勢南兵乱 巻5

大河内城の事

伊勢国司北畠中納言具教卿、永禄末頃に織田家を防ぐためにまず御殿を飯高郡細頸に建て、後に城郭を同郡大河内に建て嫡子信意(のぶおき、具房の事)にこれを譲った。大河内御本所と号した。具教は隠居して入道し、不智と号した。この時、大河内家は多気郡大淀に移った。しかし、工藤家が織田に与したことにより今徳奥山方、小森上野藤方家、織田掃部助と合戦をした。ゆえに国司家の軍が北方に進軍し合戦をした事は数度であった。

勢南篭城の事

永禄12年春正月、織田信長卿は勢州南方を攻めようとした。これによって同9日伊勢の国は騒動した。日置大膳亮は他所が焼け落ちるのを見て自ら細頸を焼き大河内に入城した。ゆえに南方の諸家は諸城に立て篭もった。まず大御所黄門入道不智、御本所信意親子は大河内城に立て篭もった。これに従う諸家は次男長野御所、その他の一族は田丸御所、大河内御所、坂内御所、波瀬御所、向御所、東御所、大坂御所、八下御所、薗御所、森本飛騨守、子息彦十郎、方穂民部少輔、林備後守、子息新丞、侍大将は鳥屋尾石見守、子息与左衛門尉、鳥屋尾右近将監、水谷刑部少輔、子息藤次郎、阿保若狭守、子息大蔵少輔、岸江又三郎、安保右馬允、磯田彦右衛門尉、佐々木源左衛門尉、今川左馬允、野呂左近将監、山本左馬助、長野九郎左京亮、朴木隼人正、日置大膳亮、玉井兵部少輔子息新次郎、星合左衛門尉、稲尾勘解由左衛門尉、同与四郎、家城主水佑、石橋治部太夫、田上左衛門太夫、榊原弥四郎、山崎式部少輔、真柄宮内丞、同修理進、久保三河守、杉山菅右衛門尉、山室十郎左衛門尉、服部孫次郎、柴山長九郎、水野勝次郎、大西平三郎、三瀬蔵人、三竹五郎九郎、大内山但馬守、山崎大炊助、阿曽弾正忠、下村仁助、潮田長助、神戸治部入道玄務、熱田源兵衛入道玄斎、そのほか小胡曽方、出江方、湯原方、宮田方、県松井方、須賀佐波方、志貴湯浅方、神條中村方、寺卿王相方、黒田中津方、菅瀬渡邊方、伊勢寺久瀬五郎左衛門尉、牧野方、加藤方、広田、佐藤、江馬、唐櫃、明豆、栗谷、峯、森、乙栗栖、田引、家野、奥村、福本、粟野、赤樋、滝野、馬場、五箇、六呂木、波多瀬、山副、谷、三田、満賀野、新、岡村、福田山、臼杵、吉懸、堀内、久須見、堀山以下南五郡の兵である。城の外構えに柵を二重に作り兵糧を蓄え堅固にこれを守るという。

南方諸城の事

また、(織田軍の進行する)道においては、今徳山城は奥山常陸介がこれを守る。小森上野城は藤方御所がこれを守る。木造城は木造御所が守り、八田城は大田和兵部少輔が守り、阿坂城は大宮入道がこれを守り船江城は本田右衛門尉が守り、曽原城は天花寺小次郎が守り岩内城は岩内御所が守り、諸侍がこれに与力した。しかし、三好一党が畿内で叛乱したので信長はまず京に攻めあがった。ゆえに勢州を攻めなかったという。この時、国司足利及び織田家に対し和睦を行っていたら子孫繁盛したものを政道を知らなかったため遂に滅亡に及んだ。

