具教騒動 巻七

国司不快の事

伊勢国司三瀬大御所の北畠中納言源具教入道不智斎は不本意にも織田家に家督を渡した事を悔いていた。故に信長とは不和であった。また、信雄を蔑ろにしていた。これによって先年、武田信玄と同心して、謀反の企てがあったと言う。入道につく侍もまた信雄を蔑ろにした。ある時、信雄の小姓が侍の屋敷に入って小鳥を取った。侍をこれを憤り、小姓を打ちたたいて面目を失わせた。信雄はこれに腹を立てた。信長は野心を前面に出し、織田掃部助(信昌)に命じて国司家を滅ぼそうとした。その命令書には「国司親子三人(具教、具藤、親成)、ならびに坂内入道親子(坂内具房、具義)を討つべし」とあった。信雄は領地を奪おうと大河内家を加えて6人とした。信雄は諸侍にこれを謀った。この時、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉官が田丸城の門外で従者を退けてこの事を語った。しかし、下女一人が扉の陰にあってこれを聞いた。故に人々は皆これを知った。密談は慎むべきものである。これによって急に討手をさし向かわせたと言う。

国司生害の事

まず、三瀬御所の討手には藤方刑部少輔・奥山常陸介・滝川三郎兵衛尉・長野左京亮がこれを命じられた。ただし、藤方は名代として家老の軽左京を送った。以上4人である。それぞれ領地の朱印を賜り誓詞を書いた。彼らは譜代の恩ある家臣である。欲をもって義を失うと言うのは言葉にするにもおろかである。その中で奥山常陸介は心を翻し、仮病を使って涙を押さえて止めた。その他の3人は天正4年11月25日、三瀬御所に向かった。痛ましい事である。具教卿はその朝、こたつに居て、寝巻きを着たまま三歳と当歳の子供を膝において可愛がっていた。その時、近習の佐々木四郎左衛門尉が御前に現れ3人の出仕を告げた。卿は乳母を呼んで子供たちを渡し、出座して対面した。その時長野左京亮が立ち上がると国司の槍を取ってこれを突いた。卿は兵法の達人でありその槍を受けて太刀を抜こうとした。小姓の四郎左衛門尉はかねてから謀反の心をもちその刀を刃を抜いて鞘と柄を結んでおいた。卿は刀を抜く事が出来ず、長野を見て「私は常にお前はこのような謀反をすると思っていた」と言った。その時に滝川と軽が太刀を抜いてこれを討った。卿は遂に怒って死んだ(暗殺と自害の2説あり)。享年は49歳であった。そればかりではなく三歳の子供は乳母が抱いて裏庭に逃げたところを追いかけてこれを討ち、当歳の子供は乳母とともに便所に隠れたが見つかって殺された。北方(具教正室・六角氏)乳母、女房たちが走り逃げ、泣き叫ぶ声。聞く人、見る人袖を濡らさない者はなかったと言う。

具教兵法の事

国司(具教)は塚原入道ト伝の弟子となり兵法一之太刀を極めた。しかし、用心を怠ったためにこのような害にあった。故に張良が漢の高祖に教えるのに帰一の法を立てて武士の奥義とした。兵法の剣術は常陸国住人飯篠入道長威が天真の伝を受けて初めて一流を立てた。かのト伝は長威の四伝を受けた。一番秘術をかねて新たに流派を立て、名声を世に受けたものである。ト伝は諸国を修行して常陸に帰り、臨終のときその家督を譲ろうとして三人の子供の心を知るために木枕を暖簾の上におきまず、長男を呼び出した。長男は見越しの術をもってこれを見つけ木枕を取って座に付いた。同じようにして次男を呼んだ。次男が暖簾を上げたとき、木枕が落ちた。飛び下がって刀に手をかけ慎んで座った。また、元のようにして三男を呼んだ。暖簾を上げたとき木枕が落ちた。たちまち刀を抜いてこれを斬った。ト伝は怒って「お前たちの木枕を見て驚く事は何だ」といった。長男の彦四郎はこれを知って心を動かさなかった事に感じ家督を譲って言った。「ただし、一の太刀は唯一人に授けるだけである。私は伊勢の国司にこれを授けた。お前は行ってこれを習え」。そして死んだ。その後、塚原彦四郎は勢州に上がり国司に言った。「私が父から継いだ一之太刀と御所の継いだものとの違いを見たいと思います。」具教卿はこれを嘘とは知らずに見せたと言う。

