巻十一 信雄兵乱

秀吉出世の事

羽柴宰相平秀吉卿は武威を用いて仁義をもっぱらにし、自然に信孝、勝家、一益等を滅ぼした。然るのちに諸将を手なづけ天下を取り信雄を滅ぼそうと思った。秀吉は元尾張中村の住人織田大和守の同朋、木下筑阿弥の子である。信長公のご恩をもって人となった人物である。故に尾張の中将信雄はこれに憤った。天正十二年甲申春、すでに秀吉と信雄は義絶した。この時諸大名皆秀吉の味方になるもただ徳川三河守源家康のみ信雄の味方となる。佐々内蔵助成政一味となるが越中にあって越前の丹羽、加賀の前田のために道を遮られた。また信雄は池田勝入頼んだが彼は同心しなかった。そのころ信雄は大和、伊賀、伊勢、志摩、尾張五か国にまたがりこれを治めた。その付き従う侍たちに対して秀吉は謀反を勧めた。信雄の家老松ヶ島城主津川玄蕃頭、浅井田宮丸、岡田長門守等秀吉の勧めに応じて陰謀を企てた。信雄はこれに怒り、三月三日長島城で謀って彼らを召し出し、土方河内守、天野周防守主従三人が相談し家老三人を誅殺した。これによりまず岡田の城、尾張星崎を攻め取り、次に浅井の城尾張苅安賀を攻め取り、次に伊勢松ヶ島城瀧川下総守雄親に与えた。

松島騒動の事

松ヶ島には玄蕃頭の兄津川謙入、その兄武衛三松、同じく伯父津川弥太郎ならびに神田半右衛門尉、中村仁右衛門尉、佐々木半右衛門尉以下伊勢衆尾張衆らが瀧川が城主になったことを知り松ヶ崎町を焼いて籠城した。三日の夜木造左衛門佐具康が松ヶ島城に押し寄せこれを攻めた。津川勢は防戦するといえども木造家が勝利を得津川弥太郎以下首数百余を討ち取り戸木城に戻った。

松島篭城の事

三月六日、瀧川下総守は伊賀、小倭の軍勢を率いて松ヶ島城に押し寄せ近辺に放火した。これによって南方の伊勢侍はこれに属した。瀧川は使者を立てて城を受け取ろうとした。城中に異議はなくこれを渡した。その後、瀧川は松ヶ島に籠城して天守を固めた。また河股城主日置大膳亮これに加勢して門、櫓を固めた。また家康が服部半蔵に鉄砲百人を添えこれに加勢した。そのほか伊賀伊勢の軍合わせて三〇〇〇余である。瀧川はかねてから南方の諸侍から人質を取っていた。しかし田丸中務少輔、九鬼大隅守、澤源六郎、秋山右近将監、芳野宮内少輔らは秀吉の勧めによって謀反を企て羽柴家の味方になったということだ。また織田上野介信包も秀吉卿の一味であった。

伊勢篭城の事

そのほか伊勢において、信雄の味方はまず南方には木造家父子戸木城にこもる。小倭侍森長、堀山、長野、吉懸、岡村、福田山ら両佐田城に立てこもる。ただし長野左京亮は秀吉の味方に参じたという。また松ヶ島近辺には本田左京亮船江の城に立てこもる。河股谷には日置の舎弟次大夫七日市に籠城した。また北伊勢には神戸与五郎神戸城に立てこもり、佐久間甚九郎は峯城に立てこもり、国府次郎四郎は国府城に立てこもる。そのほか千種、楠、茂福、濱田、上木らは各々籠城した。ならびに天野周防守は長島城を守り、土方河内守は菰野城を守る。前田与十郎は蟹江城を守り、加賀の井駿河守の子息弥八郎は加賀の井城を守り、不破権内の兄源六は竹ヶ鼻城を守る。伊勢から尾張に至る要害の数はこれを数えるのにいとまがないということである。