木造謀判の事

同年5月木造家父子(具政、具康)謀反によって伊勢国は騒動した。この木造御所は北畠三位中将晴具の子で具教卿の実の弟である。木造家の具世(俊茂)は顕俊の七世孫で晴具の妹婿であったが女子だけで男子がなかった。これにより晴具の子を養子として木造兵庫頭具政とした。この具政も正室との間に男児がなく、側室の子に木造の家督を譲り木造左衛門佐具康とした。その後、具政は戸木に住み、戸木御所と号した。にもかかわらず、今連枝の誼を忘れ、少しの不満をもって謀反を企て北畠氏を離れて織田の幕下に入った。源浄院玄主は出家ではあるが文武に通じ、天下の政道を察して木造家家老柘植三郎左衛門尉に相談し遂に木造家をいさめ、逆心を企てたものである。源浄院は木造俊茂の庶子である。後に還俗して羽柴下総守雄親と名乗って、天下に現れたものである。

木造合戦の事

木造家は国司宗家と断交した。それ故に国司家はこれを憤り、木造を討伐しようとした。まず、木造家家老柘植三郎左衛門尉の人質を殺した。9歳の娘を母子ともに捕らえ、本田方(美作守)がこれを預かっていた。その家臣中西甚太夫、木造の近辺雲出川に連行した。中間が宿に行き、これを謀って出す時にこの娘は大変美しく、また賢かったのでどうなるかを悟り母に向いて涙を流し「来世でお会いいたしましょう」と暇乞いした。見る人に落涙しないものは無かった。中間これを背負って処刑場に来た。中西は、縄を首にかけ掛け声とともにこれを締め、大木をとがらせてこれを串刺しにして木造城に向けて磔とした。これを見る父母の心中は推量するのも哀れである。その後沢、秋山以下国司軍が木造城に攻め寄せ、合戦は数度に及んだ。木造城より海津喜三は鉄砲の名人でありこれが撃つと寄せては毎度逃げ崩れた。秋山侍の坂甚次郎以下多数が討ち死にした。そのころまで鉄砲は多くなかったと言う。特に木造・戸木は屈強の城である。北方の織田掃部助がこれに荷担し、工藤、関、滝川は一味である。これによってすぐに攻め落とす事は出来なかった。

信長発向の事

同年八月二十日、信長は桑名に出て密かに美濃、尾張、伊勢、近江の兵を集めた。その軍勢都合七万である。信長は鷹狩と称して1〜2日山野の難易を伺い、南方に襲い掛かった。これはその不意を討つためである。大将が鷹狩をするのは鳥を捕まえるためではない。野山の難易を探り民の労苦を知るためである。ゆえに大将はこれを行っても、兵はこれを行わない。23日信長は先陣の滝川・関をもって小森上野城を抑え、織田掃部助・長野をもって今徳山城を押えて軍勢を通した。藤方御所や奥山常陸助は忠義のために一戦しようとしたが信長はこれを攻めなかった。木造城に入って1〜2日軍議を開いた。26日信長は木造城を出て源浄院主玄、柘植三郎左衛門尉を案内とし山際に進むと民家に放火した。先方は八田城を囲もうとした。大多和兵部少輔は防戦しようとした。その朝に霧が降りこれが晴れずに敵の所在がわからなかった。ゆえにこれを攻めなかったと言う。

阿坂城攻の事

信長は使者を出し、国司方の阿坂、岩内に対し和睦しようと試みた。岩内御所は「大河内城の考え次第である」と返事した。阿坂は和睦に応じず、ゆえに先手を引き返させ27日阿坂城を囲んだ。城主大宮入道、その子大之丞、同じく九兵衛尉、ならびに沼田某、澤衆の澤大炊助、河合三郎兵衛、樫尾、横山以下、淨眼寺を焼き払って敵を待った。敵を入れないためである。この寺は大空(玄虎)和尚の開山で、国司家の菩提所である。また元々この山は名山であり、袖岡山と言う。古歌に言う「三渡の裾に流るる涙川 袖岡山の雫なりけり」はこの山のことである。織田の先陣木下藤吉郎秀吉が阿坂を囲んでこれを攻めた。城中はしばらくこれを防いだ。大宮大之丞は大力の弓の名手であったので次々に矢を放ち寄せ手は近づけなかった。秀吉も左肘を打たれたという。しかし、大勢は如何ともしがたく、大宮家の家老、源吾左衛門尉、同條助二人が心変わりして火薬に水を注いだ。ゆえに大宮入道は降伏し城を明渡して落ちた。信長は滝川勢をこの城に入れて守らせたと言う。