君達生害の事

その他の北畠の一族は同じ11月25日の朝、田丸で合図の鐘を定め一時にこれを討ち取った。大御所の次男・長野御所(具藤)、三男・式部少輔(親成)。これは元東門院の稚児であった。同じく国司の婿・坂内兵庫頭この三人は田丸にいた。それぞれを信雄が朝ご飯と偽ってもてなした。土方勘兵衛尉、立木久内、津川源三郎、日置大膳亮、足助十兵衛尉、森清十郎らが一人はこれに組み付き一人はこれを刺し殺した。哀れなるかな。彼らは、ただ夢のように消えてしまった。

大河内家の事

大河内御所はかねてから魔法を使う兵法の達人であった。その時は病気で田丸の宿所にいた。柘植三郎兵衛尉と小川久兵衛尉、この時は小伝次と言ったが、この二人が暗殺命令を受け取りかの宿所へ行くと偽って病気を見舞った。大河内家の侍、高木弥一右衛門尉が座に出て挨拶した。柘植が茶を望んだ。高木が座から離れたとき、柘植が大河内家に飛び掛って押さえた。大河内御所が刀を抜こうとした時に小川が刀で突いた。二太刀目は逃げられたと言う。しかし、二人はついに刺し殺した。小姓二人が隣の間にいて食事を取っていたがこれを見てすぐに逃げ出した。それから、大河内の家臣はみんな宿所に退いていった。故に当時の人々は「大河内衆は鞘大豆」といって笑った。打てばすなわち飛んでいくと言う事だ。

坂内萬輔の事

坂内刑部大輔入道萬輔の暗殺は池尻平九衛門尉、天野佐左衛門尉が命令された。田丸の宿所を攻めてこれを囲んだ。坂内家は家臣を呼び集め防戦しようとした。その時に刺客は坂内の侍を頼ってともに謀反のことを進めた。坂内の家来は義を捨てて生き延びようと思いたちまち主君の首を取って差し出した。ゆえに「坂内衆は大豆年貢」と言ってこれを笑った。打って出すからだと言う。

大腹御所の事

大御所(具教)の嫡男北畠左中将信意(具房)は計られて一部屋に押し込められた。この年25歳である。太っていることにより大腹御所と呼ばれた。かの母親は六角氏の娘である。具教は側室を愛し正室をないがしろにしていた。ほかの子らはみな別腹である。故に具教は長野(具藤)以下の子を愛し信意はないがしろにした。さらに(信意は)信雄の養父である。孝行のためだと言ってその命を助けられた。滝川に預けられ河内(安濃郡)に住んだ。後に信雄は尾張で扶持した。その後京都に上がり信雅と名を改めた。今の北畠親顕卿の養父は彼である。哀しいかな、この時によって伊勢国司9代の繁栄も一時に滅亡した。また、波瀬、岩内らも断絶した。以上北畠一族13人滅亡したと言うことだ。ただ、田丸家のみ残された。このとき田丸御所は岩出の城に移り(虐殺の)報を聞いて厳しく用心した。信雄は使者を出してこれを宥めた。

