第2巻
11.つかわしめ
いわゆる神使のことですよ。神の意志を伝えるものとして尊ばれる動物です。有名なのはお稲荷さんの「狐」でしょうかね。大きい神社の神様には大体いますよ。
八幡・・・鳩 |
日吉・・・猿 |
春日・・・鹿 |
熊野・・・烏 |
伊勢・・・鶏 |
愛宕・・・猪 |
熱田・・・鷺 |
三島・・・鰻 |
おもなところではこんな感じですが、あと、大黒様のねずみとかありますね。
しかし、気をつけなきゃいけないことも。大三輪さんみたいに蛇そのものが神様だったり、倭建尊も伊吹山の猪を神使であるとして、帰って呪い殺されてますので。
12.天神地祇(あまつかみ・くにつかみ)の事
皆さんは「祭神論争」ってご存知ですか?明治初期に起こった神社界の大騒動です。ご存知のとおり,明治維新において徳川政権は倒れて五箇条のご誓文などによる新政権がスタートしました。その中でいわゆる大教宣布運動が起こります。神仏儒ごちゃごちゃにして神道を宣布しようという運動です。その中で大教院に奉祭する神様をだれにしようかと言う話になったわけです。アメノミナカヌシ、カンムスビ、タカミムスビのいわゆる造化三神(古事記の中に出てくる一番最初に現れた神々)と天照大神という話が出たところで「ちょっと待った!」の一言が。発言したのは出雲大社大宮司の千家尊福(せんげ・たかとみ),その発言の要旨は「造化三神の奉祭に異議はない。しかし顕界を代表する天照大神をいれて幽界を代表する大国主命を入れないのはどういうことか。顕幽双方を祭って初めて大教宣布ができるのではないか!」ということ。これに対して伊勢神宮大宮司(?)田中頼庸(たなか・よりつね)が大反対。ここにおいて神社界を二分する伊勢派対出雲派の対立が始まったのです。政府要人が仲裁に入るも決着はつかず、ついに明治天皇の勅裁にまで発達します。結局宮中三殿の神殿の神を祭ることになったのですが,これにおいて大教宣布運動は崩壊。教派神道13派の誕生となったのであります。千家尊福は出雲大社教を、田中頼庸は神宮教を結成。神道が宗教として発達するおそらく唯一のチャンスだったのですが、神宮教は神宮奉斎会になり、大社教は教派神道として神道とは扱われず。
これが祭神論争の顛末ですが、ここに見られるのは伊勢派いわゆる天神系と、出雲派すなわち地祇系の争いです。神代の姉弟喧嘩に端を発するこの両派の対立では常に出雲派は不利な立場にありました。高天が原に君臨し、突如国譲りを要求してきた天神に、使者を懐柔,もしくは武力によって拒否しますが結局敗れます。天照大神は皇祖として政府にあがめられ、須佐之男及び大国主は根の国の支配者として陰に追いやられる。そこに縄文対弥生の信仰、土着民と渡来人の対立を見ることが出来るという人がいます。
元は同根という立場を記紀はとってはいますが、それにしては不当な扱い。出雲の大宮司家には火継神事というのがあります。天皇家の大嘗祭に匹敵する行事です。
今尚天神地祇の対立は続いているのではないでしょうか?
