巻十 信孝兵乱

信孝謀反の事

天正10年冬、尾張中将信雄は、美濃太守信孝と絶縁した。また羽柴筑前守秀吉と柴田修理亮勝家とは互いに二つに分かれた。信孝は三法師に逆らい自分を立てようとしたので徳川三河守家康、池田紀伊入道勝入、丹羽五郎左衛門長秀以下みんな信孝に背いた。中でも丹羽長秀は日ごろから親密であったので色々頼んだが同心しなかったという。

ただ、信孝の一味は柴田勝家、滝川一益、このほか佐々内蔵助成政、前田又左衛門尉利家等加賀越中にあり味方するといっても折から佐々は越後の長尾景勝と合戦の最中であった。北伊勢では小島兵部少輔は神戸城を守る。岡本下野守右衛門尉は峯城を守る。関安芸守は亀山城を守る。国府次郎四郎は国府城を守り、鹿伏兎左京亮は鹿伏兎城を守る。そのほか、滝川一味の諸家、千種、赤堀、楠、稲生以下各城を守る。

秀吉用和の事

勝家は勇義を用いて道徳を知らない。秀吉は和を用いて諸将を懐かせる。ゆえに諸家皆秀吉の味方になった。また、秀吉はかねてから美濃伊勢の信孝の重臣岡本、幸田以下の侍に謀反を進めていた。岡本太郎右衛門尉は内々でこれに同意した。幸田彦右衛門尉は元々信孝の乳人であった。忠義のものであって同心しなかったという。同11月謀で勝家と秀吉は和睦した。同中旬秀吉は長浜に来た。このとき柴田の養子柴田伊賀守秀吉に味方した。元来勝家の甥である。然るに実施の柴田権六が誕生の後伊賀守を軽視した。この年の正月杯をまず権六に回すと、伊賀守は憤り「私は養子といっても総領である。行く末はこれでわかった」といった。ついに裏切って秀吉の養子になる、という。

諸家発向の事

12月上旬、羽柴筑前守秀吉、丹羽五郎左衛門尉長秀、池田紀伊守信輝、細川越中守忠興、筒井順慶、蜂屋伯耆守等5万余りの軍を率いて信孝追討のために美濃に入った。美濃の住人氏家内膳正、稲葉伊予入道一徹以下各城主がその理に服して信孝に背いた。これで信孝は力を失い、長秀の策を用いた。

 和睦を用いて諸大名の意に従い、三法師を安土城に入城させ、母親を人質とした。およそ156日の間にことは整った。23日、秀吉は安土に行って三法師にお礼を言った。三法師は安土にしばらくいて信雄を後見とし、柴田、羽柴、丹羽、池田の四人をして奉行とした。成人の後、岐阜宰相秀成の養子となった。岐阜中納言秀信の事である。

具親出張の事

同年の冬、北畠具親、中国より伊勢に来て、南伊勢譜代の侍を集めた。安保大蔵少輔の舎弟岸江大炊助、稲生雅楽助、五箇、六呂木、佐奈の大西、丹生、射和の浪人ども数百人、これに属して五箇の篠山城に立てこもる。同じ12月晦日、大河内の近辺に打ち出でてことごとく火を放った。よく天正11年癸未正月1日津川玄蕃頭、田丸中書、日置大膳亮、本田左京亮以下南方の諸侍篠山城に押し寄せ鉄砲戦あり。同じく二日の夜具親軍は松明を出して鉄砲を撃ったその朝、並木に松明を結びつけ又火縄を結びつけ山伝いに引き退き、伊賀国にいく。世があけると鉄砲はならない。攻め込むと敵はなくただ、下人を三人虜にしこれを磔にした。このとき、稲生雅楽助皆にふれて後方から攻める作戦を立てたがその計を破って城から落ちた。

 稲生は三瀬に隠れた。三瀬左京亮、三瀬の波の助に命じてこれを討たせた。波の助は昵懇で刀の目利きにことよせてこれを討ったという。

伊州一味の事

近年、滝川三郎兵衛尉雄利、伊賀丸山城を守り伊賀の住人と数ヶ月戦い武威を振るった。ゆえに信雄は伊賀一国をもって三郎兵衛にあたえた。その後機会を得て伊賀退治を疲労した。秀吉はこれに感じて「この三郎兵衛は大剛のものである」といった。今年の元旦の夢に

