巻十二 秀吉治世

勢州守護の事

羽柴秀吉卿は武威をふるって信雄卿の領国を治め、天正十二年夏の頃諸大名にこれを分かった。まず大和国郡山城はかねて羽柴美濃守秀長に与えた。伊賀国上野城は筒井順慶に与え、志摩国鳥羽城は九鬼大隅守嘉隆に与えた。北伊勢神戸城は生駒雅楽頭に与えた。ならびに峯、千種、国府、楠、宇野、赤堀、南部、加用等である。南伊勢は木造分、小倭分、小森上野分等は織田上総守信包に給い、そのほか南方の松ヶ島城は蒲生飛騨守氏郷に給う。並びに南方田丸城は田丸中務少輔具直に与え、北方亀山城は関長門守一政に与えた。関、田丸の両人はともに氏郷の妹婿として蒲生家の与力である。また大和国三人衆、澤源六郎、秋山右近将監、芳野宮内少輔同じく与力した。並びに津川三松、神田修理亮、中村仁右衛門尉等も氏郷に預けられた。六月十三日、氏郷は近江日野城から松ヶ島城に入った。船江の本田はこれに属し、河股城は生駒弥五左衛門尉がこれを賜って攻め落とした。日置次太夫は尾張に退いた。

蟹江城攻の事

瀧川伊予守一益、富田左近将監そのころは平左衛門尉と号していた。この二人をもって秀吉は戸木城の抑えとし、木造城の見張りとした。ここに瀧川は謀をめぐらし尾張蟹江城をとって尾張表に働こうと望んでひそかにかの城主前田与十郎を頼った。好によってこれに同心した。また九鬼大隅守に働きかけた。六月十六日の夜、両勢二千ばかりが大船に乗って尾張にわたった。瀧川勢が半分蟹江城に入るとき、何者かは知らないが酒屋に入り火を放って二・三十軒焼き払った。徳川家康は清州でこれを聞き急いで蟹江に押し寄せ海を固めて瀧川勢を入れなかった。数刻鉄砲戦がありその後城を囲んだ。十九日櫓に上がり弓鉄砲を放って火矢を打った。夜になって鉄砲つるべ打ちがあった。城中もこれに打ち返した。このとき九鬼はひそかに船に乗り満潮を考え落ちた。間宮はこれを見つけ防ごうとした。九鬼の侍村田七大夫は鉄砲で間宮を打った。その間に九鬼は船を出した。ただし相差方が鉄砲にあたって討ち死にした。また山田の住人綿屋平六兵衛九鬼に伴われてこの陣に来た。元来大剛の者であったがどうしてか退くのが遅れた。敵のためにつかまり首を切られようとしていたところ平六兵衛は詫びて「私は山田の者です。今一度大神宮を拝み最後のお暇をしたい」といった。皆がこれを許した時に平六兵衛手水のために波際に行き海に飛び込み底を潜って遥かの沖に浮かび上がると悪口を言い泳ぎだした。尾張衆は船を浮かべて追いかけた。敵が近づけば水中にもぐり船の下に息を継ぎ難なく泳いでついに山田についた。前代未聞の高名である。その後瀧川並びに前田はついに事後の処理を決定して城を渡した。二十七日瀧川は木造に来たが富田は謀略で来たのかと思い入れなかった。瀧川は越前国五分一で死去したという。また蟹江城は信雄は林与五郎に与えた。

戸木城攻の事

織田上野介が拝領した木造家の城はいまだ渡されなかった。戸木、野辺、木造等の者は戸木城にこもり戦に及んだ。また小倭七郷の者もいまだ籠城を辞めなかった。故に織田、蒲生の両家は木造退治のために出城を築いた。氏郷の曽原城は上坂左文、須賀城は坂源左衛門尉、八太城は生駒弥五左衛門尉、小河城は谷崎忠右衛門尉がこれを守り、信包の小森上野城は分部左京亮、半田神戸の城は中尾内蔵允、浄土寺城は守岡金助、連部の家所家、これは信包の婿である。また信包は林城を作りこの織田三十郎を入れた。のちに民部少輔に任じられた。然るに木造家は秋になるとその兵が田を刈ろうとし諸所で戦した。木造家一人敵中にあり。織田、蒲生の両家と戦い最も勇将の至りである。七月十二日木造左衛門佐具康、須賀表に討って出ると坂源左衛門尉と渡り合い合戦に及んだ。木造家は少々傷を受け引き退いたという。またその後木造家の兵は八太表に討って出た。生駒弥五左衛門尉は加勢を請いこれを待つところに敵は来なかった。このように諸所で出城戦があった。