今回はのりちゃんさんのリクエスト、教派神道についてでございます。細かく書くと非常に面倒くさくて鬱陶しいので(何せ私は神社神道の神主)、単に紹介のみに留めます。もんくがあるなら、自分で調べるように(笑)。
ではまず、復古神道系から参りましょう。神道大教はいわゆる大教宣布運動の名残です。だら開祖って言われるものはありませぬよ。祭神は天之御中主神ほかです。
続いては神道大成教、平山省斎が開祖です。その次が神習教、芳村忠明が開祖、そして神道修成教、新田邦夫が開祖です。そして明治を二分する神道家、千家尊福の出雲大社教と田中頼庸の神宮教。これらは国学の系統の宗教です。神宮教は神宮奉斎会、伊勢神宮崇敬会になりました。私も一時期会員でした。
第二グループとしては民間神道系の佐野経彦の神理教と井上正鐡の禊教があります。
第3は山岳神道系、修験道の神道版とでも申しましょうか。山に登って修行する系統のものですね。実行教、扶桑教、御岳教の3つがあります。名前見てもちょっと違いますよね。修行しなけりゃ悟りは開けない的な空気があります。
そして第4グループ。これは皆様ご存知のものが多いですよ。パラパラまがいの踊りを踊る団体で、名前が市の名前になってしまったところや、狐の鳴き声みたいな名前のところやら、オニだのワニだの言う名前の人が中心になっていたところやら。大体解りますよね(笑)。天理教、金光教、大本、黒住教。ここのグループが一番宗教っぽいですよね。街歩いてたらどこかで見るし。「この間、散歩してたら、御岳教の教会があったよ」なんて聞きませんけど、「金光教見たよ」「天理教があったよ。」というのはある話でしょ。
もっとも、現在の天理教は教派神道ではなくなっておりまして新宗教(創価学会とか生長の家とか)になっておりますよ。
天理教と神宮教を除いたものがいわゆる教派神道になっております。
皆さんは伊勢神宮に参拝した事はありますか?私はあります。というよりも伊勢神宮の一番奥まで行ったことがあります。天皇陛下が参拝されるところです。そこでは余りにも恐れ多くて参拝する気にはなれませんよ。一人だけいましたけどね。その人と一緒にいた私の友人は「時が一瞬止まった。何をやってるんだと唖然とした。」とそのときの事を語ります。
我々は研修で行きますから、他の人たちとは違う体験ってのも多いわけです。例えば夜間参拝。あの荘厳な雰囲気を皆さんに味わっていただけないのは残念です。あれは体験したものじゃないと解りません。瞑想するんですけど静かでね、五十鈴川の流れる音と風で木々が揺れる音だけがただ抜けていくんですよ。行き帰りの玉砂利を雪駄で踏みしめる音がなんともいえません。
禊なんてのもやりました。朝の早くから褌一丁で川に入るんですよ。寒い、冷たい通り越して痛いんですよ。川の中で唱える大祓詞や明治天皇御製はもはや、悲鳴と怒号にしか聞こえません。
さらにそんな縮こまった筋肉を無理やり伸ばすかのように山に木を植えに行くんです。
生きてる間に一度神宮参拝してください。
日本の神職ははっきり言って、2派に分かれております。一方を館友、もう一方を院友と呼びます。これは神職養成機関の2大巨頭である皇學館大学と国学院大学の卒業生ということを表しております。別に仲が悪いという事ではないんですが、よく院友の人が皇学館の学生に研修講師としてつくとちょっと厳しいとか館友の人が国学院の学生につくと掃き掃除ばかりやらせる、なんていう話はよく聞きます。
お互いプライドがありますんでしょう。現在、勢力としては院友のほうが多いことになっています。皇学館は「神宮のお膝元」というプライドがありますし国学院は「それ以外にとりえの無い」と皇学館を見下しております。我々も「館友が多いと安心する」ものです。