亀山合戦の事

天正十二年春三月、関安芸守父子は蒲生家の一味により信雄の敵になった。故に神戸与五郎五百の兵を率いて亀山表に出陣した。関入道萬鉄の子息兵衛尉一政、折節諸所に出兵しにわかに敵を防ぐ軍勢がなかった。わずかに十三人である。葉若藤左衛門尉、同九郎左衛門尉、岩間八左衛門尉、岩間七郎左衛門入道夢庵、その子与七郎、同三太夫、同勘兵衛尉、穂積喜太郎、桜井吉兵衛尉、萩野権右衛門尉、豊田新右衛門尉、草川仁兵衛尉、井坂伝兵衛尉等である。萬鉄は策をめぐらし、敵が近づいた時、亀山の町屋に火を放った。関父子はわずかに二・三十人煙に紛れて攻め込み、神戸勢の五百余もみ合い、弓・鉄砲打ちかけ、槍長刀を提げてわめき叫んで合戦に及ぶ。神戸勢は敵の数がわからずもみたてられて、悉く敗北した。関勢は和田、河合に至ってこれを追い打ちした。なかでも岩間三太夫生竹の指物を背負ってさきがけて高名を挙げた。急ぎ軍を引き上げて籠城した。豊田はまず木戸を閉めたので萬鉄はこれに感じて「戦に勝って油断するな」といった。この戦は誠に関家の名誉であった。

犬山合戦の事

三月十日、徳川家康が三河、遠江、駿河の兵を率いて清州城に入り軍議を開いたところ、十三日池田入道勝入が調略で犬山城を取った。犬山城主中川勘右衛門尉、峯城の城番となって留守であった。また古くは池田が城主であり住民たちと心を合わせてこれを取ったという。十五日池田勝入、森武蔵守等小牧山の近辺に攻め込み方々に放火した。同日信雄、家康は小牧山に攻め込み十六日犬山の近辺に押し寄せ放火した。森武蔵守ならびに尾藤甚右衛門尉、備えを羽黒八幡宮にたてた。家康の先陣大須賀五郎左衛門尉、榊原小平太、丹羽勘助等突きかかって攻め戦えば森は陣を退いた。その後、家康は小牧山に陣を置き敵味方が互いに勝負を争った。

松島城攻の事

秀吉は軍を率いて松ヶ島城を攻めようとし、まず弟羽柴美濃守秀長を大和に配し、筒井順慶に伊賀を与えて松ヶ島城の先鋒とした。そのほか伊勢国衆は織田上野介信包、九鬼大隅守嘉隆、田丸中務少輔具直並びに岡本下野守、藤堂佐渡守高虎、津川三松、同謙入、神田、中村、佐々木以下その軍五万であった。三月十五日松ヶ島城を囲んでこれを遠巻きにした。あちこちに放火した。十六日早朝筒井順慶がまず侍町に入った、城中の軍、城に入ろうとするもの、敵味方入り乱れて石壁を伝って中に入った。織田信包は侍町に放火してこれを滅ぼした。ここに小倭の侍井田勝蔵、その折森本飛騨守の宿所にあった。城に入ろうとしたところ、佐々木半右衛門尉がこれを見つけ言葉をかけ槍を合わせて井田を討ち取った。そのあと遅れた武者を少々討ち取った。日置はその様子を見て門を開いて討って出た。外構えの敵はこれにより八方に逃げ散った。このとき猛火が城に移ろうとしていた。瀧川の家臣中津志摩介天守に上がってこれを防いだ、故に本丸は焼けなかった。その後、軍は堀際に陣を置いてこれを攻めた。十七日・十八日から二・三日日置大膳亮その不意を見て門を開き討ち出でて筒井順慶ともみ合い戦を挑んで諸侍手柄をふるった。人々はその武威をほめたという。故に攻め手は落ち着かず、日数を送ってこれを囲んだ。ここに信雄の侍小崎新四郎瀧川家に頼って籠城した。人はこれを誹り落書して言う。

