第3巻
21.神葬祭のお話
今回はお盆も近いという事で神道式葬儀、神葬祭のお話をば、いたしましょう。
そもそも、日本は江戸時代に鎖国及び寺請制度なるものがあったために、神職以外は仏式のお葬式を行っておりました。明治になってから一時期、氏子相手に神葬祭を行えるようになったもののいわゆる「国家神道」の成立によって神社は葬式から除外されてきました。そのため、現在でも少数派ですよね、結婚式は仏式より多いのに。
では、どういう風に執り行われるかといいますと、昭和64年の先帝及び平成12年の香淳皇后の一連のご大葬がそれにあたります。もっとも、一般的ではないですよ。一般的なのは、まず本人が帰幽(死去)されますと「枕直しの儀」、「納棺の儀」、「柩前日供の儀」等が行われます。そして氏神様に帰幽の報告、墓地(オクツキ)の地鎮祭、と在って、その後は大体仏式と一緒で通夜があり、出棺があり、告別式あり、埋葬と続きます。通夜のときに霊璽(位牌)に霊を移す儀式がありしばらくは仮の御霊屋に収められます。その後は翌日祭、毎十日祭(50日まで10日ごと)、百日祭、一年祭とあって、それが終わって初めて霊璽はご先祖様のいる御霊屋に移るわけです。
22.そうだ、別宮に行こう
今回は伊勢神宮の別宮のご紹介。伊勢神宮って内宮・外宮だけだと思っていませんか?違いますよ。この両宮をはじめとして別宮、摂社、末社、所管社すべて含めて伊勢神宮です。今回はその中でも別宮をご紹介しましょう。
別宮は内宮が10社、外宮が4社あります。外宮のほうから行きましょう。まず多賀宮。これが豊受大神の荒御魂をお祭りしている神社です。ついでシナツヒコ・シナトベの両神を祭る風宮、オオツチノミオヤノカミを祭る土宮。この三社は外宮の神域内にありますので参拝にきた時はすぐいけると思います。ただし多賀宮はちょっと歩かなきゃいけません。山の上ですから。そして月夜見宮。ツキヨミノミコトとその荒御霊を祭っています。
内宮のほうはと言いますと、内宮の神域内に天祖の荒御魂を祭った荒祭宮、風宮と同じ風日祈宮があります。内宮の方は外にたくさんあるんですよ。近いところでは月読宮、月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈彌宮、言うまでもなくお父さんお母さんと弟を祭っていますね。これらは同じところに並んで仲良くたっています。そして大神をここまで連れてきた倭姫宮があります。
とまぁ、ここまでは神宮参拝のついでにお参りできるんですが、後の3つは、行くぞ!と行く気になっていかなければいけないところです。大宮町の滝原宮と同竝宮、そして磯部町の伊雑宮です。伊雑宮のほうはお田植祭で有名でもありますね。
23.靖国神社と護国神社
今回は小泉首相で話題の靖国神社と護国神社の話題を。そもそも、幕末維新の戦没者慰霊は、各藩が行っていたものです。明治元年、明治政府は「国事に倒れた草莽の志士たちを合祀するよ」という布告を出し、同時に「京都にそのための神社を建てるよ」という布告も出しました。これが京都にある京都霊山護国神社の創建の淵源とも言われています。これによって各地で慰霊のために招魂社、招魂場、墳墓などが造られることになります。2年には東京招魂社が設立。その合祀祭では戊辰戦争の戦没者3,588柱が祭られました。だから、それまではみんな呼び方がばらばらだったわけです。その後に明治8年全部、招魂社としたわけです。それで、そこの祭祀は官費でするということになりました。これが官祭招魂社です。そのあとに私的につくられたものが私祭招魂社です(西南戦争関係は官祭です)。
今、話題の靖国神社は明治12年に東京招魂社が改称したもの、各県の護国神社は昭和14年に招魂社が改称したものなんですよ。
さて、亜細亜太平洋戦争が日本軍の完敗で終了し、連合国に占領されると、神社は窮地に立たされます。護国神社もまた然り。だから、名前を一時期変えたところもあるんです。たとえば、愛知県護国神社は愛知神社、秋田県護国神社は高清水宮、茨城県護国神社は桜山神社、長野県護国神社は美須々神社などという風にです。
これらの神社では7月15日付近にみたま祭を斎行します。灯篭が綺麗なお祭です。ほおずき祭りなんかも行われて結構華やかですよ。
24.神社参拝の作法
もう、言わなくたってわかってるとは思うんですけどね。神社に参拝する際の作法ね。ここで1つ皆さんに基本に帰ってもらおうと思うまして。「私は無宗教だ」「僕、真宗の門徒なんです」って方は良いです、もう。一礼でも何でもしてください。「神社に行った時は作法を守ろう」って方だけで充分です。
