信長出張 第四

信長出世の事

正親町天皇の御世、永禄末年ころ、美濃国織田上総守(介)平信長が伊勢国をとらんと思い滝川左近将監大伴宿祢一益を大将として勢州に向けた。この信長は平相国清盛の末流、尾張国織田備後守(信秀)の嫡男、幕紋は瓜である。織田(と言う地名)は越前に在る。平氏の子孫が織田明神の神主となった。その後斯波武衛家に仕えて尾張に住み、子孫繁盛したと言う。斯波家滅亡の後信長の武威は強大になり、まず一族を討ち尾張を統一、次に駿河国今川義元を討ち、自然に三河遠江を取り、次に美濃国斎藤右兵衛大夫藤原龍興を滅ぼして美濃を取る。尾張清州城から美濃稲葉山城に移り、これを岐阜城と号した。

滝川出世の事

滝川左近将監一益は景行天皇の後胤、伴四郎{仗資兼の末孫、幕紋は木香の二引両である。元は近江国甲賀郡大原の住人である。悪逆をなして在所を追われ浪人し尾張に来てはじめて信長に仕え、武略で忠勤に励んだ。ゆえに蟹江城を賜り尾張西南・長島等を給わった。伊勢攻めの先鋒を命じられ尾張境の長嶋・桑名邊、美濃境の大藪・多度邊に攻め込み北勢諸侍に対した。あるいは攻め、あるいは懐柔して武威を振るった。ゆえに桑名、員弁両郡の木股、茂福、上木、白瀬、濱田、高松以下自然に織田の幕下に入った。

信長出勢の事

永禄10年、織田信長美濃尾張の数万の軍を起こし勢州桑名表に出陣した。南部、加用、梅津、冨田以下、みな織田に服属した。その後、楠城を囲んだ。楠家(楠貞孝)防戦するも叶わず降参して先鋒の案内者となった。次に信長は神戸の家老、山路弾正の高岡城を攻めた。山路は防戦した。信長は部落に攻め込むと必ず放火した。これによって敵は混乱すると言う。ゆえに「戦に勝つ事夜討に勝るものは無い。城を落とすこと放火に勝るものは無い」と言う。時に美濃で西方三人衆氏家、稲葉、安藤逆心があった。これにより信長滝川を伊勢の押さえとして伊勢衆をつけ北伊勢に残し美濃に引き返した。安藤伊賀守武田信玄と一味して謀反のときである。

神戸和睦の事

永禄11年春2月信長は4万の大軍を率いて伊勢に再侵攻した。千草、宇野部、赤堀、稲生以下この幕下に入った。信長は再び高岡城を攻めた。神戸家は神戸上に篭城し抗戦しようとしたところに、信長謀略をめぐらし高岡の本陣から使者を出し神戸友盛に言った。「あなたと私が和睦するならば、我が子と養子に差し上げましょう」神戸家には男子が無かった。これによって和睦した。養子婿を要れて国を乗っ取るのは大変利口な手段である。このとき神戸蔵人(友盛)礼のために織田の陣所に入った。尾張の侍は日ごろから神戸の武威を伝え聞いており、こぞってこれを見たという。神戸家の一味によって信長はさらに謀略をめぐらし関一党を信長の家臣にしようとした。ゆえに峯、国府、鹿伏兎以下、織田に一味した。しかし宗家の亀山関家のみは六角の一味だといって敵対した。神戸家は友盛の叔父円貞房を六角家に人質に出していた。神戸の逆心に怒った六角承禎は円貞房を塩攻めにした。円貞房はこのために狂人として神戸に迷い込んだ。彼は神戸楽三の末子で元は福善寺の僧であったと言う。

工藤一味の事

織田信長はすでに伊勢国北方を治め、その諸侍を案内役に工藤家を滅ぼすために、ただちに安濃津に至り、まず、細野城を攻めた細野九郎右衛門尉は工藤家における剛の者である。武威を振るって防戦した。ゆえに即座に打ち破る事ができなかった。そうしている時にその弟、分部左京亮・川北内匠助が長野家にそむき信長の幕下に入って長野宗家の跡目を請い、長野家(北畠具教次男、具藤)を追い出そうとした。これにより信長は弟の三十郎信包を長野家に入れた。分部・川北は謀をもって諸家を和睦させようとした。ゆえに、雲林院、草生、家所、細野、乙部、中尾以下工藤一族与力被官ことごとく織田に下り、長野具藤を追い出した。次郎具藤は父国司を頼って南勢に逃げた。またその後、関安芸守盛信が信長に降ったと言う。