「痣丸を 抜きて月見る 今宵かな」

痣丸は昔、影清の太刀の名である。今は熱田神宮にあるという。

盛信謀反の事

 去年、関安芸守盛信は亀山に帰参の後、家督を立てようとして家長を集めて意見を問うた。葉若は次男右兵衛尉を立てようとした。足片端であるためにそのころ比叡の稚児をしていた。岩間は三男勝蔵を立てようとした。関家の家督は代々乳房が四つある。勝蔵はその通りである。そのころ柴田に仕えていたということである。盛信は葉若と同心して右兵衛尉をもって家督を立て蒲生左兵衛太夫賢秀の婿とした。ゆえに葉若が権勢を握り岩間は威を失った。然るに秀吉は関家に対し信孝への謀反を勧められた。盛信が言うには「私は蒲生と申し合わせているので蒲生の去就次第に任せる」。蒲生親子は秀吉の一味なので関父子は謀反して秀吉に与した。天正十年癸未、春正月、秀吉に対し礼のために葉若を供として上洛した。岩間は留守を窺い一族四十三人を率いて反逆を企て瀧川家を頼って亀山城を取った。瀧川伊予守一益は軍勢を率いて長嶋城を出た。まず岡本下野守の謀反により峯城を取り瀧川儀太夫を入れた。これは一益の甥である。次に瀧川は亀山城を取り佐治新助を入れた。同じく関の新城には諸侍を入れる、鈴鹿口を抑えるためである。関安芸の入道萬鉄の子息右兵衛尉一政、蒲生家を頼りその旨を告げたということだ、

秀吉発向の事

 五月二十三日、羽柴秀吉は七万五千の軍勢を率いて瀧川退治のために近江南部に到着し、三手に分けて伊勢に攻め込んだ。土岐・多羅口は羽柴美濃守秀長・筒井順慶・伊藤掃部助・氏家左京亮・稲葉伊予守等、二万五千である。君が畑越は羽柴孫七郎秀次、中村孫平次一氏、堀尾茂助吉晴等その数二万である。安楽越は秀吉その軍勢三万である。みな北伊勢に攻め込み各地に放火した。秀吉は桑名辺りに到りこれに火を放った。

峯城攻の事

 羽柴美濃守、同孫七郎以下峯城を攻めて瀧川儀太夫が防戦した。信雄の家臣津川玄蕃頭以下もまた峯城を攻めた。ある朝津川勢は「瀧川儀太夫の朝首を取ろう」といって攻めかかった。塀際に到ったとき城中から汚物を汲みかけたという。また織田上野介信包が峯城を攻めた。ある時信包の配下が城の近辺に来て呼びかけ「我に俳諧の発句がある。城の者脇句をつけよ」といった。城中から何者とは知らないが答えて「あなたは前もって作って脇句を願っている。私ににわか作りの狂歌がある。返歌を聞きたい」といって

上野の焼砥は鎌に合はねども羽柴をこなす峯の城かな

信包の家臣は返歌せずただ鉄砲を撃ちかけたということだ。

亀山城攻の事

 秀吉の先鋒は亀山城をを囲んだ。佐治新助が守った。このとき蒲生氏郷・関父子が先手を承った。閏正月二十六日の朝秀吉が押し寄せてこれを攻めた。その後佐治は大軍は防ぎ難いとして和睦して城を明け渡して引き退いた。秀吉亀山領をもって蒲生飛騨守氏郷にたまわった。氏郷が辞退したので亀山城は関右兵衛尉にたまわって蒲生家の与力とした。その後岩間一族は降参した。これを許して召し使うという。次に関の新城の攻め手は関安芸入道萬鉄、木村隼人正、前野勝右衛門尉、一ツ柳市助、山岡美作守、青地四郎左衛門尉等承ってこれを攻める。秀吉は二月八日長浜に来た。新城没落の後、萬鉄は隠居となった。

信孝出張の事

春三月、信孝はまた謀反を起こし氏家内膳正、稲葉伊予守の領地に攻め込み悉く放火した。秀吉は怒り、信孝の母並びに幸田彦右衛門尉の母親が人質として安土にあったが情けをかけずこれを磔にした。このとき幸田の母は彦右衛門尉に文を送って「お前のために命を捨てることを私は嘆かない。親は必ず先立つものである。お前はただ忠義を尽くし、主君に背いてはならない」といった。皆これに感じた。そのあと、秀吉四月一七日長浜を立ち美濃大垣につき一八日氏家、稲葉をもって信孝の領地に放火し砦戦が行われた。信孝の乳母の子幸田彦右衛門尉兄弟、義を重んじ命を軽んじてついに討ち死にした。また信孝の部下可児才蔵、木股彦三郎、石崎次郎右衛門尉三人、川表において槍を合わせて比類なく戦って引き退いたという。一九日秀吉は岐阜城を攻めようとして軍を起こした。 

