中は偏らず易わらず、古に通じて今に至る。左に近づいてその右に因る。伊勢の国は日本東西の中央の国である。それゆえに天祖は伊勢に姿をあらわし国を鎮護しているのだ。中央ゆえに兵乱も多い。世には「戦乱の多いのは播磨に越前、その逆は伊勢だ」という。しかし今、記録を見ると伊勢の部分は欠けた部分、誤りが多い。このおかげで伊勢の武士は常に間違いを恨み嘆息して言う。「勢州に出世した大名はいない。ゆえにこれを改められないと。」と。私は思うに大名がいなかったわけではない。北畠信雄、長野信兼、神戸信孝、滝川一益は伊勢侍の家である。皆強力で天下を狙ったため、羽柴秀吉に滅ぼされた。その将が滅んだので出世したものがいないのだ。しかし、この4人に従って武名を挙げたものは天下に何人もいる。どの家中にも伊勢侍は多い。信長の記録に間違いがありこれを恨んでも新しく説こうとするものはいない。その間違いを見てみると永禄8年から11年の伊勢攻めが欠けている。大河内合戦が記されているものの間違いだらけである。秀吉の記録はその欠ける事はなはだしい。

  私の父、神戸政房は伊勢に生まれ蒲生家に仕えて奥州に移り伊予で死んだ。常に諸家の記録を読み、その間違いを控え、伊勢侍の由来を書いて私にくれた。私はこれに基づき諸家の記録を見た。また蒲生家には伊勢侍が多く彼らと親しみ、その話を書き留めた。私は奥州で生まれ、伊予に住んだ。蒲生家断絶の後、浪人して伊勢に入った。先祖が歩んだ道同様、神戸に住み、後に舟江に入った。あちこちの老人に詳しく話を聞きその全てを書いた。これが「勢州軍記」である。内容は天下の興亡勢州動乱、伊勢侍の由来、その賢愚などである。

  紀州頼宣卿が勢州動乱について松阪奉行に尋ね、奉行から私に教授を求められた。私はこの書を抜粋し献上した。この書は全部書いてある。読む人に願う。天下の人よ、子どもに教え世の中の興亡を見、人の賢愚を知り、文武の大事さを知り、善をとり、悪を捨てよ、と。特に、伊勢伊賀の人々よ、かつての兵乱を知り先祖の歴史を知れ。神戸良政謹んでこれを記録する。

巻の上

勢州諸家第一

勢州分領の事。

伊勢国は諸家がほぼ四分して統治していた。南5郡は北畠家の領地である。北八郡は工藤一家、関一党、北方諸侍の領地である。ただし、度会郡の宇治山田は神宮の領地である。これは守護不入の土地である。神三郡は度会、多気、一志である。国司がこれを奉行し国内に神領があちこちにあった。昔は各国に神領があって、これを神戸と言う。日本は天祖の国であり、中心にあるので天祖は勢州に姿をあらわしたと言う。国を治め家を保つ人はまず、神を敬う人である。

伊勢国司の事

南勢の国司、北畠多芸御所は村上院の子孫、中院家の一家、幕紋は割菱・梧桐である。先祖の親房卿は後醍醐帝を奉じて足利尊氏謀反の際に忠節であった。これにより吉野朝で政務を執り准后となり「職原抄」を記し百官の式目を定めた。嫡子の陸奥国司、北畠中納言鎮守府将軍顕家卿は建武三年正月東国から攻め上り尊氏を追い落とした。また、延元二年正月顕家は舎弟顕信とともに上洛して戦ったが顕家卿は阿倍野で戦死した。次男の中納言顕信卿は陸奥の新国司になり後に懐良親王に従い鎮西・筑後川の合戦で戦死した。三男大納言顕能卿は伊勢の国司となって勢伊両国で数年間合戦に明け暮れた。雲出以南を抑え一志郡の多芸に住んだ。ゆえに多芸御所と号する。正平七年春後村上帝上洛の際は准后親房国司顕能は上洛して朝政を司った。