藤方慶由の事

藤方御所の入道慶由はかねてから人質となって田丸にいたが一族の衰運を見て悲嘆の涙に暮れていた。ことに息子の刑部少輔が付議を企て国司を討ったのでこれに怒って「夏には孫が長島の城を落とされ面目を失い、今度はお前が不義をして当家の名を貶めた。主君と言い、一族と言い誰がこれを嘆かないだろうか。報いが来て子孫は滅亡するだろう。ああ、存命してこのような事を見るよりもただ、早く死んで極楽に行きたい」と言った。刑部少輔は「私とて本意ではありません。しかし父上が人質になっているので助けようとして謀反に踏み切ったのです。」と言った。慶由は「お前が暗殺の計画を三瀬に伝え、大御所とともに腹を切り、わしが磔になったら誠に当家の面目、武士の本望というというものだ」と言った。その後、風呂に入ると言って部屋を出、井戸に身を投げて死んだ。その名誉義の心は世を挙げてこれに感動した。そして予言どおり子孫は落ちぶれて大津で旅籠となったがついに滅亡した。また、家老の軽左京進は刑部少輔をそそのかして謀反に踏み切らせ、国司を討った後、程なく重病になり、五体が痺れてついに死んだ。末世とはいえ因果は歴然である。

奥山常州の事

奥山常陸介は国司の討手となり、信雄は三千石の朱印を与えて、誓紙を書かせた。しかし、代々の主君を討たなければならない事を嘆き、忽ち思い直して道で仮病をつかい、朱印を信雄に返して去るとすぐ出家した。国司を殺して後、信雄が奥山を召すと髪を剃り染め衣で田丸にやってきた。信雄はその義の心に感じ三百石の朱印を与えたが奥山は受けなかった。「私は領地を望むものではありません。出家をもって後生への便りといたします。」と言った。その後、仏道を信じ真盛上人開山の西来寺を頼りそのあたりに庵を構え国司の成仏を祈り、一生念仏をして往生を遂げた。

織田掃部の事

家の執事たるものは己の利を失って人の利とし、功を譲って争わない。主君を諌める事はばからなければその徳はその身に帰るものである。であるのに、織田掃部助南勢の奉行となり一族を強制し民を酷使し己の意志に任せて武士を侮った。故にみな彼を憎んだ。このように万事に己を優先するので国司の親族を養ってこれを助けたと言う。柘植・滝川らは讒言をしてこの旨を言上した。信雄はこれを憤り(天正4年)12月15日日置大膳亮に命じてこれを討たせた。折から田丸城の普請があった。掃部助は何の意疑いもなく普請場に来て、下知をするところに日置が寄ってこれを斬り殺した。同じように寄り子・親族は殺され、あるいは追放された。船江の本田左京亮は柘植の詫び言によって許された。彼の庶子本田修理進がしばらく流罪にされるとその所領は天野佐佐衛門尉、池尻平左衛門尉の留任にこれを給い、その後天野は岩内を給わり周防守に任じられた。

具親謀反の事

具教卿の弟、奈良東門院は一族滅亡の知らせを受け、大いに憤りひそかに奈良を出て伊賀国に入り長木の吉原(左京亮)を頼ってしばらくそこに住み、還俗して北畠具親と名乗った。その後密かに三瀬、川股、多芸、小倭の諸侍を頼り謀反を起こそうとした。故に南伊勢の譜代の侍がこれに同心した。三瀬谷には栗谷、唐櫃、江間、大内山、阿曽の山崎大炊助たちである。川股には波瀬、峯、森、乙栗栖、田引、家野、奥村、福本、粟野、閼伽桶、滝野、馬場、五箇、六呂木、波多瀬、山副、ことごとく一味した。長谷街道では菅野谷、三田、三竹左京亮である。小倭では一族七人衆、臼杵、久須美、吉懸、堀山、庄山、岡村、松岡、松田、益田、馬場、重岡、新、満賀野らである。川股谷は元来、東門院家の御領である。谷の者は二心なくこれに従った。これによって波瀬、森は具親を迎え森の城に入れた。峯、鳥屋尾右近将監、家城主水佑らがこれを守った。信雄はこれを討つために三瀬は森清十郎に与えた。川股は日置大膳亮に与えた。坂内は足助十兵衛尉に与え、木戸内蔵助に任せた。小倭は滝川三郎兵衛尉、柘植三郎左衛門尉、長野左京亮に与え各々先陣をした。