では、行ってみましょう。まず、神社に着きました。そこでまず、鳥居をくぐる前に一礼して欲しいのです。「鳥居のユウ(漢字忘れた・・・)」といいます。それがすんだら鳥居をくぐりましょう。あ、鳥居のたびにやらなくても良いですよ。そうすると手水舎がありますね。ここでも作法があるんです。皆さん適当に手を洗ってませんか?まず、右手で柄杓を持って左手を、ついで左手で持って右手を清めます。それからもう一度右手に持ち換えて左手で水を受けて口を清める。最後に柄杓を立てて、柄を洗った後、元に戻してください。
それから参道を進むわけですが、真ん中歩くのは止めてくださいね。左側を進みましょう。そうしていると、その気がなくたって拝殿前につきます。神前に出たら軽く一礼します。賽銭箱と鈴がありますね。お賽銭を入れて鈴を鳴らしましょう。それから皆さんもよく知っている「再拝二拍手一拝」の作法で参拝してください。神前を去る前に、もう一度軽く一礼しましょう。これで参拝は完璧ですね。
25.神道とその他の宗教(仏教を除く)
今回からは、日本古来の伝統宗教である神道にその他の宗教がどのように影響を与え、どのように日本に浸透していったか見ていきましょう。仏教は色々ありますんで除くとしてその他の宗教を対象としましょう。
まずは中国の儒教から。言うまでも無く中国の孔子が開いた宗教です。儒教も立派な宗教ですよ。儒教が伝わったのは王仁博士が論語を持ってきて日本にやってきた事からはじまります。ここで重要なのは文字が伝わってきたと言う事。今まで文字が無かった(ということになってますので、一応(笑))、今まで日本古来の思想を表現する事が殊のほか難しかった日本人が文字を使って表現できるようになったのですね。「カミ」を「神」と表現できるようになったのです。その後、儒教は国家体制に組み込まれていき、中世の神道説やいわゆる儒家神道に連なっていく事になります。
道教は何時伝わってきたのかははっきり言ってわかりません。老子を教祖とする宗教です。道教がどのように宗教に影響を与えたか、それは厄除け、お守り、御札等現世利益的なものとして現れています。そのほか「正直」「清浄」などと言う神道において重要な言葉も中国の古典思想から出ています。
さらに道教が日本的に発展したものが陰陽道と修験道です。陰陽道は安倍氏や賀茂氏によって発展し、非常に影響が濃く残っています。皆様は気にするかしないかわかりませんが、いわゆるところの六曜とか方違えとか物忌みですね。そのほかにも大祓えなどは陰陽道の影響を強く残すものです。大晦日前になると「人形」が皆さんのうちに氏神様から届きませんか?あれは間違いなく陰陽道の思想ですよね。
修験道は、もともとあった山岳信仰に仏教や陰陽道などが織り交ざってできたものです。役行者が教祖になってますね。あれは元々仏教、ことに密教の影響が大きいものですが、熊野三山、出羽三山、英彦山などという場所が修行場になっています。この他神道の修験道的なものが姿をあらわしたのは教派神道の禊教、扶桑教、実行教などになって今日に至っています。
後、一番最後に入ってきたキリスト教も少なからず神道には影響を与えています。神社仏閣を壊して南蛮寺を建てたりしたのもその1つ。宣教師たちは「日本の神は人、動物、悪魔で、崇拝しても救われない」とも言っています。その中で一番重要なのは、キリスト教にあって神道にないもの、それは誰が見てもわかるとおり唯一最高神の観念の有無です。この影響を一番大きく受けたのが神道でしょう。神道は今日に至るまで「多くの神々の中でどれ一番至尊か?」と言う事に決着がついていません。「天照大神じゃないのか?」と言われる方も多いかもしれませんが、それなら日本中どこに行ったって、神社には天照大神が祭られていなければおかしいことになりませんか?そのことに答を見出そうとしたのは以外にも国学者なのです。平田篤胤などは「天御中主神」が最高神であると言っています。彼の弟子に至っては天御中主が最高神、天孫がキリスト、ゆえに真のキリスト教は日本の神道であるなどとはっきり言っております(笑)。
このように、神道はさまざまな宗教に影響されながら今日に至っているわけです
26.神勅の話
今回は、神勅とか託宣の話をします。言うまでもなく、神様が降りてきていろんなことを言う事です。いろいろな神社の色々な神様がおそらくいろいろなことを言っているとは思うんですが、今回は神社神道の中で大事にしている「三大神勅」を中心に話をします。
