光秀騒動 巻九

 

光秀謀反の事

その頃、羽柴秀吉は毛利輝元と中国において戦っていた。織田右大臣平信長公、三位中将信忠卿は西国征伐のために職に触れを出し天正10年5月29日に上洛して軍勢を待った。ここに丹波の国の守護明智日向守光秀が謀反を企て二万あまりの軍勢を率いて6月2日京都に攻め込んで本能寺を攻め信長公を殺した。御年49歳であった。その後二条御所を攻め信忠卿を討った。御年26歳であった。明智は土岐氏の一族で信長に重用されて大名になったものである。厚恩を忘れ今この謀反を企てた。悪逆無道のものである。そもそも信長は勇義の将であったが道徳がないためについに謀反で死んだ。また人身掌握のすべを知らず常に不義を憎み降伏したものを殺し敵はその根を切って葉を枯らそうとした。一度憎んだら最後は殺した。故に怨敵が絶えない。水も清ければ魚は住まない、人は厳しすぎると、他人がついてこないという。主将がただ勇猛のみをもって人を殺して何で国が治められようか。武をもって脅し文をもって和すれば何で治まらないことがあるだろうか。罪は一人にある。無道を罰してその他は罰さない。戦は危険なものである。人を殺す剣人を活かす剣とはこのことである。天下は一人の天下ではない。報いは必ず主君に返ってくる。そのときの敵は必ず信頼する家臣である。故に天照大神はヤマトタケルノミコトに「慎んで惰ることなかれ」といったのだ。これは兵道の秘法である。

蒲生篭城の事

そののち、明智家は近江に入り安土城をとって近江中がこれに属した。ただ蒲生左兵衛督賢秀、子息忠三郎氏郷親子は義を重んじ命を軽んじて信長の北の方、若君姫君らを引き取り日野城に立てこもり一族諸侍小倉、音羽、和田、儀俄、寺倉、三木、小谷、林、上野田、内池、森町、野外池、室本、葛巻、河合、赤佐、横山、布施、高橋、種村、中村、北川、稲田、門屋、結解、岡、大森、新古屋小沢以下一千の軍を集め反抗した。多賀新左衛門尉、布施藤九郎の二人が光秀に従って下った。蒲生親子はこれを嘲り笑って一向に同心しようとはしなかった。多賀布施は怒って「日野城は出来たばかりで壁も乾いてない。急ぎ攻めるべきだ」といった。明智軍は軍勢を出し日野城を攻めようとした。ここに伊勢本所北畠中将信雄、伊勢の軍を集め鈴鹿郡坂下に出陣した。蒲生家が信雄に対して加勢を請う時二心無き証しとして二歳の娘を人質とした。故に信雄が陣を近江の土山に移し蒲生に加勢した。

信澄自害の事

神戸三七信孝は四国出陣のため和泉の堺に陣していた。信長横死によって軍が多数欠落し残る兵は八十あまりになった。しかし、織田七兵衛信澄、丹羽五郎左衛門尉長秀はその時、摂津の大阪城にいた。これによって信孝は大坂城に入って本丸を守った。長秀はこれに従い信澄は二の丸を守った。信孝が軍勢を催し攻め上がろうとする時信澄に陰謀の企てがあった。彼は信長弟織田武蔵守(信行)の息子である。信長が若い頃この弟を殺した。その上明智の婿でもあった。故に光秀は信澄と通じて信孝を討とうとした。信澄の家老朽木、匂坂らが長秀に告げて裏切った。これによって信孝長秀は6月5日二の丸を攻めた。信澄も防戦したが皆討ち死にしついに自害した。25歳だったという。

光秀討死の事

明智日向守光秀は信孝が出陣してきた事を知り急いで近江から攻め上り、青龍寺に陣をひいて信孝を討とうとした。信孝は近隣の諸軍を集め6月13日山崎で合戦に及んだ。信孝に従ったのは羽柴筑前守秀吉、池田紀伊守信輝、丹羽五郎左衛門尉長秀、堀久太郎、高山右近将監、中川瀬兵衛尉らが先陣となって猛威を振るい、ついに光秀は敗北し山科で土民に首を打たれた。信雄ならびに氏郷が上洛しその他の諸侯も集まりまず信長のことを嘆きおのおの鎧の袖を濡らした。その後、諸侯が近江、美濃、尾張で謀反のやからを退治し清洲で家督について評定したという。

伊州蜂起の事

この時伊賀国で一揆が起こった。昨年の冬の恨みによって福地(信長に味方)を追い出し、討とうとした。さらに瀧川(雄親)に背き池尻(平左衛門尉の城)を攻め仁木の城を囲んだ。信をが土山に在陣した時仁木友梅が使者を送って報告し加勢を願った。信雄の先陣沢源六郎、秋山右近将監、芳野宮内少輔、天野佐左衛門尉、本田左京亮、下村仁助らがこれを受け6月9日伊賀に出陣初戦で本田の家老森八郎右衛門尉が討ち死にした。六月下旬一宮城主森田入道浄雲が織田方に鉄砲を撃ち掛け、沢・秋山らが一宮城を囲んだ。本田勢が一番に塀に上り本田左京亮の左右は高嶋次郎左衛門尉、舎弟椋右衛門尉、前後は弟の高嶋孫兵衛尉、中西清次兵衛尉、この4,5人が城に攻め込み、其々首を討ち取った。なかでも高嶋孫兵衛尉は森田浄雲と渡り合いついに首をとったという。同じく軍勢が攻め込みついに攻め落とし勝ち鬨を上げて放火した。その後に伊勢軍は兵を引いた。また瀧川三郎兵衛尉が威をふるって音羽城を攻めたとき軍が多数討ち死にして、後瀧川は自然に伊賀南北の一揆を鎮圧したという。人々はこれを誉めた。

