戦国期の北畠氏の一門
晴具、具教、具房三代統治時における北畠氏の一門を紹介します。
国司家 大河内家 坂内家 岩内家 木造家 田丸家 東門院家 小原家 藤方家 大坂家 政能家
国司家・・・・・多芸御所
晴具−具教−具房=具豊(織田信雄)
北畠晴具(文亀3?〜永禄6)
名は親平→具国→晴具→天祐(法名)
父は北畠具方(材親)、母は土岐成頼娘か?妻は細川高国娘。
官位は従三位権中納言。
父の死により家督を継承する。中勢の宿敵・長野氏と数度戦い、孫の具藤を養子に入れて屈服させる。この他神宮の宇治・山田の対立に介入。神三郡の属領化に乗り出す。
志摩13海賊や熊野地方、南伊賀も支配権に組み込み北畠家の最盛期を作り出す。
子に具教、具親、具政がいる。
北畠具教(享禄元〜天正4)
名は具教→不智または天覚。
父は北畠晴具、母は細川高国娘。妻は六角定頼娘。
官位は従三位権中納言。
父の出家に伴い家督を継承。重臣五ヶ所愛州氏、神宮官人福島氏を粛清、志摩、大和領の不穏な動きにも対応。次男具藤の継いだ長野氏を先陣に北勢へと侵攻を開始するが、やがて織田氏の伊勢侵攻に遭う。
大河内城篭城で織田軍と激戦を繰り広げるが、信長次男を国司家養子に迎えることで和睦。
武田信玄、足利義昭らと結託し、反織田包囲網を画策するが、熊野一揆煽動により信長の疑念を買い、買収された旧臣によって三瀬館で暗殺。
子に具房、具藤、親成、亀松、徳松、坂内氏正室、田丸氏正室、織田信雄正室、津川義冬正室などがある。
北畠具房(天文14〜天正8?)
名は(具成?→)具房。
父は北畠具教、母は六角定頼娘、正室は不明(一門の娘という説がある)。
官位は従五位下左少将。年代和歌抄には中将とある。
「馬に乗ることも出来なかった」と言われるほどの巨漢で暗愚、とも言われる。
祖父の死去、父の隠居に伴い家督を継承。ただし、父具教は大御所として実権を握っている。
養子の信雄と妹千代御前の婚姻後隠居。北畠氏粛清のときに命を助けられ、滝川一益預かりとなる。解放後死去したという説と、存命し信雄や羽柴秀吉に養われたという説がある。
北畠親成・徳松・亀松
父は北畠具教、母は不明。親成は土岐氏からの猶子か?
官位は、親成が式部少輔。徳松・亀松は元服前。
親成は織田家との講和の際、反対を唱えた。具教暗殺と同日に田丸城で兄、長野具藤とともに暗殺される。
徳松、亀松は具教暗殺時に三瀬館に在住、徳松は乳母とともに裏庭に逃げたが発見され暗殺。亀松は同じく乳母に抱かれ厠に隠れたが発見され殺害。
大河内家・・・・大河内城
顕雅=親文=親忠=頼房−具良
大河内家の家祖は2代目国司顕泰の子、顕雅。兄満雅が幕府に破れ戦死した際、幼少の甥・教具を助け、国司権力を代行。
顕雅の後も教具子・親文、政郷子・親忠、材親子・頼房が継承。
大河内頼房(永承7ころ〜弘治3)
父は北畠材親、母は不明。
名は親泰→秀長→頼房
官位は正三位権中納言。
大河内具良(?〜天正4)
父は大河内頼房、母は不明。
官位は従五位下左中将。
大河内頼房の子。天正4年に北畠信雄により暗殺。
坂内家・・・・・坂内城
雅俊−具能=房郷−(?)=具祐−具信−顕雅
坂内氏は木造氏系の氏族であったが、宗家から養子が入って本宗家の一門化している。
雅俊、具能親子の後、教具子・房郷、材親子・具祐が入嗣して戦国期にいたる。
坂内具祐(?)