明徳三年の両朝合一後、顕能の子顕泰は後小松院を奉じ、所領安堵され子孫は栄えた。領地は伊勢の南五郡(一志飯高飯野多気度会)と大和の宇陀郡の合わせて六郡である。侍9千人うち騎兵1500騎、足軽6000あわせて一万五千の大将である。皇室の衰えた後、公家大名はかの家のみである。しかし、応永22年三代満雅卿は将軍義持に対し謀反した。将軍は近江六角、伊賀仁木、大和筒井、越智、十市、久世、満西、伊勢の長野、雲林院、関、神戸、峯、千草以下の軍勢でこれを征伐した。国司は各地に砦を築き応戦した。伝え聞くところによると、このときの阿坂城攻防戦で攻めあぐねた将軍勢は山城である事に目をつけ水の手を絶った。城中に水が絶えたとき国司は櫓の前に馬を並べて米を以ってそれを洗った。幕軍はまだ水はあると思って兵を退いた、と言う。その後、将軍国司和を結び本領は安堵され子孫は繁盛した。

国司家一家はまず木造御所である。油小路と号する。これは顕能卿三男正三位顕俊卿が後小松院を奉じて一志郡木造に住み国司の与力となって領地は一志郡内にある。侍600人うち騎兵100、足軽400人あわせて1000の大将である。

このほか、国司領内の一族三大将として多気郡田丸御所、飯高郡大河内御所、同郡坂内御所がある。皆国司の幕下である。諸郡に与力被官がいる。三家は侍600人うち騎兵100人足軽400人の1000の大将である。ほかに一族大将は一志郡波瀬御所、同郡岩内御所、同郡藤方御所である。皆国司の幕下である。諸郡に与力被官がいる。三家は侍300人うち騎兵50人足軽200人の合わせて500人の大将である。そのほか八下、森本、方穂合わせて500人、一族合わせて5000人である。また、大和宇陀の両家は澤家がその一、秋山家がその二である。三家というと芳野家がその3である。吉野朝のときはこの三家は北畠家の与力であった。今は幕下である。伊勢でも与力被官がある。国司の先陣を務める。澤家は幕紋井筒、1000の大将である。秋山家は幕紋楓、1000の大将である。芳野家幕紋は藤の丸500の大将である。三家を合わせて2500である。また多芸の近習5000人、その他2500人を鳥屋尾水谷らを以って大将とした。国司の家臣の長四管領は澤・秋山、鳥屋尾・水谷だという。国司勢は15000人である。

工藤一家の事

北伊勢工藤の一家は、鎌倉の御家人伊豆の国の住人、工藤左衛門尉祐経の後胤、幕紋は木香三引両である。先祖工藤二郎左衛門高景元が弘元年のはじめ安濃郡長野を賜ったという。同3年夏北条家滅亡の後、長野に居住して長野家を名乗る。その後足利尊氏を奉じて守護方についた。延文5年伊勢守護仁木右京太夫義長が幕府に謀反を企て長野城に立てこもり合戦を挑んだ。また、義長は仁木三郎、石塔刑部卿頼房を大将とし伊勢・伊賀の兵を以って近江葛木山に出陣、9月28日六角大夫判官入道崇永と合戦をして敗れたとき伊勢の住人矢野下野守工藤判官、宇野部後藤弾正忠、波多野七郎左衛門尉、同じく弾正忠、佐脇三河守・高嶋次郎兵衛尉、浅香、萩原、河合、服部等が討ち死にしたという。その後義長は国司方につき5、6年長野にこもった。六角、土岐大膳大夫入道善忠等がこれを攻めた。伊勢の住人はことごとく仁木に背き幕府方について忠節を尽くした。故に仁木は幕府にくだり、以後は国司の押さえとなって伊賀を賜った。このとき長野家も将軍を奉じて国司の押さえとなった。安濃・奄芸両郡を賜って子孫は栄えた。