柳瀬合戦の事

 夏四月、柴田修理亮、越前北庄城から出て攻め上がろうとした。勝家の先陣佐久間玄蕃助、二十日に賤ヶ岳で合戦を挑み中川瀬兵衛尉を討ち取る。これによって二十日未の刻羽柴秀吉は軍を率いて大垣を立ち柳ケ瀬に進んだ。二十一日江越の境において柴田、羽柴と合戦し先陣佐久間戦に負けて敗軍し、勝家の旗本に到って逃げ崩れると毛受勝助は馬印を賜って身代わりとなって討ち死にした。誠に武士の本望である。その間に勝家は北庄城に落ち延びた。このとき柴田家に仕えていた侍は常に語った。「この戦には天命が尽きたことが多かった。先手の一方は暁に堀左衛門佐の後方を遮るといって逃げ崩れた。また一方はし水を飲んで人々は柄杓を奪い合い、どっという声に驚いて逃げ崩れた」という。勝家は信長の第一の臣で天下に「鬼の柴田」と呼ばれた人であったが命運が尽きればこのとおりである。

勝家自害の事

 二十二日、羽柴秀吉は北庄城を攻めた。柴田勢は悉く落ちた。剰え柴田権六、佐久間玄蕃助がとらわれてきた。秀吉はこれを討った。二十四日勝家は妻のお市を害し、ついに自害した。五十八歳であった。そのころのことわざに「柴田勝家は眼は剛にしてみることを欺いた。耳は臆にして聞くを憚った。羽柴秀吉は眼が臆病で見るを恐れ、耳は強く聞くことを欺いた」と。故に勝家は常に秀吉を侮り掌中に握るようであった。秀吉は慎んで戦ったのでこれに勝つことができた。このとき前田利家は赦免され加賀を賜り、丹羽長秀は忠節で越前を賜った。 

岐阜落城の事

岐阜城は氏家、稲葉以下の諸勢がこれを抑えて戦おうとした。柴田の敗走により美濃・伊勢の諸侍は悉く謀反を企て城を引いた。家老岡本下野守はかねてから逆心を持っていた。幸田彦右衛門尉は討ち死にした。齋藤玄蕃允、稲葉刑部少輔はともに稲葉伊予守の甥である。一徹が謀反を勧めたので謀反して信孝に背いた。のちにこの両人は一徹を頼って秀吉に言上し領地をもらおうとした。一徹は「武士は義をもって本とする。お前たちは我が謀を知らずにすでに家名を失った。私がなぜ不義の人に親しもうとするのか」といい、ついに対面しなかった。また神戸侍四百八十騎衆、一味同心して謀反を企て伊勢に落ちた。堀内次郎右衛門尉、河西喜兵衛尉、山路玄蕃允、同弥太郎、太田監物源介、同織部佑、高田雅楽助、同孫右衛門尉、高瀬左近将監、村田治部丞、矢田部掃部助、疋田助右衛門尉、同新藤次、岡野民部丞、片田平兵衛尉、佐々木隼人佑、同勘三郎、武野七九郎、河北忠右衛門尉、馬路五郎右衛門尉、岡部忠左衛門尉、高野五郎兵衛尉、萩野権右衛門尉、同覚兵衛尉、古市九郎兵衛尉、同五兵衛尉以下一騎当千の軍兵ともに各城を落ちて行った。

信孝自害の事

 その後、岐阜城の近習、外様諸侍は皆落ち失せて、残っている軍兵は大田新右衛門尉、小林甚兵衛尉以下侍はわずか二十七騎だった。かの太田は神戸侍である。近習のよしみを忘れず親族に背いて節義を守った。武士の本意である。小林は神戸住人、石塔鍛冶但馬守国助の子である。なお、その家にあらざるも、このとき義を重んじ城中に残るのは名誉であった。これによって信孝は敵の意に任せようと岐阜城を開き船に乗って尾張にわたり、二十九日野間の内海において自害した。二十六歳であった。このとき信孝は昔ここで長田忠致が源義朝を討ったことを思い出して辞世の句を詠んだ。

昔より主をうつ海の野間なれば 尾張を待てや羽柴筑前

大田新右衛門尉は涙を抑えて介錯したという。

 

信孝評判の事

信孝は勇義を自慢し短慮であって柔和を知らなかった。故についに滅亡に到った。まず三法師を立ててこれを後見すればだれがその権威を妨げられただろうか。自然に諸将は首を低くし織田家を相続できたであろう。巧みなものは下手に見えるが栄華を保持できる。しかるに両雄が威を争い家を失い国を傾ける。ゆえに「両虎が戦いともに死ねば、キツネでもその状況によっては食らいつく」という。信雄、信孝ともに争って自ら織田氏を滅ぼした。他のために政権を失ったのではない。似ていないだろうか、大陸の伯夷は叔斉と孤竹で譲り合い、わが国では顕宗・仁賢両帝が天下を譲り合ったことと。天下を収めることは家のため身のためではない。人間は生まれて世に残るものは名のみである。天下の主君も民間の者も死ねば同居する。名を残すために天下を狙い国を狙って悪名を伝えるのだ。信孝武威をもって光秀を滅ぼし正道を立て、三法師をもって天下を取らせていれば、その名は自ら天下を取るより高かっただろう。ある人が言うには「人間は凍えず飢えず苦しまず、働かないものは貪欲なことをたくらみよこしまに富貴を願うな。賢い心を立てよい名を残すことを思うべきである。財産は百世に伝わらない。よい名は万代も失われない」