小倭城攻の事

一志郡小倭の住人岡村修理亮、氏郷の味方になり出馬を促した。これによって蒲生飛騨守は八月十四日数千の兵を率いて小倭表に出陣した。伴には後藤喜三郎、青地内匠助、小倉孫作、関勝蔵、上坂左文、弟五郎兵衛尉、坂源左衛門尉、生駒弥五左衛門尉、谷崎忠右衛門尉、和田左近将監、儀俄忠兵衛尉、小谷越中守、河井左衛門尉、赤佐四郎兵衛尉、町野左近将監、同主水佑、稲田数馬助、上野田主計助、北川平左衛門尉、横山喜内、森民部丞、岩田市右衛門尉、本田三弥、安藤将監、細野九郎右衛門尉、、神田清右衛門尉、中村仁右衛門尉、門屋助右衛門尉、梅原弥左衛門尉、寺村半左衛門尉、結解十郎兵衛尉、外池甚五左衛門尉、同孫左衛門尉、岡左内等である。まず氏郷は口佐田城を囲んだ。軍が塀際に至ったとき敵が青地の兵に攻めかかり合戦になった。氏郷は近習に命じてこれを助けさせついに追い崩した。しかし、和田亀寿丸、岡田甚兵衛尉、池内雅楽等討ち死にした。その後、諸方から攻め入ってこれを破った。敵は悉く討ち死にし大将森長越前守は引き退いた。城主吉懸入道の首は八角内膳佐が取った。その子吉懸市之丞は敵中突破して引き退いた。志賀与三右衛門尉、よく首を取ったという。そのほか首は百ばかり取った。次に氏郷は奥佐田城を囲んだ。先手の上坂左文、坂源左衛門尉、関勝蔵等が攻めようとしているところに北畠具親が伊賀国から駆け参じ、安保大蔵少輔を使いとして和睦を整えた。氏郷はその意に服して城を受け取った。城主の堀山次郎左衛門尉は城を開いて引き退いた。そのほか小倭衆皆これに属したという。

菅瀬合戦の事

その後北畠具親は戸木城に和睦を勧めた。木造家はこれを用いなかった。侍らは時々苅田に出てきた。氏郷は軍を各地においてこれを防いだ。もし木造が出てきたら合図の鉄砲を放て、自身が出向いて勝負を決するといったという。九月一五日夜、木造の侍、田中仁左衛門尉、畑作兵衛尉、金子十助、中川勝蔵、天花寺勘太郎、畑千次郎らが四・五〇〇人で小川表に出てきて雑兵は米を刈り、侍はこれを守った。氏郷軍はその近辺にいたので侍や民はこれを見つけ弓鉄砲を撃ちかけ叫んでこれを防いだ。木造勢も同じく弓鉄砲を撃った。しばらく黒煙を立て後には乱れあって槍を合わせ太刀を打った。戸木勢は猛威を振るい氏郷軍を追い崩し、外池長吉以下を討ち取り、勝鬨を挙げて軍を菅瀬に向かった。氏郷は松ヶ島城にあって合図の鉄砲を聞いて即座に討って出た。門外でただほらを吹き人数もそろえずわずかに小姓七・八騎を率いて家臣らはおいおいかけ向かった。外池孫左衛門尉は小川から出て敵は早くに菅瀬に退いたことを伝えた。氏郷は聞くが早いか直ちに菅瀬に攻めかかり、鬨を挙げて戦いを挑んだ。岩田市右衛門尉、弟平蔵、岡儀大夫、弟半兵衛尉、小村弥五兵衛尉、菅沼助右衛門尉、野田亀之進らが槍を引っ提げ突きかかった。氏郷の鯰尾の兜に鉄砲を充てられること三度であった。外池が矢面に立って防いだ。その後木造勢は大将とみてこれを討とうとした。畑、田中、金子、中川以下声々に名乗って槍を掲げもち厳しく槍を合わせ火花を挙げて切りかかった。氏郷の鎧にも槍傷が数多くあったという。中村勝蔵一八歳氏郷を太刀を合わせ傷を負った。しかし、氏郷勢は次第に増援が来て七・八〇騎になり、ついに木造勢は敗走した。氏郷の軍はこれを追い打って手柄を立てた。木造侍の畑作兵衛尉、天花寺勘太郎、畑覚兵衛尉以下の侍三六人都合百ばかり討ち死にした。氏郷の侍、黒川、西並びに田中新平以下が討ち死にした。木造具康これを聞き、金子十郎左衛門尉、柘植左京進以下の軍を率いて野辺に出陣する際、氏郷早く軍を収めたので合戦がなかったという。氏郷は軽い大将である。運あれば敵に勝ち、利を失えばすなわち大将の討ち死にがある。