工藤の両家督は安濃郡長野家がその一人である。故に工藤の大将である。奄芸郡雲林院家がその二人である。故に工藤の一味である。それぞれ安濃・奄芸両郡の中で領地がある。両家は共に侍600人うち騎兵は100人、足軽400人あわせて1000の大将である。その他の一家は安濃郡草生家、同家所家、安濃郡細野家、同郡分部家それぞれ長野の与力となって安濃・奄芸両郡の中で領地がある。彼らは侍300人うち騎兵50、足軽200人合わせて500の大将である。そのほか長野の与力乙部家は源頼政の末孫という。また、中尾、河北ら工藤家は都合5000人である。

関の一党の事

北伊勢関の一党は六波羅太政大臣平清盛公の後胤、幕紋は上羽蝶である。先祖の小松内大臣重盛公が天下を見ていたとき、次男小松新三位中将資盛卿13歳世に言う乗合事件(訳者註:摂政との路上での揉め事)によって父が大いに怒り、鈴鹿郡久我荘に流した。資盛は配所で6年過ごした。元来伊勢・伊賀は平家累代の領地であるので住人平家一族諸侍はこれをもてはやした。その間に子が一人誕生した。後に盛国と名乗るという。資盛18歳の時都に帰り文治元年壇ノ浦で滅亡した。寿永3年伊勢・伊賀の平氏の叛乱の後、盛国はこの地に隠れ住んだ。源頼朝が天下を取った後北条遠江守時政が上洛して平家一党を滅ぼした。ただし頼朝は小松家の恩に報いようとしてその子孫を助けた。盛国は北条家に預けられたという。建仁4年再度の平家の謀反の後に、盛国の嫡子関の左近将監実忠、初めて鈴鹿郡関谷を賜って関家を号した。北条家の与力となって鎌倉に住んだ。

その弟の三郎左衛門尉盛綱は北条家の執事である。その後に北条が天下を治めたとき盛綱ははじめて管領に任じられ権威を振るった。北条家内管領長崎氏の祖である。故に関家の子孫は長崎一族として東国に住んでいたという。しかし元弘3年北条滅亡の折実忠六世の孫関四郎は伊勢に上って関谷に住んだ。もともと主君であったので武士は皆もてはやした。足利将軍に仕えて守護方についた。子が多くいた。嫡子を持って神戸に住まわせた。法名を伯巖という。次男を国府に置いた。三男は関の家督を継いだ。四男は鹿伏兎においた。五男は峯に置いた。その他は各所に住まわせた。その後仁木が謀反すると子らは皆忠節を尽くした。将軍を奉じ鈴鹿河曲両郡を所領とし子孫は栄えた。関の三家督は鈴鹿郡亀山の関家はその一人である。故に関家の総領である。河曲郡神戸家はその二人である。鈴鹿郡峯家はその三人である。みな足利家の侍である。ともに領地24郷、武士600内騎兵100足軽400合計1000の大将である。同じく関の五大将は鈴鹿郡国府家はその四人である。同郡鹿伏兎家はその5人である。それぞれ足利家の侍であり領地12郷そのうち国府家の一郷は奄芸郡白子である。鹿伏兎家の一郷は朝明郡富田である。武士300人うち騎兵50足軽200都合500の大将である。子の他与力ら合わせて1000人、関勢は都合5000人である。

北方諸侍の事

北方諸家は源平争乱以後、北条足利まで代々領地を賜っていた人々である。まず三重郡千草家、これは1000の大将である。同郡宇野部後藤家、これは後藤兵衛実基の後胤である。同郡赤堀家、これは俵藤太の後胤である。同郡楠家500の大将である。奄芸郡稲生家、これは物部守屋の後胤で幕紋は丸の中に二つ鷹の羽である。朝明郡南部家、幕紋は藤の丸鶴の丸である。同郡加用家、同郡梅津・同郡富田家は伊勢平氏冨田の進士家資の後胤である。同郡濱田家・員弁郡上木家・同郡白瀬家・同郡高松家・桑名郡持福家・同郡木股家、以下諸侍の48家あったという。皆足利方である。一味同心という。

 

 

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