城の中に入らざるものが三つあり蚤と虱と小崎新四郎

その後、攻め手の中で佐々木半右衛門尉陣所に夜討ちに入って佐々木は討たれた。これはさる二日の朝佐々木らが飯野郡下村神戸に押し寄せ、下村仁助の館を壊した。この下村は澤家の与力であった。これを怒って下村はついに佐々木を討ったということだ。

長久手合戦の事

三月二十一日、秀吉は大坂を立ち十二万の軍を率いて尾張表に出陣し、二十七日に犬山に入城した。その日楽田、羽黒のあたりに出、評定して小牧山に対し砦を十四カ所に作り諸大名に命じてこれに入れた。四月六日、池田勝入は三河に攻め入ることを欲して、婿の森武蔵守と二人、篠木、柏井に討ち出て東三河に放火した。秀吉は楽田に陣を置き、猶子の羽柴孫七郎秀次並びに堀左衛門佐で池田の加勢とした。九日、三河に攻め込み丹羽勘助の城岩崎を攻め破った。信雄・家康はひそかに兵を小幡に出し、二人は猪腰原の巽の山に陣を置いた。家康の先陣榊原小平太、井伊満千代、丹羽勘助等秀次の陣に攻めかかり、追い崩して数人討ち取った。その後また池田父子・森・堀等の陣、岩崎の北の山に攻めかかった。堀は合戦を挑んで勝利を得これを追い打った。森、池田も同じくこれを追いかけた。しかし、井伊満千代一九歳が三千の兵を率いて長久手の巽の山に陣を引いた。堀はこれを見て進めなかった。池田、森、堀ともに陣立ての整わないところに井伊勢が追い来た。まず森武蔵守鉄砲にあたって撃ち殺された。なお、家康が池田舞台に攻めかかるので追い崩され池田勝入、子息勝九郎父子ともに討ち死にした。これによって羽柴勢は敗軍し、信雄、家康はこれを追い打った。秀吉は楽田に出て戦おうとしたが信雄、家康は早く軍を収めた。ゆえに十日順次楽田に軍を収めた。

北伊勢没落の事

四月中旬、秀吉は蒲生飛騨守、進藤山城守、関萬鉄、子息兵衛尉そのほか近江衆に命じて伊勢の峯城を攻めさせた。一二日夜、関萬鉄並びに蒲生の侍坂の源左衛門尉等が七か尾から攻めかかりこれを乗っ取った。また、そのころ蒲生氏郷、神戸蔵人ならびに国府家に謀反を勧めたがこれを用いなかった。その後氏郷以下峯城を攻め破る。佐久間甚九郎防戦したが利を失いついに尾張に退いた。これによって神戸与五郎神戸城を開き美濃加賀の井の城に立てこもり、その他の国人千種、楠、濱田、峯、上木等おのおの落ち行き、加賀の井の城を守った。このとき神戸蔵人は澤城を落ち信包を頼んで津に退きついに津において死去するという。国府次郎四郎城を開いて引き退く。先祖、東国より上って国府の城を守り九代にあたって今年滅亡するということだ。

本田逆心の事

南方本田左京亮親康は船江城に立てこもりその婿中村仁右衛門尉の勧めにより秀吉に通じていた。しかしかねてから子息千勝丸人質となって松ヶ島にいた。ゆえに本田はこれを盗み出そうとして三月一五日密かに高島次郎左衛門尉勝政と相談した。高島は敵の目をしのび軍勢に交じって松ヶ島城に入り日置方に頼って合戦を挑む。六日を経て後二十日夜謀略をめぐらし危険を逃れついに千勝丸を盗み出した。寄り手は逃走人千四五百人三方よりこれを追いかけた。高島案内を知って事故なく落ち来るという。しかし、本田は籠城を辞めずについに滅亡した。二心の敵を攻めてはいけない。必ず一人は滅ぶ。これを攻めたら失敗する。