秀吉出陣の事

八月下旬、秀吉は十六万の軍を率いて尾張に出陣した。敵に向かって要害をこしらえた。上奈良、河田、大野等である。九月に出来上がって各城主を据え、十月一三日大垣に帰った。

勢北発向の事

十月六日、秀吉は伊勢の羽津に着陣して直生城をこしらえ蒲生飛騨守を城主とした。また桑部城をこしらえ蜂須賀彦右衛門尉を城主とした。信雄は中江に対陣して浜田城に瀧川下総守を、桑名城に家康の家臣酒井左衛門尉、石川伯耆守の両人を入れ日々日々足軽戦があった。このとき瀧川下総守大船を城中に引き込んだ。秀吉はこれを怪しまなかった。のちに彼が羽柴姓を賜ってお礼に来たときこれを問うた。「殿がもし水攻めにしようとしたら船に乗って引き退こうと思っていた」といった。秀吉はこれに感じた。誠に武略の大要、走って地を見ないものは倒れる、あたふたするとはこのことである。水攻めは六角義賢がこれを始めた。息子彦四郎義弼と仲が悪かったとき、天文年中義弼近江の肥田城に立てこもった。義賢はまず佐原兵庫助を討ち取り、のち水攻めをした。秀吉はこれを好んで数度水攻めをした。

信雄和睦の事

然るところに足立清左衛門尉、間に合わせに和睦の扱いを取り結んできた。信雄は何の仔細があってか滞りなく同心した。十月二十日信雄は秀吉と矢田河原で対面しひたすら疎意があってはならないと申し合わせ秀吉は軍を大阪に収めた。尾張表の砦の軍はそれぞれ引き取り、事後処理は堀尾茂助、一柳市助に命じられた。

木造小倭の事

十月下旬、信雄が和睦したことにより木造家は城を渡し尾張に行った。これによって木造分、小倭分は信包に属した。また秀吉は北畠具親を氏郷に預け有爾を与えたがほどなくして死んだ。岡村修理亮、長野左京両人は信包に預けられ小倭を与えられた。長野は城を八幡山に作るという。岡村はのちに家所と改めて死んだ。その子の清次郎もまた家所修理亮に任じられた。母方の身内福田山帯刀は長野左京亮と不快であった。故に家所も長野と不快であった。ある時家所は長野と津において往還の時、両人半田、神戸に逢い互いにその鐙を掛け合ってこれを過ぎ、抜き打ちに長野を切った。家臣たちが防戦し長野の槍持ちが家所を討った。長野は剛の者であったが数度不義を企てた報いにより今若武者の家所のために討たれた。その後信包は八幡山の城を守岡金助に与えた。守岡はほどなく病死した。その弟は守岡助之進は松ヶ島にあった。兄の金助は病の時に小倭権現に祈った。金助の死後、権現の宮を焼いた。因果を知らず無道なのはこのとおりである。しかし、艶やかな心もあった。元来守岡は伊賀の者である。浪人して瀧川家に奉公しようとしたがかなわず、筒井家に行ってもかなわなかった。守岡助之進