船江打出の事

元来、南勢への通路は舟江通りである。故に本田が船江城を守るのに加勢したのは小原冷泉(国司客殿)方、名張北村(仁蔵)方、同西岡(団之助)方、ならびに弓一揆、十文字一揆両一揆の一手一揆である。(木造城での)戦評定の日、渋見城主乙部兵庫頭が進み出て「船江は屈強の兵が詰めており容易に落とせないだろう」と述べた。船江は秋山の所領であり諸侍の会所である。本田美作守は乙部の婿である。その子、小次郎親康が幼少であるによって、伯父の右衛門尉がこれを後見した。これによって信長はその枝(船江城)を措いて、その本(大河内城)を討とうとして山際に迂回して軍を通過させたと言う。去る26日夜、阿坂城を攻めようとし先鋒を呼び戻した時に船江の本田勢の森、中西、山辺、高嶋、公門、斎藤以下が曲と深長の間、小金塚に打って出て、信長勢を蹴散らして首を少々取ったと言う。これにより船江勢強しと言う評判を得た。翌27日夜、信長軍が大河内城に寄せる時に船江衆は先日のように小金塚に打ち出で、これを遮った。信長軍はこれを予測し迎え撃った。ゆえに本田勢は敗れ一志郡の住人長藤十郎左衛門尉、その子善四郎、薬師寺法清入道以下数人が討ち死にしたと言う。不意を打つ時には利があるものである。この夜の夜討は船江衆の不覚である。山辺次郎右衛門尉はこれを止めたが、公門六郎右衛門尉が昨夜の夜討に出られなかった事を悔い、このようにしたと言う。また、東海船手衆(九鬼派海賊衆)が船から上陸したところを船江本田衆、曽原天花寺衆が黒部においてこれを夜討ちしたという。

大河内攻めの事

28日、信長軍7万あまりが大河内城を囲んだ。大河内城は七丘七谷の地にあり、南を大川内という。野津と言う。大木が茂り、大竹が生え、追手門を広坂といい、北にある。搦手門を龍蔵庵坂と言い、南にある。西に養徳寺があるが、これを火矢で焼いた。東に大河内川がある。信長軍は四方の山に陣を置いた。本陣は東の桂瀬山である。只恋山とも云う。その夜池田勝三郎信輝、広坂口、市場宿に攻め寄った。日置大膳がこれを受け持ち諸侍がこれに加勢した。池田の先鋒・土蔵四郎兵衛尉、八木篠右衛門尉が鬨の声をあげて攻め寄せた。日置は防戦し家城主水佑が群を抜き槍を合わせ手柄を立てたという。合戦は数刻に及び日置は城中に引き上げた。29日朝から大河内城の四方を囲みこれを攻めた。敵味方弓鉄砲が疾風雷雨のようであり、この日より城中城外武威を争い、数日戦ったが落城しなかった。信長は見張りを立て馬防柵に措き、昼夜用心して夜討を防いだという。

船江夜伐の事

国司(具教)はかねてから城外の味方に下知を出し、信長軍を夜打ちしようとしていた。しかし大軍を恐れ、これを撃つものが無かった。船江の溢れ者たちだけが9月上旬、丹生寺に攻め寄せた。これは市場、寺井の北であり美濃国大柿城主氏家常陸入道ト全の陣である。夜更けにいたって不意に打ち入り火を放ち、鬨をあげて攻め寄せた。故に氏家勢は追い立てられ蜂屋般若助らが名乗りをあげて戦うが高嶋椋右衛門のために討ち取られた。そのほか大垣衆の強物36人が討ち死にした。船江衆はその首を取り、勝鬨を上げて引き返した。

