国司発向の風聞により山田、宇治を攻撃。内宮炎上。

D 明応2年、山田衆の篭城する磯城を攻撃。

 

岩内家

 北畠一門。家祖不詳である。田丸家成立以前は重要な一門である。木造氏に代わって白粉代官になったのもこの家である。三瀬の変で滅亡したとされる。

 

四管領

 北畠氏執行機関とされる役職。 鳥屋尾氏(富永)・澤氏(大和宇陀)・秋山氏(大和宇陀)・水谷氏(松尾)をさすと言うが、実在は定かではない。

 

四御所

三御所に木造家を加えた場合、こう呼ばれる。具教期の当主は具政、具梁であり、国司の実弟、甥に当たる。

 

ら行

六角氏

南近江の守護、戦国大名。織田信長と敵対して、国を追われて没落。

六角定頼の娘が北畠具教の正室、義賢の娘が北畠具親に嫁ぐ。北畠氏滅亡後は北畠具親、坂内亀寿を支持する旨を表明している。

 

六百番歌合

細川高国が娘婿北畠晴具の居所多芸で行った600番の歌合。

 

わ行