父は北畠材親、母は不明。
名は具房→具種→具祐→天全(法名)
官位は従四位下参議播磨権守。
坂内具信(〜天正4)
父は坂内具祐、母は不明、妻は北畠具教娘?
名は具定→具信
官位は従四位下左中将。
天正4年田丸城で長野具藤、北畠親成とともに殺害された坂内兵庫か?
坂内顕雅(?)
父は坂内具信、母は不明。
官位は従五位下侍従。
坂内亀千代(?)
父は北畠具信、母は北畠具教娘。
天正4年、外祖父北畠具教の弟・東門院具親とともに北畠家再興を目指す。「星合系図」に亀寿が記載されているので、星合家を興したか?
岩内家・・・・・・岩内城
顕豊−政治=鎮慶―国茂−具俊
岩内氏の系譜は不明。顕豊−政治と続いた後、政治の戦死により一時廃絶。永正9年に再興される。
岩内鎮慶(?)
父は北畠材親か?母は不明。
岩内家を再興。木造俊茂から白粉代官職を奪った、岩内某と推定される。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応。
岩内国茂(?)
父は岩内鎮慶、母は不明。
岩内具俊(?)
父は岩内国茂、母は不明。
木造家・・・・・木造城・戸木城
顕俊−俊通=俊泰−持康−教親−政宗−俊茂=具政―具梁
北畠家の一番古い分家であるが、宿命のごとく宗家に逆らいつづけた。満雅の反幕戦争の際は幕府方に付き、国司兄弟合戦では大御所逸方とともに婿の師茂を擁立、織田の侵攻では具政が織田軍の先駆けになる。
木造俊茂(明応4ころ〜?)
父は木造政宗、母は不明。
官位は従三位参議左中将。
禁裏の伊勢白粉代官であったが岩内鎮慶に代わられる。
木造具康(?)
父は木造俊茂、母は不明。
官位は従四位下中将。
父により殺害されたとの記述もある。源城院主玄(滝川雄利)の父か?
木造具政(?)
父は北畠晴具、母は不明。妻は木造俊茂娘。
官位は従四位下。
白粉代官職を拝命。織田家侵攻の際に、実兄具教を裏切り織田方につく。その後は織田家臣として小牧長久手の合戦にも参戦。
木造具梁(?)
父は木造具政、母は木造俊茂娘?
官位は従五位下左少将。
織田秀信家老、福島正則家臣となった木造長正か?
源城院主玄
父は木造具康。
父の失脚後、木造家菩提寺源城院に入る。織田信長の伊勢侵攻の際、主君を説いて国司家に造反させる。滝川一益から氏を受けて滝川氏を名乗る。津田一安、柘植三郎左衛門とともに、北畠具豊の家老として実験を握る。後の滝川雄利である。
田丸家・・・田丸城
具忠―直昌
国司3御所に数えられる名家だが、発祥は不明。北畠材親の子具忠が家祖か?北畠氏滅亡後、織田、蒲生と仕え独立大名に。関が原の合戦で西軍に属し戦後改易。
田丸具忠(?)
父は北畠材親か?母は不明。
名は三郎→具忠
官位は従四位下左中将。
田丸具勝(?)
父は田丸具忠。母は不明。
官位は侍従。
田丸直昌(〜慶長14)
父は田丸具忠。母は不明。妻は北畠具教娘。後妻は蒲生賢秀娘。
名は直息→直昌。
官位は従五位下中務大輔。
田丸家を継承。北畠氏滅亡後も織田家臣として存続。亀山の関一政とともに蒲生氏郷の義弟となり与力になって伊勢より移封。
東門院家・・・・・興福寺別院東門院
孝尊(教具子息)―孝縁(政勝子息)−孝憲(晴具子息・具親)−具成?
正確には、国司家の分家ではない。国司家の子が代々門主を務めている。三瀬の変直後、孝憲は還俗し具親として、北畠氏を再興するために戦うが、2度にわたり敗北。小牧長久手の合戦後、公卿になることを望んだが死去し、絶家。
北畠具親(?)