そもそも三大神勅とは何か?これは出雲の国譲りが成立していよいよ、天孫ニニギノミコトが高天の原から降臨する時に皇祖(天照大神)から下された言葉がそれにあたります。「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉斎の神勅」「斎庭稲穂の神勅」のことです。「天壌無窮の神勅」は天孫の御世は天地がある限り永遠に続くと言う意味です。どこかの大陸国家のように革命で倒れたり仏教の末法思想、儒教の百王思想は当てはまらないと言う事を言っています。「宝鏡奉斎の神勅」は「ヤタノカガミを宮中にお祭する事は私を祭るようにしなさい。」と言う意味の神勅です。崇神天皇のときまでこの神勅は守られます。「斎庭稲穂の神勅」は稲作を保証する神勅ですね。これら3つは神道の中でも大事にされます。この他に「アメノフトダマノミコト(忌部氏氏神)」「アメノコヤネノミコト(中臣氏氏神)」に下された「侍殿防護の神勅」「神籬磐境の神勅」を含めて五大神勅とする場合もあります。これはどちらも天孫のそばにいて祭を行いなさいと言う意味です。これを根拠に忌部・中臣両氏が祭祀担当氏族になっているのですね。これが守られなくなってきたから忌部広成が記したのが神典の一つと言われる「古語拾遺」です。
この他にも、古事記、日本書紀を見るといろんなことを神様は言っておられます。
一方の託宣のほうで有名なのは「三社託宣」でしょう。天照皇大神と春日大明神と八幡大菩薩が仲良く並んでその下に字が書いてあるものがあるはずです。これは皇室の祖先である伊勢神宮、公家の代表である藤原氏の祖神である春日大社、武家の守護神である八幡宮が特別視されるようになってきて出来たものです。この中で伊勢神宮は「はかりごとをめぐらせているものは目先の利益になっても神罰受けますよ。正直に生きていくのは頑固なように見えるけど最後にはきっと恵みがあります。正直に生きましょう」八幡宮は「鉄の玉を食わされても心の穢れた奴のところには行かない。炎のようなところに座らされても心の汚れた奴のところには行かない。清浄が大事です。」春日大社は「長く不幸の無い家でも意地悪い奴のところには行かない。喪に服しているうちでも慈悲を持った人のところに行く。慈悲は大切です。」というなにやらあり難いことをのたまっておられます。これは後世の偽作ではありますけど道徳的には何も間違っておられないので教化の一環として大変もてはやされています。大きな神社の門前町の土産物屋に行くと必ずといっていいほど置いてありますよ。一回覗いて見て下さい。
27.一霊四魂の話
今回は神道の、特に古神道の霊魂観のお話をしようかと思います。神道の中で霊魂ということを考えるのは非常に難しいことではあります。神や人間の霊魂を神道では一つの霊と、四つの魂から成り立っていると考えます。四魂は、和霊(ニギミタマ)、荒魂(アラミタマ)、奇魂(クシミタマ)、幸魂(サキミタマ)の四つを言います。前二者は、神社にちょっとでも関心のある方ならわかると思うのです。よく神社では神様を和魂と荒魂に分けてお祭りしていますね。伊勢神宮でも御正殿に天照大神の和魂、その裏の荒祭宮に大神の荒魂をお祭りしています。和魂は霊魂の穏やかな働きを、荒魂はあらぶる猛々しい働きを現しているといわれます。ですから荒魂をお祭りして鎮めると和魂になるわけですね。後二者については普通は和魂の徳用を表す言葉で前者のような単独の霊魂の名前ではないとも言われます。奇魂は超自然的な力で奇瑞をもたらす力を持ち、医療にも関わっているとされています。幸魂は狩猟、漁猟などの収穫に力を現すといわれています。
これらが人の中で正しく働けば良いのですが、その働きに過不足が生じると人間が道を誤ってしまうわけですね。今の世の中、ちゃんと働いていない人が増えてきているんだなぁ、と実感したりします。
さてもう一方の一霊のほうなんですけども、これは、先の四魂を統括主催するものです。これが理想的な状態にあるのが「直霊(ナオヒ)」、魔に魅入られてしまった状態になるのが、「曲霊(マガツヒ)」ということになります。
そしてこれらの一霊四魂が、肉体に宿ったのが「ヒト(霊止=人)」となるわけですね。
28.神代文字
日本と言う国には文字は無かった。文字が使用されるようになったのは王仁博士が儒教と共に千字文を持ち込んでからだ、と言うのが通説になっています。このことは斎部広成が書いた「古語拾遺」にも書かれております。
しかし、それ以前から日本には文字があったという説も今なお声高に唱えられております。「神代文字」と呼ばれるものがそれですね。この文字については古来いろいろなことが言われております。神社の神爾などに刻まれていたりしますが、それが本物かどうかと言うことです。