滝川没落の事

 瀧川伊予守一益は長嶋城にこもり合戦を挑んだ。名将であるといっても春に大軍に北伊勢はほうぼうが攻め滅ぼされ、その後信雄の軍がこれを囲んだ。然るときに柴田勝家滅亡により瀧川家の者共は悉く落ちた。秀吉はこれと和睦して命を助け、近江南郡で扶助料五千石を与えた。瀧川儀太夫、瀧川豊前守等召し出されて領地を与えた。豊前守は伊勢国の住人木股彦次郎である。一益が男色によって同名にし最も義深いものだということである。

信雄分領の事

 信孝の領地岐阜城は池田勝入に与えた。伊勢の神戸分・峯分・国府分は信雄につく。そのほか瀧川分長嶋城は皆信雄につく。ただし亀山分は蒲生家に給い、鹿伏兎分、稲生分は織田上野介信包に与えた。信雄は神戸城を家老林与五郎に与えて北伊勢の奉行とした。また峯城を佐久間甚九郎に与え、長嶋城をもって天野周防守に与えた。北方の侍たちはこれに与力した。あるいは瀧川についたので没収の者がたくさんいた。このとき、伊勢は南北ともに信雄の領地となった。

神戸名跡の事

 夏、林与五郎は五百の軍を率いて神戸城を攻めた。ある時児島の家は極めて数度の高名をなし安芸に東條城をたまわった。二万三千石である。高岡城主山路久の丞、声高に名乗りうち出てこれを防げば林勢はことごとく走り散ったという。またそののちは城中が騒げば寄り手はまた山路が出てくるかと思い、空しく逃げることがあった。この久の丞は神戸の家老山路紀伊守の嫡子で元来武勇の者であった。吃音であったために次男弥太郎が家を継ぎ信孝に仕えていた。久の丞は小島の家老として、のちに福島正則に仕え長尾隼人正に任じられた。ブドウ第一の兵であったためその身に無筆であったが、君臣の礼儀を知っていた。常に正則が書状を与えるときに行水をし、装束を改め、右筆を上座に置き、手をつき首を低くして謹んでこれを承ったという。その後、児島と林は和睦した。林は神戸城を受け取り城主になった。このとき神戸蔵人友盛は沢城にいた。病気故信雄に対して逆意がない旨秀吉に伺った。これによって林を神戸の後継ぎとし、神戸与五郎と名乗った。信孝の奥方を与五郎の嫡子十蔵の室とした。蔵人の息女である。同じく国府の次郎四郎信雄の幕下に属した。

上庄喧嘩の事

秋八月十二日、船江住人本田彦丞、若侍二十人と一味して上の庄に行き、年貢の催促として民家に入り人質を取った。領主大宮太丞、同九兵衛尉の侍がその無礼をとがめてけんかになった。本田左京亮これに助勢しようとしたが、本田の婿の生駒次郎助、上の庄に行き仲裁しようと望み、日暮れに生駒が流れ矢にあたって戦死した。彼は信雄の外戚生駒半左衛門の嫡子である。その後いよいよ船江衆が上の庄衆と乱れ合戦して船江の山辺吉六等が討ち死にした。両方がけが人死人がたくさん出た。本田はこれに怒り十二日一族与力の軍を催し上の庄を攻めた。津川玄蕃の軍もこれに加勢した。上の庄衆は退いて黒野に到った。遅れるものが出、佐藤又次郎二十五歳が進んで渡り合い本田勢に討たれた。次に山辺彦兵衛尉が進み出てその敵を討った。肥留の佐藤入道諍本は後陣にいた。本田は使いを送り子息又次郎の戦死を告げ彼を呼んだ。佐藤は使者に向かって驚かずに「死ねば我が行っても仕方あるまい」といった。使者は「まだ気絶していない」といった。佐藤は外科医である。息子の枕に到ってこれを看、最期の水を飲ませた。これが侍の定まった道であるといって進んで攻め入ったという。郷中に人はなくこれに放火し黒野に押し寄せた。ここは上様方といって北畠具教の奥方六角氏の領地であった。ゆえに尼御前は和睦をあっせんし上の庄衆、喧嘩の首謀者二,三人首をはねられ和睦が整った。本田の憤りはやまず、その翌日一三日に高島孫兵衛尉、吉田十助をもって本田彦丞を殺させた。左京亮の伯父、本田式部丞の嫡子である。