搦手夜討の事

9月下旬、信長は戦術を変更しようとし、南の方に陣をひく味方に命じた。池田勝三郎信輝、丹羽五郎左衛門尉長秀、稲葉伊予入道一鉄らが搦め手に攻め入り、夜討しようとした。三大将以下の諸侍は闇に紛れ、密かに龍蔵庵口に入り、朝日(孫八郎)の陣所から二の丸に入り、鬨の声をあげた。これは信長勢の失敗である。本丸と勘違いして鬨を上げたのだという。国司勢はこれを聞いて本丸から松明を投げ弓鉄砲を次々に打ち込んだ。攻め手は的になり次々に打ち倒されて死人が山のようになった。その後門を開いて日置大膳亮、安保大蔵少輔、家城主水佑、長野左京亮以下の侍が槍を持ち、太刀を振りかざして合戦に出て各々手柄を上げた。敵味方入り乱れてしばらく黒煙を立て、数刻後に両勢は引き上げた。このとき信長の侍大将朝日孫八郎以下13人、そのた屈強の侍が多数討ち死にしたと言う。その夜、城方の空円入道は策士であって、敵の情勢を見て門を開いて「老兵は進退が遅い、若武者ばかり早く攻めかかり早く引き上げよ」と策を与えた。侍が打ち出してから門を閉め、時を計って軍を引かせた。その時、敵味方を確かめるために合言葉を使った。「立勝、居勝」を用いて敵が入るのを防いだ。国司はこれに感じたと言う。

魔虫谷合戦の事

ここに滝川左近将監一益は10月上旬に信長の陣に行き、この程度の城に日数を掛けて攻めると言うのは無念のきわみであります。私が一戦挑みましょう。と言い伊勢衆を引き連れて、西の魔虫谷から攻めあげた。城中からは弓鉄砲を打ち出して隙も無い。滝川勢はことごとく撃ち殺されて人馬で谷を埋めた。しかし、一益はこれを潔しとせずに攻めあがり次々と塀に来て乗り越えようとした。城中は予てから、数万の竹槍を作りその先を尖らせ、油を塗って火で炙ったものを持ち、敵を突き捨て投げ捨てた。寄せ手は傷を負い、谷底に落とされ、また起き上がって攻め上る。城からは隙無く竹やりでこれを突き落とす。滝川はこらえかねて軍を引き上げた。

諸木野弓の事

ある時、信長の本陣桂瀬山において兵が一人、松の大木に登って「大腹御所(具房)の餅食い」と叫んだ。城方はこれを憎み、精兵に命じてこれを撃とうとした。その頃、大和の秋山の家来に弓の名手が三人居た。諸木野弥三郎、秋山萬助、秋山志摩助である。その中でも諸木野を召し出だし、これを命じた。諸木野弥三郎はこれに受けて大弓に矢をつがえこれを撃った。その矢は4、5町を射渡して人と松をともに射抜いた。信長もこれには感心し矢を抜いて城中に送ったと言う。敵味方共にこれには感じ入ったと言う。

国司和睦の事

信長は城を囲んで数日を送った。城中に謀反を促したが心変わりしたものは無かった。ただ、野呂左近将監一人がこれに応じたが陰謀はたちまち露見して城中で討ち取られた。それならば、兵糧を絶とうとして50日にわたって囲んだ。国司の家老鳥屋尾石見守は文武を兼ねそろえた知略の深い(軍師であった。)。全てにわたり私心を捨てて人を立てる二人といない執権である。あらかじめ兵糧攻めを想定し初日から全軍に粗食を食べさせ国司親子も同じ物を食べた。故に兵糧は尽きなかった。信長はこれを聞いて和睦して事を治めようとし織田掃部助を使者に立て「信長の子を国司(具房)の養子にする。兵を引きましょう。」と告げさせた。国司家はこれを評議し「これは人質をとることである」と言った。故にこれに同意した。朴木隼人正を使者として10月下旬に和睦した。敵を平らげる事は和睦に勝てるものは無い。故に「戦に勝つには和を用いる事であって、兵の数ではない。」と言う。

信長参宮の事

その後、信長は分国全ての関所を止め、この次に伊勢参宮を実現した。宿坊は堤大夫である。しかし、福井大夫がこれを恨み内宮参宮のとき密かに織田家中の信者を頼り、参宮からの帰り自分の宿所に迎えた。堤大夫がその陰謀を告げた。これによって福井の館は攻められ福井は山田を出て謹慎した。その後、信長が岐阜城に帰るとき船江の溢れ者達が三渡で迎え撃ち鉄砲を少々撃ち掛けたという。