否定派の方々に言わせると基本的に神代文字と呼ばれるものは「甲骨文字」「ハングル」の二つに起源をもつといわれてきました。つまり、はなからでっち上げだったと言うのです。実際に神代文字と言われるものを分類すると大体この二つのパターンに分かれるそうです。昔から否定派が多数を占めているのですが江戸時代になると大学者二人が大文字肯定論をぶち上げます。一人は江戸幕府の重鎮となった新井白石、もう一人は国学四大人の一人平田篤胤です。篤胤の師匠である本居宣長は完全な否定派ですが篤胤は「神字日文伝」と言う本まで書いて主張しております。
明治になってからは、否定派が多数を占めていますが、いまだ決着はついていないと言うのが現状です。私としては「もしあったのならその字で書かれた書物が残ってなきゃおかしいじゃないか」と思ってはおりますが。これはこれで解決しないといわゆる「古史古伝」が本物かどうかと言うのも良くわからなくなりますからね。
29.神道の家元
私も自称「神道北畠流・家元」を名乗っておりますが(笑)、その昔神道にも「神道を生業にする家」というのがありました。言うなれば「神道の家元」ですな。これらの家の事を「神祇道家」と言います。
古代から「中臣」「斎部」「猿女」などの神祇官に伝える家がありましたが、どんどんと滅亡していき、俗に神祇道家といわれるようになったのは「白川伯王家」「藤波祭主家」「吉田神祇管領家」の3家であります。
白川伯王家は花山天皇の子孫顕広王から起こった家です。神祇伯に任命されるのが常であることと、王氏でありながら補任の際に「王」の称号を許される事から「伯王家」と呼ばれます。中世には目立った動きがありませんでしたが、近世に入ると教学の確立に努め「伯家神道」と言われる流派を確立しました。
藤波祭主家は「大中臣氏」です。伊勢神宮の祭主を代々勤めている家です。神郡の経営にも関与して伊勢で生活していたのですがその後、京都に帰りお公家さんになったのです。この家は伯家のように教学を立てると言う事もなく、伊勢神宮への祭祀に没頭した家であります。
吉田神祇管領家はいちばん有名な家ですね。元々は卜部と言う占いの家でありましたが、室町時代に入って吉田兼倶(よしだ・かねとも)が出てきてから神道界を牛耳ろうと、えげつないやり方もやりました。「うちの神社に参ったら全国の神社に参った事になりますよ」と言って大元宮を作る。「伊勢の神宝が家に避難してきた」と言って鴨川の上に塩の俵を埋めて「ほら、伊勢の潮に乗ってやってきたから川の水が塩辛くなりましたよ」と言い切る。えげつない。「吉田神道」を形成した家でもあります。
元々、吉田家の事を「神祇道家」と呼んでいましたが、後にこの3家をさすようになったものと考えられます。
そう言えば、注連縄などに付ける紙垂も伊勢流、白川流、吉田流と3派ありますね。もしかしたら、そういう風なものがまだ生きているのかもわからないですね。
30.新嘗祭・神嘗祭・大嘗祭
季節は秋です。稲穂は頭を垂れ、実りの季節がやってきました。これからの時期神社界では豊年を感謝するお祭りが開かれます。それが新嘗祭、神嘗祭です。
新嘗祭(ニイナメサイ)は宮中や全国の神社で11月に行われる祭りです。春に行われる祈年祭(トシゴイノマツリ)に対応する祭りになります。日本書紀などにも天照大神や仁徳天皇の条に祭りが行われています。稲作に対する儀礼の一つですね。古代から霜月の下の卯の日に行われる事になっていましたが太陽暦採用から23日に行われるようになりました。これが今の「勤労感謝の日」ですね。皇室では天皇自ら神嘉殿に設けられた神座に宵暁の二回に今年の新米で作られた蒸ご飯や御粥お神酒を供えます。全国の神社でもこの祭りは大祭として斎行されています。律令体制時代には上の卯の日に相嘗祭(アイナメサイ)といって特定の神社に新穀を供えていましたが無くなってしまいました。祭りの内容が近似しているからでしょう。
神嘗祭(カンナメサイ)は伊勢神宮に新穀をお供えするお祭りです。10月17日に決められており、6月12月の月次祭とともに三節祭と呼ばれています。この3つのお祭りは皇室で行われる新嘗祭、2回の神今食と対応するものです。朝夕に大御饌をお供えする大事なお祭りです。この日は宮中でも神宮が遥拝され各地の神社でも神嘗祭当日祭が執り行われます。
これに加えて天皇即位のとき一度執り行われる大嘗祭(ダイジョウサイ)があります。即位の礼とならんで古代から重要視されてきたお祭りです。天皇践祚の後悠紀、主基の斎田が治定されそこから取れた米をこの日のためだけに建てられて大嘗宮で神にお供えし、又ご自分でも食されます。