諸国退治 第8

毛利出張の事

天正6年戊寅5月、安芸国毛利右馬頭大江輝元が播磨に出陣して羽柴筑前守秀吉に戦いを挑んだ。これにより織田三位中将信忠卿が諸家を率いて中国に下向した。勢州の4家もこれに従った。6月瀧川一益らが神吉城を囲み、7月北畠信雄朝臣らがこれに助勢し攻め落とした。8月に帰陣した。この時信雄は九鬼右馬允嘉隆に命じて志摩2郡の侍ならびに矢野衆、江波中、工藤祐助、智積寺九右衛門尉らが大船を堺浦に回し6月に九鬼は紀州雑賀浦で船戦を挑み大勝利して敵船を取ることあまたであった。信長はこれに感心し摂津野田福島に加増した。

九鬼出世の事

かの九鬼家は志摩の侍である。志摩侍は大体国司毛の幕下にあった。先祖の九鬼隆義は熊野からやってきて初めて波切の城に入った。法名を珍村と言う。その子が九鬼珍山、三代が大和守、四代が山城守、5代が宮内少輔である。その子供宮内大輔(浄隆)が早く死に、嫡子の九鬼弥五助(澄隆)は幼少であった。これによって伯父の九鬼右馬允(嘉隆)波切片田を守ってこれを後見した。英虞郡7人衆は相差方(伊藤兵部)国府三浦方(三浦新助)甲賀武田方(武田左馬介)波切九鬼方、和具青山方(青山豊前)、越賀佐治方(佐治隼人)浜島方(小野田筑後)であった。しかし九鬼右馬允は7人の掟に背き私心に走り武威を振るったので残った6人衆が一味同心して波切の城を攻めた。九鬼は遂に城から落ち船に乗って安濃に行きしばらく隠れ住んだ。それから尾張に渡り滝川一益を頼って信長に仕えたのである。永禄12年の秋、信長が大河内城を攻めた時水軍の大将になって志摩国へ入り先に6人衆を攻め従え、その上答志郡に攻め込み磯辺七郷及び賀茂五郷を取り的矢(的矢美作)飯尾方(不詳)浦、安楽島(安楽左門)鳥羽(志摩盟主の橘宗忠)小浜を攻め従えた。その中で浦の大学助(三浦大学)はこれに従わずしばらく抗戦して遂に自害した。また小浜民部少輔(景隆)もこれに属さず合戦し志摩を離れ後に出世した(武田・徳川に仕える)。その後九鬼が志摩一国を従え鳥羽城を守った。信雄に仕え武芸達者なので自然に出世し九鬼大隈守に任じられその名を天下に得たものである。

荒木謀反の事

天正6年11月荒木摂津守(村重)が摂津の有岡城で謀反を企てた。故に城の周りに付け城を築き、諸家が番を代わって年月を過ごしこれを攻めた。勢州4家(瀧川・神戸・長野・北畠)もこれに加わり翌年の10月滝川一益が有岡城を攻め落とし荒木氏は城を落ちて滅亡した。この時細川兵庫大輔藤孝が狂歌を詠んだ。