国司養子の事

このとき、信長の次男茶筅丸が北畠氏の養子になった。12歳であった。織田掃部助を南勢の奉行とし、生駒半左衛門尉・林豊前守・足助十兵衛尉・小崎新四郎・安居将監・林与五郎・天野佐兵衛尉・池尻平左衛門尉・津川源三郎・土方彦三郎以下(尾張侍)を付け、養子に出した。茶筅丸はまず船江薬師寺に入り、滝川左近将監一益を淨泉寺に宿をとり、50日ばかり逗留し万事を仕置きした。その他の侍もみな船江にいた。国司親子は船江城に入り、茶筅丸と祝儀お目見えがあったと言う。

一国平均の事

信長の武威は天下に振るい、諸国を平らげた。秦の始皇帝が六国を合わせたときのようであった。今、勢州一国を治め次男茶筅丸に大河内城を守らせ国司勢がこれに与力した。三男三七丸に神戸城を守らせ関一党がこれに与力した。弟上野介に安濃津を守らせ長野一味がこれに与力した。家臣の滝川一益に長島を守らせ北方諸侍がこれに与力した。一益は初めて検地を行い、諸侍の領地を改めた。その後、諸家がこれに習い諸国で検地したという。一頃、信雄と信兼が伊勢国の南北境を改めるとき雲出川でこれを定めようとしたが、ある老人が進み出て「古歌に『風早の池の流れの下たりは 安濃と一志の境なりけり』と申します」と言った。これによってその境界争いは治まったという。

滝川柘植の事

信長は源城院主玄と柘植三郎左衛門尉を茶筅丸につけた。このとき源城院は還俗して、一益と同じ名となり滝川兵部少輔に任じられ、しばらく滝川家にあった。後に信雄を奉じ滝川三郎兵衛尉と号した。羽柴下総守はこれである。柘植の方は元々伊賀の住人で弥平兵衛宗清の子孫である。伊勢に来て木造の家老となり、今、武芸の士であるによって信長はこれを愛し茶筅丸につけられたのである。

曽原篭城の事

永禄12年12月信長は、織田掃部助に命じて南方の諸城を破却しようとした。掃部助は稲生勘解由左衛門尉を案内人として、まず船江の城から櫓を崩し、塀を破る旨を布告した。この使いが曽原城に来てこれについて告げたとき、天花寺小次郎はこれを用いず、伊賀衆に命令して稲生方を撃ち殺させた。天花寺勢、曽原七郷、伊賀衆50人が篭城した。これに加えて家城主水佑以下諸侍がこれに加勢した。再び勢州は騒動になった。翌元亀元年、国司勢は出城を作ってこれを攻めた。この騒動で1つの城も破れなかった。

却って、潮田長助らが城を四五百森に作った。この山は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と読まれている。これはこの山の事である。しかし潮田は大乱の時に城を作らず、今城を作った。「後の祭りよ」と人に笑われた。彼の父潮田角助は大力でその名を天下に響かせた。太った牛の足を取って道から退け、大木を曲げて腰掛け、竹をへし折って帯にし、扉で流れをふさいだと言う。その後天花寺は富んでいたので兵糧を多く蓄え、三年も城を守った。故に曽原は多くの兵の死に場所となった。

曽原城の事

元亀二年夏、国司具房が船江に出兵した。織田、国司軍が曽原を囲んだ。家城主水佑は無双の勇士であるが主君に弓を引くことを恐れ心変わりして国司方に付いた。敵をこれを打とうとして城から打って出て弓、鉄砲を打ち込んだ。家城は船江侍を頼り、高嶋椋右衛門・森甚右衛門二人で敵を防いだ。高嶋は弓を持ち森は鉄砲を持ち矢玉が尽きるまで戦った。追う敵も同じように同じように鉄砲を撃った。弓を持つ敵は高嶋と決着がつかなかった。家城が計って言うには「しばらく矢を射るな。」敵の矢が降ってきて高島の弓にあたった。敵が逃げると家城これをみて言うには「矢が武器にあたった者は死なない。敵中に進んで戦え」その後、曽原城に攻め込み天花寺は遂に滅亡した。勇心を励まし一人主君にそむき、後の災いを知らずして自ら滅亡した。真に思慮のあることである。