それでは、この両大学の歴史をば、覗いてみましょうか?まず、我が母校から参りましょう。皇學館大学の全身、神宮皇学館は明治神18年久邇宮朝彦親王により伊勢神宮内宮にあった林崎文庫につくられました。その後、明治36年に官立専門学校になり昭和15年大学に昇格したのですが、敗戦とGHQの「神道指令」によってぶっ潰されます(笑)。危険思想の温床だったからでしょう。その後、私立大学として復活しました。
一方の国学院大学は有栖川宮幟仁親王によって作られた皇典講究所が母体となっています。こちらは明治37年に専門学校、大正9年に私立大学になってます。GHQによって皇典講究所はなくなりますがこちらはつぶれずに残りました。
いずれにしても、この二つしか神道系大学はないわけで、仲良くしていかなければと思うのですが。
皆さん、変だと思った事ありませんか?平家物語で那須与一が船の舳先に揺れる扇を撃つ前にありとあらゆる神様に願掛けする場面。「八幡大菩薩」って言ってますよね。八幡さんは「大菩薩」です。ところで観音様は観世音菩薩ですね。仏教なんか神道なんかどっちやネン!!!って。そこで今回は神号の話しをば。
まずあるのが「尊」「命」ですね。ミコトです。この二つ、日本書紀では使い分けられています。皇室につながる神々には「尊」の方を使うんですね。例えば月読尊とか。たいして「命」のほうはその他の神です。大国主の別名の大己貴命とか。
そのほかには「名神」と言うのがありますね。延喜式の中で特に霊験あらたかな神様には名神号が贈られています。
そして有名な「菩薩」号です。これなんか神仏習合の最たるものですね。菩薩道に目覚めた神様に贈られるんですって。応神天皇は仏教伝来前の方なのにいつ修行したんでしょうねぇ(笑)。菩薩号はこの他に富士浅間とか多度とかも菩薩号なんですね。
この他にも有名なのは「権現」ですか。これは神仏習合通り越して本地垂迹説に根拠を置くものですね。熊野、春日、白山なんかは権現号です。
人々が神様になるものですが、牛が止まったころに神社作った方は天神さんです。猿面冠者は名神ですし、狸親父は権現です。動物に神号あげたみたいですね。
江戸時代になると、「霊社」号が出てきます。山崎闇斎の「垂加」とか吉川惟足の「視吾堂」とかは霊社号です。
ま、色々ありますが結局は、我々はこんな神様の呼びかたしませんものねぇ。
17.神像
日本古来の宗教であります神道はご神体は鏡とか、石とか剣とかそういうモノであって、決してそれが神そのものじゃありませんよね。あれは依り代であって、神様じゃありません。神社の大きなお祭では降神・昇神というのがあります。ということは神様は普段は神社にいないんでしょうかね(笑)。
それはともかくも、仏教が伝来して仏像が作られるようになると、神道でも、神像というものが作られるようになりました。
有名な神像には京都の松尾大社とか静岡の伊豆山神社なんてのがありますね。吉野水分神社の神像は神武天皇のお母さんの像です。
お寺にも神像があったりします。いちばん有名なのは三重県の金剛証寺の雨宝童子像でしょうね。恐れ多くももったいなくも大日如来の化身天照大神16歳のときの像のようです。神様にも青春時代あるんでしょうかね(笑)。きっと天岩戸の時なんかは、アマテラスもスサノオも反抗期だったんでしょうね。家庭内暴力の弟と引きこもりのお姉さん(笑)。そういえば、ツクヨミもアマテラスを怒らせてますね。イザナギさんもきっと苦労症の親父だったに違いない(笑)。そんな中ヒルコは立派な福の神になって帰ってきた。今ごろイザナギさんも喜んでいることでしょう。
神道はなぜかお祭のときに仏教の言葉等を嫌います。潔斎期間にそういう言葉を使わなきゃいけない場合もある訳で、そういうときに替わりに使う言葉忌み言葉といいます。今でもみんな使ってるんですよ。スルメの事「アタリメ」って言うでしょ。サルのこと「エテ公」っていうでしょ?