「君に引く荒木の弓の筈違ひ いるにゐられぬ有岡の城」

この荒木は元摂津の池田家の家臣で足利義昭に背き信長に忠であった。故に摂津を給わったものである。

伊州発向の事

仁木伊賀守滅亡の後、伊賀国4郡の諸侍66人が一味同心して諸城を守り国を治め法を作りすべて平楽寺に参集して評定で決め誓紙を書いてこれを決めたという。仁木・柘植・河合・服部・福富・森田・守岡・名張・上野・山田・吉原・下山・福田山・北村・西岡などである。しかし名張郡住人下山甲斐守が北畠信雄の味方に参じ、伊賀をとるように進めた。これによって北畠中将信雄は天正7年9月17日1万あまりの兵を率いて伊賀の国に出陣した。南は名張口、北は馬野口二箇所から攻め込んだ。敵は其々要所に待ち受け数刻鉄砲を打ち合って敵味方ことごとく死んだ。この国は無双の難所であり味方は利を失って攻め込めなかった。信雄はこれに怒り(謀ったと疑った)下山を虜にして兵を退こうとした。長野左京亮がこれを受け下山の城に行きこれを誘い出して遂に下山を捕らえ兵を退いた。名張口では敵が追撃をかけ下山を奪い返そうとした。殿は澤源六郎但馬守、秋山右近将監がこれを承り、数度合戦してことごとく敵を追い払った。また馬野口の殿は日置大膳亮、柘植三郎左衛門尉がこれを承りかわるがわる防戦した。敵が追ってきて防戦するとすぐ引き返し、退こうとするとまた追撃してきた。鬼瘤の難所では馬に乗れずみな徒歩で退いた。この時柘植は酒気のために難所に苦労して退けず、遂に遅れて討ち取られた。信長はこれを聞いて大いに怒り「国を治める要は大国を攻め小国を囲んではいけない。大敵がこちらに属せば小敵は自分からなびく。また大敵は恐れてはいけないが小敵は侮ってはいけない。ことに伊賀は険難の地である。力攻めをせずに道徳を用いれば攻めずして取れる。信雄は若気によったからこのようになった。」といった。その後信雄は下山を本田に預け監禁した。また秋山の家来上津江新坊は下山の婿であり秋山はこれを殺した。下山は獄中で食を取らず28日たってもまだ死ななかった。本田はこれを哀れみいさめて食事をとるようにいったが聞かず、ついに自ら舌を噛み切って死んだという。

松嶋立城の事

天正8年、田丸の本所信雄の同朋・玄智が出世し金奉行になった。彼はこれを盗もうとして火薬庫に火を放ち城を焼いて金銀を盗んで逐電した。後に信雄はこれを捕らえ木の根元に埋めて鋸で首を斬って殺した。手に入らない財宝を願い悪を働くものは身を滅ぼすのはこのとおりである。また適任でなければその官に置いてはいけない。信雄はこれを愛し不当の官に置いたが故である。この火事の時、信雄派他を省みず自ら長槍50本抱えて人々を召しまず用心した。人々はこれを誉めたという。その後に信雄は城を飯高郡細首にたて5重の天守を立てて松ヶ島城と名づけた。

神戸信孝の事

そのころ、神戸信孝も神戸城で5重の天守を立てた。信孝は文武の達人で文学を用い歌道を好んだ。故に白子木工右衛門尉らが仕えた。この白子は文武をかねた侍である。まず白子不断桜の謡を作り天下に広めた。また律師につき禅宗の悟りについて論じまた浄土念仏について論じた。早物語り(語り物の一種)を二つ作り座頭に教えた。今でもこれを吟じる。また天正5年羽柴家が播磨を拝領した時白子は秀吉のもとに行き

「播磨なる三木赤松を斬捨てて 羽柴ぞ山の大木となる」

と詠んだ。秀吉はこれを誉め褒美を与えたという。

雲林院家の事

そのころ長野上野介信包も津城に天守を立てた。また信包は常に雲林院家を滅ぼし領地を奪おうとしていた。

しかし雲林院家の子息兵部大輔は瀧川の婿になり権威が重かった。これによって信包は謀略で雲林院家の家老野呂長門守を滅ぼしこれをはじめに遂に雲林院出羽守、兵部大輔親子を追放した。故に出羽守は信長の小姓矢部前七郎が婿であるのでこれを頼り安土に住んだ。信長はこれに小地を与え城番にした。雲林院兵部大輔は滝川家を頼り徳川家を頼り諸国を流浪して羽柴家に仕え小地を給わったという。また細野九郎右衛門尉も同じように追放された。

松嶋舞楽の事

天正9年8月、織田三位中将信忠卿、神戸三七信孝・松ヶ島城に来て遊興した。信忠・信雄・信孝兄弟がかわるがわる舞楽をした。

貴賎みな集まってこれを見学した。子供達が舞楽を好むのを信長は嫌った。舞楽は金銭を費やし家業を忘れて国を乱すもとである。主将は好んでこれを行ってはならないという事だ。

誅高野聖の事

その頃信長の下知で諸国で高野聖を虜にしてこれを殺していた。有岡の浪人(荒木残党)が高野に隠遁すると信長はこれを出すように高野山に命じた。その使者が悪事を働き、高野山の宗がこれに怒って殺した。信長はそれに怒ってこのようにしたということだ。伊勢でも数百人が殺されて松島城で信雄信孝が床机に腰掛けこれを見物した。かの聖がみな殺され後に15,6歳の聖が一人残った。美男であったので信雄はこれを助けた。信孝がこれを見て笑い白子木工右衛門尉をよんで下の句を読んだ。