紀州退治の事

天正5年の春2月信長親子が諸国の軍を率いて紀伊の国に攻め込んだ。一騎をことごとく退治した。伊勢の4家もこれに従軍にした。このとき、滝川一益は中野城を攻めて武威を振るったと言う。

河俣城攻めの事

天正5年の春、川俣谷滝野有間野村の軍が、鉄中に城を築いて中央に打って出ようとした。故に信雄は滝川三郎兵衛尉、天野佐左衛門尉、田丸中務少輔、日置大膳亮に命じてこれを攻めた。一昼夜攻め戦い互いに武威を振るった。日置・滝川らが各々傷を負ったという。その後、和睦して城を明渡して兵を引いた。また大膳の弟・日置次太夫が大将となり滝野・山副を攻めた。次太夫は策を廻らしこれを攻め落とした。

多芸谷攻めの事

(信雄軍は)その後、長谷街道筋、菅野城に攻め寄せた。菅野方は防戦したが多勢にかなわずついに攻め落とされた。次に三竹の城に攻め寄せた。城主の三竹左京亮は武威を励まして応戦した。故にしばらく落ちなかった。後に和睦して城を受け取った。又、桃俣城を沢・秋山に攻めさせた。(城主の)三田は防戦したがついに攻め滅ぼされた。

三瀬一味の事

三瀬は森清十郎が調略で三瀬左京進らを属さしめ、また川俣の日置大膳亮が調略で赤羽新之丞を味方に引き入れた。一方大内山但馬守は熊野の新宮安房守(堀内氏善)を引き込んであるとき、赤羽に押し寄せて夜討ちしたと言う。その後、自然に三瀬谷は信雄に属した。

小倭一味の事

小倭は、一族侍百人ほどが7人衆をもって大将とし諸所に立てこもった。これは権現(城山比盗_社)の宮司である。滝川三郎兵衛尉、柘植三郎左衛門尉、長野左京亮らが調略でこれを攻めあるいは和睦し侍たちを味方にして自然にこれを退治した。

河股退治の事

各地が信雄に属するとはいえ、河股谷、波瀬の峯以下の河股侍たちが50人ばかり一味同心して具親を奉じて敵対した。日置大膳兄弟は策略を廻らし朝夕合戦を挑んだ。まず、日置次太夫が武威を振るい1〜2日の間に閼伽樋・九曲(つづらくま)の両城を落とした。その後澤・秋山・芳野・船江の本田・三瀬の森らがこれに加勢した。日置兄弟が先陣となり波瀬の峯の城を攻めた。峯は武威を振るって防戦したがついに力尽きて城中で討ち死にした。同じく、峯の弟・乙栗栖二人が生け捕りにされた。故に城はついに攻め落とされ、味方も船江の森菊右衛門尉以下多数が討ち死にしたという。また日置の家臣で聖丸18歳が大いに攻め戦ってよく首を取り傷を負う事17箇所にしてついに死のうとするとき日置はこれを惜しんで気付をし、100石のお墨付きを書くとそれを同僚に壁に張らせ聖丸に見せた。聖丸は目を開いてそれを見ると「花押がございません」と言った。日置はこれに感じて花押を加えた。聖丸は一命を取り留めて後に300石を受けた。