父は北畠晴具、母は不明。兄具教の謀殺後、北畠旧臣により擁立。敗北後、伊賀から備後鞆の足利義昭と協力。本能寺の変後にも再挙したが敗北。小牧長久手の合戦では織田、徳川連合軍に通じたが、秀吉側の蒲生氏郷にも協力。戦後、所領を与えられるが、公卿としての復帰を希望、かなわぬまま死去。
子に具成がいると言う説もある。
小原家・・・・小原に居館
?―国永―具就?
小原を領する一族、とされる。国永は歌人として有名。小原氏を「岩内氏」「藤方氏」に比定する説も出ている。
小原国永の父(文明11?〜永正10)
父母不詳。永正10年長野氏との合戦で討ち死に。35歳。
小原国永(1505?〜1584?)
父母不詳。初名は国範。武人と言うよりも歌人として有名。歌集に「羽林詠草」がある。これにより、北畠具教の詠んだ歌も後世に伝わった。法名桂祐。
なお、国永を「岩内鎮慶」に比定する説もあり、これであると系図は国永―国茂―具俊となる。
また、藤方慶由に比する仮説もある。
小原具就(?)
「羽林詠草」にたびたび登場することから「伊勢国司記略」では、国永息ではないか、と推測されている。
藤方朝成に比する仮説もある、
大阪家・・・・居城不明
?(大阪入道か?)−具成―?(北畠政成か?)
具成のみ確認される家。ゆえに系図不明。公家訪問の際国司とともに接待しているので一族でも有力とも考えられる。
大阪具成(?)
父母不詳。天文年間に侍従に叙任。弘治3年、山科言継の接待時に「大阪入道」と見える。この時点で出家していれば「大阪入道」本人であるし、出家していなければ、入道は彼の父の可能性もある。また「東」と号したともされており、軍記物で「東御所」と呼ばれる政成となんらかの関係があるとも推測できる。
藤方家・・・・・藤方城
慶由―朝成―安正
材親の子より始まるとも言われる家。国司滅亡に加担した家としても知られる。
藤方慶由(?)
材親の子とも言われるが不詳。
隠居後、田丸に住むが孫が紀州長島合戦に敗戦した際に醜態を曝したことに怒り、子の朝成が具教暗殺に加担した事を知って絶望。入水自殺する。
小原国永と同一人物という説もある。
藤方朝成(?)
慶由の子。織田氏から北畠具教暗殺の刺客に選ばれるが、逡巡した結果、家臣の軽左京を代理に立たせる。そのことを知った父慶由は自殺。その後信雄、羽柴秀吉等に使える。一説によると自分も暗殺されたと言う。
小原具就と同一人物という説もある。
藤方安正(?)
長野信包、羽柴秀次と仕えるが二人とも改易。後に徳川家に仕えて旗本。
北畠政能家・・・居城不明
政能―北畠政成?
北畠政能(?)
系図不詳。
天文年間に侍従になった記録以外定かではない。
斉藤拙堂は、北畠政成の父ではないかと推測する。
北畠政成(?〜1576)
多芸城代。三瀬の変を聞きつけて霧山城に篭城。織田軍に敗れて自害。
と言われるが多芸記、大正庵法名帳以外にこの人物の名は見えない。
政義(政郷弟)―政勝―政成と伝わるが
1.政義は系図上確認できない。
2.政勝は政郷の改名であると言うのが定説。
3.政勝が政郷と別人として存在した場合、文明18年には存在を確認できるので、その子息というには年代が合わない。
と言う理由からもう一代政能をはさむのではないかと推測される。
また、軍記の「東御所」に当たるとされているので、大坂具成と何かしら関係あるとも考えられる。
入嗣政策により一時期一門化した国人
神戸家
政勝子息具盛が養子に入ったとされる。
長野家
具教次男・具藤が長野藤定の養子に入る。