国府生害の事

信孝が堺に陣を置いていたとき、関安芸守盛信が国府市左衛門尉の勧めにのって織田への謀反を企て伊勢に下った。信孝は山崎の合戦後これに怒り国府市左衛門尉を罰して安芸守を許した。この国府市左衛門尉は国府家の家老であった。そのころ国府佐渡守が死にこの次郎四郎が若かったため家老の国府市左衛門尉、打田新右衛門尉らが名代で供をしていたということだ。

一益上国の事

瀧川左近将監一益は上野国厩橋の城にいたが信長の訃報を聞きこの事を隠さずに関東の侍に話した。彼らはその真心に感動して一益の下知に従った。故に軍を起こし攻め上る時相模国北条左京大夫平氏政が5万の兵を率いて武蔵野に出陣し6月18日軍を伏せて謀略をかけた。まず精兵2,30騎でこれを襲うと滝川の先陣篠岡平右衛門尉、津田次右衛門尉らがこれに応戦して追いかける時北条軍が雲霞のように襲い掛かると瀧川軍は利を失った。津田、篠岡らは踏みとどまって主君を助け身代わりとなって討ち死にした。真に武士の本意である。また伊勢の住人稲生五左衛門尉、南部久佐衛門尉群を抜いて槍を合わせ手柄を立てたという。また、私(作者)がこの時の古市九郎兵衛尉の忠節を聞くところによると。瀧川には男子が二人いた。嫡子は三九郎、次男が八丸である。しかし敵が三人来て八丸を虜にした。しばらくしてこれを聞いた古市が追いかけ一人は殺し一人は負傷させ一人は逃げた。ついには八丸を連れてきたという。真に無双の名誉である。この古市は神戸の侍でこのころ瀧川に仕えていた。穣苴に「奔るを逐うは百歩に過ぎず」という。瀧川の先手は一つにまとまらず正面から危うきに挑んだ。その後一益は中山道をとおって事無く長島に至った。

家督諍論の事

諸大名がそろって信長の後継者を立てようとした。信雄と信孝がこれを争った。信孝は敵を討ったとはいっても三男である。信雄は敵を討たなかったといっても次男である。大名達は是非を判別できなかった。まず二人を立て信雄は尾張の清洲に移り尾張八郡の侍はこれに属した。信孝は美濃岐阜の城に入り美濃八郡の侍はこれに属した。柴田、羽柴、丹羽、池田の四人を奉行とした。伊勢松ヶ島城は斯波氏の子孫津川玄蕃頭に給い南勢の奉行とした。伊勢神戸城は信孝の異父兄小島兵部少輔に与えて北勢の奉行にした。

家督評定の事

信雄と信孝が家督を争ったので天正10年秋諸大名が清洲に集まって評定した時に言った「亡き信忠卿の若君、三郎丸が三歳になる。このお方を主君として安土城におき若殿達二人が守り立てるべきだ」と。信雄、信孝、諸大名が誓紙を書いて人質を出した。三郎丸は岐阜におり信孝が日にちを過ぎても引き渡さなかった。諸大名は安土に移すようにと催促したが信孝は聞き入れず柴田瀧川佐々らと結んで天下を狙った。

柴田・羽柴の事

またそのころ、柴田修理亮勝家と羽柴筑前守秀吉が互いに権威を憎しみあい不和となった。その根本は信孝の逆意にはじまる。浅井氏の後家小谷御前は信長の妹で絶世の美女だった。信孝のところにいた。柴田と羽柴が互いにこれを望んだ。元々秀吉との豚かは入魂であった。が勝家をなつかせようとして御前を柴田に給わった。故に秀吉がこれを恨み信孝に背き勝家と不快になった。冬10月信孝は秀吉に対し柴田と和解させようとした。秀吉はこれを受け入れなかった。18日斎藤玄蕃允、岡本太郎右衛門尉の二人に対してこれを披露した。その書状の趣は信孝様は明智を討って天下の誉れを得ようとしたので秀吉は急いではせ参じ先陣をした。しかし私の忠心をないようにして柴田に肩入れするので迷惑している。また信孝様信雄様が跡目を争い誓紙にしたがって信忠様の若君を立て二人が守り立てていくように決めたのに今まで信孝様が若君を軽視するので主がおらず迷惑してる。とはばからずに書いた。信孝がこれに怒り柴田に頼りまず秀吉を討とうとした。羽柴はこれを聞いて信雄を立てて勝家を討とうとした。故に柴田羽柴の双方に分かれた。

信孝誕生の事

父祖の敵を討とうとするものはその身を愛せず不倶戴天である。しかし信孝は敵を取ったとはいえ末子なのに天下を望んだ。それは何故なのか。元々次男だったという。信長の正室斎藤山城入道の娘には子供がいなかった。信忠卿も側室の子供である。弘治三年丁巳の誕生で御台所の養子になった。次男信雄は生駒の娘から生まれた。永禄元年戊午に生まれた。信孝は坂の娘から生まれた。信雄と同年同月に誕生したという。日にちは信孝のほうが少し早かったという。しかし信孝の母は熱田の神主岡本の宿所にいた。誕生を伝える人がなかった。後日岡本が清洲に行きこれを伝えた。岡本太郎右衛門尉はこの神主の息子である。信孝は勇将ではあったが聖道を知らなかった。聖人は先を争わず争いを望むものは必ず滅びる。また優柔不断で細かいものは必ず滅ぶ。道徳を用いるものは栄える。仁義をもっぱらにするものは久しい。聖徳太子は17条の憲法をたてて群臣に示した。和を以って尊きとなす。これは永遠に変わらないほうである。伝え聞くところによると平重盛はこの憲法を悟って名を残したという。