具親退去の事

その後日置は加勢に来た軍勢とともに鳥屋尾右近将監の富永城に押し寄せ、ついにこれを攻め落とした。そして森城(具親本拠)に攻め寄せて戦った。城方の防戦したが味方はことごとく破られ大群に囲まれ叶わなかった。終に北畠具親は森城を落ち、中国に下向して安芸の毛利家を頼り備後国鞆の浦に居住したという。このとき家木主水佑も森城から落ち、河股山に隠れた。追討使は山中を捜しているとき家木は大木の梢に登った。討手がこれを見つけ討とうとした所、家木は飛び降り多勢と渡り合って終に討ち死にした。秋山の家臣上津江新坊が討ったと言う。惜しい事である。この主水佑は童の歌に「長野主水は謡主水 家木主水は槍主水」と言われた者である。その後日置は河股谷をことごとく征伐し城を七日市に作ってこれを守った。元は河股谷は東門院の領地である。故に半分は大和国であった。しかし、日置は武威を振るってこれをとった。故に今は伊勢国である。また伊勢の南北の境に長島がある。南の長島も伊勢であったが熊野衆がこれを取ったため、今は紀州だという。

生捕生害の事

ご本所信雄朝臣は捕らえられた人々を処罰した。まず、峯・乙栗栖を火炙りにした。峯は悪口を言った「これが侍を殺す方法か。行く末も見えたな」。故になお火をかけて焼き殺した。もっとも哀れな事である。同じく田引を殺した。また六呂木、山副、波多瀬の三人はこれを捕らえ本田に預けられていた。六呂木と山副の子、波多瀬の兄は逆賊だった。故にこの三人も殺されるという事だ。中でも波多瀬三郎は15歳の二人とない美男子だった。信雄はこれを惜しんで命を助けようとした。波多瀬は辞退して「三人は同罪です。皆が助けられるのなら忝い事です。しかし私一人が助けられるのであればその面目が立たないので共に処罰してください」と言った。残る二人も諌めて「われわれは年寄りだから惜しむべき命でもない。あなたは早く御意に従いなさい。」しかし、波多瀬は言う事を聞かなかった。また、信雄も許さなかった。終に三人とも殺された。その最後の様は皆が涙を流した。それぞれ磔にされるとき「主君のために命を捨てるのは侍の面目である。」と謡を歌って言葉で戯れ殺されていった。誠に波多瀬三郎は若くても義を重んじて死んでいった、これは賢者の極みである。「勇義は老若に寄らない。勇を表す老兵、義を立てる若兵はこれ家臣の宝ではないであろうか」という。信雄は好んで家臣を殺す大将である。諸将を家臣とするものはその忠義を誉めるのは我が命に代えるためである。故に小罪で殺すのは大損である。天下は一人の天下ではない。これを知る将は運を持っている。およそ家臣たるもの上意には逆らわず殺されてもこれに背かない。その禄を食んでいるからだ。主人は真心で彼の身になって憐れむ事を知るべきである。昔、ある主人が家臣を呼んで「お前は天に上がれるか?」と聞いた。家臣は畏まって梯子をかけ屋根に登りなお天に上る様子を見せてから「私はこれ以上は上れません」と言った。主君はこれに感じて領地を与えた。この主人は愚かではなく、我が命に応じるか否かまた彼の思慮を知るためであった。家臣も賢かった。背かずに承り、知力を働かせて工夫した。だから主人は納得した。奉公は皆この心得である。そうでなければ何故、主人は小さな過ちで殺して勇士を失うだろうか。

玉井生害の事

天正5年、玉井新次郎もまた信雄に背いた謀反人の一人だった。具親没落後、父の兵部少輔、母と共に落ち延びて神戸に隠居していた。信孝が侍に命じてこの親子三人を捕まえて信雄のほうに送った。信雄はこれを憎み三人を櫛田川の川原で磔にした。最後のとき父の兵部少輔は子の新次郎を呼んで「お前が謀反に与し今主君の為に命を捨てるのは侍の面目である」と言った。これを誉めて三人は水で酒宴を開き、互いに杯を飲んでついに殺されたと言う。その死体其々の足袋に金子がしこんであった。風が吹き音を出すので住民が怪しみその金子を拾って僧に頼んで供養を願ったと言う。