「尻ゆえにこそ命助かれ」

白子は忽ち上の句をつけた

「蜘蛛の糸哀れにも引き出でて」

信孝はこれに感動した。この聖は天道と号して信雄はこれを愛した。後に道也と号して出世した。近年武家が男色を行って無道が多く、これを愛して権力を握らせた。故に賢者と不快になり主を滅ぼし身を滅ぼす。大将は才能のある隠士を訪ね賢を立てることを基とする。周の武王は太公望を得、漢の高祖は張良を得て天下を収めた。然るに今の大名は男色におぼれてへつらい者を愛し、高い知行を与えて国を乱す人が多い。

伊州退治の事

同年の冬、伊賀住人福地某が信長の味方になり伊賀追討の兵を要請した。故に信長は信雄に伊賀を与え、各家臣に諸方から攻め込ませた。伊勢、名張口は北畠中将信雄である。同じく馬野口は滝川左近将監一益である。長野口は長野上野介信包である。鹿伏兎口は神戸三七信孝である。甲賀山の口は多羅尾久右衛門尉が先陣を受けた。下口は蒲生忠三郎氏郷である。大和笠置口は筒井順慶である。伊賀の侍は防ぐ場所を失い其々城にこもった。信雄は丸山城を落とした。一益は富益城を落とし、富益氏は討ち死にして滅亡した。また、具野尾城は落ちず、信孝は柘植城を攻め落とした。氏郷は土山城を攻め数刻鉄砲合戦があった。伊賀は大軍を受けてかなわず有るものは討たれ、あるものは降伏しみな信雄の支配下に入った。故に信雄は丸山城を瀧川三郎兵衛尉に与え、柘植城を池尻平左衛門尉に与えた。また、仁木友梅(前守護・義視)を取り立て平楽寺城に入れた。ここに伊賀綾郡河合に綾杉の銘木があった。結城源吾左衛門尉が誤ってこの銘木を切ってしまった。信雄はこれに怒った。結城は直ちに逐電した。水谷浅右衛門尉当時は次郎八と言ったがこれを追いかけ雲出で討ち取った。鳥獣草木のために人を殺すのは玉を捨てて石をとるのに似ている。人は万物の霊長である。何でその位を同じく出来るものだろうか。ただ、その罪を軽く禁じるべきものである。人間の一生主君につくす忠義は何で杉一本に変えられるだろうか。およそ主君はみなこのようである。

瀧川出世の事

天正10年春、信長・信忠親子は諸国の軍を率いて甲斐に攻め込み武田家を滅ぼした。勢州4家はこれに従った。武田勝頼と太郎信勝親子は甲斐の田野に引退した。3月11日瀧川左近将監一益が押し寄せてこれを囲んだ。信雄は津川玄蕃頭に加勢させ、滝川の先陣津田小平次、篠岡平右衛門尉らがこれを打ち破って武田親子を討ち取った。この時津川の家臣、佐々木半右衛門尉が一番に攻め込み土屋源五右衛門尉を討ち取ったと言う。滝川一益は名将であったので数度の勲功があった。このたびの論功行賞で上野一国と信濃の佐久小県両郡を給い関八州および奥羽の奉行となった。一益は8000の兵を率いて上野の厩橋城に入り、関東の侍を陣営に入れた。

信孝出世の事

同年4月、土佐国の長曾我部土佐守秦元親が四国の大将を望んでいた。神戸三七信孝は勇将なので四国を貰い出陣した。この時養父の神戸蔵人(友盛)12年目で許され澤城に入り神戸城の留守となった。同じく(本家の)関安芸守(盛信)も10年経って許された。文武の達人なので亀山城を与えられ信孝につけられた。信孝・神戸・亀山・峰・国府・鹿伏兎の軍が諸浪人を引き従え勢ぞろいをした。都合1万5千の兵を率いて5月上旬神戸をたち11日に摂津の住吉に到着し、船をこしらえ弓鉄砲を用意して渡海の策を廻らしたと言う。