瀧川を頼みて行けど扶持もなし 筒井の水もくれぬ哀さ

その後播磨に行き羽柴に行ったがゆえに氏郷に預けられるという。

織田信雄の事

北勢の守護尾張内大臣平信雄公、天正十二年冬に和睦して後、十三年乙酉の春、羽柴秀吉公、徳川家康公とも和睦した。同年夏秀吉の四国退治の後、生駒雅楽頭は讃岐国を賜ったために神戸分をまた信雄公に与えた。北の郡は統一されて神戸城は瀧川下総守に与えた。同年秋越中国佐々陸奥守成政も和睦した。しかし天正十八年庚寅、羽柴関白豊臣秀吉公、関東北条家退治の後日本中悉く治まって信雄を下野国烏山に配流した。信雄出家して織田常信と号した。このとき木造左衛門佐具康は岐阜中納言家の後見となって二万五千石を賜った。また瀧川下総守は召し出され羽柴氏を賜り謁見の後神戸城二万石を賜った。文禄元年壬辰、織田常信は召し出され、子息の織田宰相殿が越前国大野郡五万石を賜った。慶長三年戊戌、秀吉薨去の後同五年庚子、石田治部少輔三成が世を乱したとき、徳川家に背いて三成の一味となった。家康公はこれに怒りその領地を没収した。宰相は京都において亡くなった。常信は大坂に住んだ。このとき木造具康中納言に属して三成の一味となる。岐阜落城の時福島家の家臣長尾隼人正を捕らえ保護した。福島は家康に言上して木造家をあずかり安芸広島で二万石を賜り、木造大膳大夫に任じられて後亡くなった。また、羽柴下総守は家康の味方となり野州田中城三万石を賜った。死去の後その子羽柴勘右衛門尉がこれを継ぎ大阪合戦で手柄を挙げその後若死にしたという。元和元年乙卯、羽柴秀頼公退治の後、織田常信、子息兵部少輔は召し出され大和国宇陀郡六万石を賜る。その後父子ともに亡くなった。子孫は繁盛した。

織田信兼の事

中勢の守護織田侍従平信包朝臣、天正一二年秀吉公に属した。その後文禄元年壬辰、関白の朝鮮出兵のころ領地を没収され、近江で二万五千石と賜った。入道して老賢と号した。このとき分部左京亮は召し出され別保上野城一万石を賜った。その後、徳川が天下を取ったとき織田老賢は味方であったによって丹波国篠山城三万六千石を賜った。嫡子民部少輔は伊勢林城一万石なり。悪逆によって断絶した。老賢が亡くなったあと、子の刑部少輔信則は篠山城を賜り子孫は繁盛した。また分部は慶長五年庚子、家康の味方となり富田信濃守津城籠城の時同心して忠節があった。これによって二万石を賜った。元来子がなく婿の長野次右衛門尉の子をもって養子とした。今の近江国大溝城主分部左京亮源光信がこれである。

蒲生氏郷の事

南勢の守護蒲生宰相藤原氏郷卿は天正一二年国司の領地を賜った。故に北畠の名跡を得たいと望んだが秀吉はこれを許さなかった。そのころの京都での落書きには

古鉄砲 程が遠いぞ北畠 飛騨硝煙は弱きものなる

天正一三年乙酉春、紀州退治、同秋越中退治、おのおの氏郷に忠節があった。同一五年丁亥、秀吉公西国島津討伐の時に氏郷は岩石城を攻め落としその誉を天下に得た。同一六年己子、城を四五百森に移して松阪と号した。同一八年庚寅小田原退治の時もまた忠節があった。ゆえに家康が関東の大将となり江戸城を賜ると氏郷は陸奥出羽の大将となり会津城五十万石を賜る。同年の秋、葛西大崎の敵を平らげ、同十九年辛卯秋、南部九戸の敵を討ち百万石を賜った。このとき田丸中務少輔は三春の城五万二千石を賜り、関長門守は白川城五万千石を賜った。氏郷逝去の後、子息侍従秀行が後を継いだ。慶長三年戊戌お家騒動によって衰弱し、下野国宇都宮城十八万石を賜る。このとき関、田丸等召し出され信州川中島において各々三万石を賜った。のちの席は美濃国土岐、多羅に移った。慶長五年庚子徳川の天下の後、秀行は婿であるために会津六十万石を賜った。このとき田丸は敵であったために越後国に流され滅亡した。関は味方であったので元の知行地亀山城を賜った。また同十八年癸巳伯耆国黒坂城五万石を賜った。その後元和四年戊午お家騒動によって領地を没収され猶子の兵部少輔五千石を賜った。これは一政の弟関主馬の首の子である。

 

右の三カ条をもってこの記録の跋文として珍重する。