神戸養子の事

織田信長は武威によって北伊勢八郡の北方侍・関一党・工藤一味はその幕下に属した。信長は三男の三七丸を神戸の養子とした。11歳であったため、幸田彦右衛門尉を守役とし、その他岡本太郎右衛門尉、坂仙斎(三七生母の父)、三宅権右衛門尉、坂口縫殿助、山下三右衛門尉、末松吉左衛門尉、立木、河村以下の侍を添えてこれを入れた。後には神戸友盛の婿となり、神戸三七信孝と号し、関、峯、国府、鹿伏兎らを与力とする。

長野名跡の事

信長は弟三十郎を長野家の名跡にし、まず奄芸郡別保上野城に置き、尾張侍を多数これにつけた。後に神戸蔵人の姉婿になり長野上野介信兼(包)と号し、雲林院、草生、家所、細野、分部、乙部、中尾、川北等を与力とした。その後、信兼の侍をもって、長野の同名にしたものが四人いる。長野与五左衛門尉、長野孫左衛門尉、この二人は信兼の家老で尾張侍である。また信兼の扈従斎藤次郎を長野次右衛門尉に任じた。これも尾張侍である。分部左京亮の婿はこれである。また、津の住人乳切尾新四郎も長野を給わって長野九右衛門尉に任じられた。後に、家康に奉じた長野内蔵允はこれである。

滝川一益の事

また、信長は滝川左近将監一益を勢州の奉行とし、かねて西尾張長嶋、河内を給わり千草、宇野部、楠、赤堀、稲生、南部、加用、梅津、冨田、上木、白瀬、濱田、高松、木股、茂福らを与力とした。かの滝川一益は武芸に達し、知略深いがゆえに自然に出世しその名を得た。常に戦に臨むとき、諸侍の討ち死にが伝わると「そのために今日まで扶持してきた。ただ死ぬべし」といった。その後僧に供養させ、必ずその死を弔った。また、罪によって人を殺す事が少なかった。

南方に押えを置く事

また、信長一族の織田掃部助を南方の押えとし、安濃津の城に入れた。伊勢をこのように仕置きして信長は岐阜城に帰った。その後織田掃部助は今徳山の城を攻めた。城主の奥山常陸介元来剛の者であり、勇戦して落城しなかった。また国司家は今徳山を、工藤家は津を助け数度合戦に及んだ。

信長執権の事

織田上総介信長は武威をもって美濃・尾張・伊勢・三河・遠江の五カ国を治め、天下を取ろうと欲した。時に足利左馬頭義昭は朝倉家を頼り三好家を滅ぼそうとして、越前に居た。しかし朝倉家は遂に同心しなかった。義昭は信長の武威が天下に逞しい事を聞き、ひそかに信長を使者を出し信長に頼った。信長はそれを受け入れた。これにより永禄11年7月越前から美濃に移った。

信長上洛の事

信長はまず、近江を配下に加えてから上洛しようとした。江北の浅井備前守長政は信長の妹婿になっており一味同心した。六角家は和睦を用いず、すでに断行している。「成人は物にとらわれない」、まず、和を用いれば長くその家は栄えるものである。是により信長は9月に美濃、近江、伊勢の滝川、関一党ら5万の軍を起こし近江に攻め込んで六角家を滅ぼした。六角左京太夫入道承禎、子息右衛門督義弼、同次郎左衛門尉定頼遂に観音寺城を落とされて滅亡した。信長はしばらく観音寺城に入って兵馬を休めた。江南の諸家は城を開き降参した。進藤・後藤・青地・池田・小河以下ことごとく織田の幕下に入ったその後信長は京に攻めあがり三好家を滅ぼし五畿内を平らげ足利義昭を将軍にした。

蒲生賢秀の事

このとき、信長は日野の蒲生家とも和睦しようとした。しかし蒲生家は六角家に義理を立てて応じなかった。下野入道快幹、子息左兵衛大夫賢秀は日野城に立てこもった。神戸蔵人(友盛)が日野に行き、蒲生家を説得して信長の幕下とした。賢秀の子息鶴千代丸当年13歳が人質となり観音寺に来て信長に謁見した。信長は鶴千代の目を見て「この子は目が非凡なものではない。必ず武芸のものになる。我が婿にしよう」と言った。その通り、翌年9歳の姫を賜り祝言終えて後元服、蒲生忠三郎氏郷と名乗った。