今回はそんな忌み言葉を使ってしゃべってみましょう。
@「今日、お寺に行ってお経を読んでいたらお坊さんに誉められた。」
→「今日、カワラフキに行って、ソメカミを読んでいたらカミナガに誉められた。」
A「知り合いの人が血を吐く病気で亡くなって、墓の前で涙を流した。」
→「知り合いの人がアセを吐くヤスミでナオって、ツチクレの前で泣いた。」
聞いただけじゃ、何のことかさっぱりわからない。
19.四大信仰のこと
ところで皆さんは。何でお稲荷さんの使いは狐なんだか、ご存知ですか?そもそも、お稲荷さんの祭神はミケツ神、つまりはですね、食べ物の神様であるわけですが、同時に農耕神、山の神田の神でもあるわけです。民俗学の領分に入ってきますが、山の神は春になると下りてきて田の神になります。この時に狐を先導にして下りてくると言うんですね。またミケツ神のケツと三狐神を混同すると言う考え方、仏教のダキニ天と同一視すると言う考え方等々があって狐がお稲荷さんの前で油揚げを待っているわけですね。
とまぁ、狐の話をしましたが、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と言われるように稲荷神は江戸では大流行しました。現在全国の神社の中でお稲荷さんは32000社と第1位の普及を遂げております。ちなみに2位八幡社の25000、3位伊勢神宮(神明社)18000、4位天神10000社となっています。今回はこの上位4つの神社の普及についてお送りしたいと思います。
まずは、やはりお伊勢さんから言っておきましょうね。伊勢神宮、正確に言うと皇大神宮・豊受大神宮ですが全国に勧請されると神明社になります。やはり最高神ですから全国にある神領や新田開発とかされたところに勧請されています。新たに得た土地に祭ると言う意味で台湾神社・朝鮮神宮・樺太神社その他関東州・南洋群島にも祭られています。満州帝国の「建国神廟」にも祭られていましたからね。こんなことをして「独立国だ!」と主張しても無駄とは思いますが。もっとも、伊勢の場合は勧請と言うよりも御師の存在が大きいでしょう。全国で師壇関係を結び大麻を(クスリじゃないですよ(笑))全国に配る神主たちです。そして「ええじゃないか」のおかげ参りでしょうね。
八幡さん。言うまでも無く宇佐八幡、石清水八幡を総本山とした信仰ですね。一番大きな勧請社が鎌倉の鶴岡八幡宮ですよね。応神天皇と同一視されたところから皇祖神、ひいては源氏の氏神になって、さらに武士の守護神になってしまいます。各地の武家たちが勧請したから全国に伝播しています。
天神さん。これは菅公をお祭していますから大宰府天満宮が総本山ですね。もともと全国に結構あったんですよ「天神」をお祭する神社は。それが、菅原道真が九州で流刑死した後、怨霊になって藤原氏やら皇室に祟ったものだから、みんなでお祭して天神さんと言えば菅公のことを指すようになったんですね。
お稲荷さんはちっとばかり様子が違いまして。この神様は商業神、農業神はおろか屋敷神になったりしています。大きなお屋敷やら人家と人家の間にあったりするでしょ?漁師町に行けば、漁業の神様になりますしね。地域が受け入れたと言うより個人が受け入れた神様と言うことができるかも知れません。
皇位継承の証、伊勢、熱田、宮中に祭られる皇室の宝、それが三種の神器ですね。古墳の発掘などすると剣、鏡、勾玉が出てきます。古代の権力の象徴それが三種の神器です。今回はそれらについてのお話をば。
これらが何時できたのか。古事記では天照大神が須佐之男尊の暴挙に怒り天岩戸に隠れたとき、神々が作ったのが、八咫鏡と八尺瓊勾玉です。その後須佐之男がヤマタノオロチを退治したときにその尾から出て来たのが草薙剣です。
ではどんなものだったのでしょうか。勾玉は、要は装身具ですよね。普段は箱に入ってます。見ちゃダメなんですが、これを見ようとした人がいます。冷泉天皇です。ところが箱を開けたとたん白い雲のようなものが立ち上がったと言います。順徳天皇なんかは箱を振ってみたりしています。カラカラ音がしたそうです。南北朝時代に大嘗祭のとき六条有光が箱を落としてしまって、辞任するといったこともありました。
剣はこれも見ちゃいけないといわれているにもかかわらず、見た神主がいます。長さ80センチくらい、刃の先は菖蒲のよう、色は全体的に白いそうです。ちなみに見た方々は・・・原因不明の病気にかかったそうです。
最後の鏡はといいますと、咫は長さの単位で18センチくらいです。八咫はそうすると144センチくらいになっちゃいます。直径46.5センチと言うことになりましょうか。伊勢神宮の鏡を入れる御樋代はもっと大きいですから、直径49センチくらいのものも考えられます。