松島和睦の事

四月下旬、松ヶ島城はすでに四十日に至ってこれを攻めた。ここに尼がいて慶宝と号していた。この尼は星合左衛門尉の娘である人の妻であったが十八の年に夫が病死した。病中孝を尽くすこと図りなく死後にその別れを悲しんでたちまち出家し操を立てて二夫にまみえなかった。誠に殊勝な女性である。故に諸侍はこれを憐れんでこの禅尼を養育した。慶宝は瀧川、日置の籠城を憐れみ、ある時羽柴秀長の陣に来て和睦の調停を申し出た。秀長はこれに感じその斡旋に応じた。慶宝は鉄砲を止め内外の使いをし、ついに和睦を整えた。瀧川、日置等船に乗り尾張にわたる。その他の者は互いに人質を取り換え、弓鉄砲をもって見合って引き退いた。岡本下野守、松ヶ島城を受け取り四十日ばかり在番した。また、瀧川下総守はその後北方濱田城を賜りこれに立てこもる。日置大膳亮は家康の望みによりのちにこれに仕え間もなく死んだという。

加賀井攻の事

四月二十九日、秀吉は楽田を立って兵を収め、五月二日加賀の井駿河守の子息弥八郎の城を囲んだ。林与五郎、子息十蔵、千種三郎左衛門尉、楠十郎、濱田与右衛門尉、小泉甚六、小坂孫十郎、峯与八郎、上木等、都合その軍勢は二千余であった。加賀の井は降参を請うたがが秀吉はこれを入れなかった。ゆえに加賀の井は謀をめぐらし六日の夜夜討ちをかけて駆けとおそうとし伊勢衆をもって子の刻に大手に討って出て合戦を挑んだ。一番に林新右衛門尉、そのころは新蔵と名乗っていた、打ち破ってかけ通った。一晩の合戦に城の者、千種三郎左衛門尉、林十蔵、加藤太郎右衛門尉、峯与八郎、上木等以下千ばかり討ち死にした。中でも峯は十八歳無双の若者であった。そのころ小唄を作りこれを歌ったという。また楠十郎十六歳、林松千代十五歳は生け捕られた。この戦に紛れて林与五郎加賀の井等はひそかにからめ手を出て尾張に落ちた。大手門に引き付けて搦手から落ちたのである。寄せては皆合戦と聞いて大手に向かったがために搦手に人がなかったという。東せんと欲すれば西を襲うというのはこれである。林十蔵討ち死にの後、その妻は信孝の正室はもともとの約束のごとく関勝蔵一利に妻になったという。生け捕った楠十郎は引き出されたが瀧川儀太夫の婿であった。浅野弥兵衛尉をもって一命を請うたが秀吉はこれを用いず首をはねられた。林十蔵の弟松千代は容姿が優れていた。見るものがこれを憐れんだ。しかし、去年父の与五郎、神戸拝領の時に秀吉の恩を喜び松千代を人質にしたがこの春これを返した。早くも敵になることを秀吉はこれを憎みこれもまた首をはねた。九日夜、心あるものがこの旨を松千代に語って「最後の文を書いて父母に送りなさい」といった。松千代は「すでに二・三日以前夜な夜な書きました」といって文を十ばかり取り出し肩身を添えてそれを渡した。その様子はとても厳しかった。皆涙を流した。十日朝心静かに念仏を唱えて討たれたということだ。またその小姓松千代が十歳の時から付き従い者の一人が追い腹を切った。これまた人々は感じた。

竹鼻水攻の事

十日、秀吉は不破権内の弟源六の城、竹ヶ鼻に押し寄せた。十一日夜評議して水攻めとした。十万の兵をもって包みを四方に築き、五・六日至って完成した。その後木曽川を分けこれに流しいれた。不破はついに降参を請い城を開いて渡した。秀吉は一ツ柳市助を竹ヶ鼻に入れた。軍を収めて大阪に帰った。