歴代伊勢国司列伝

具顕卿の原点・北畠氏の列伝でございます。

その興亡の様、よくご覧下されませ。

初代顕能   二代顕泰   三代満雅   四代教具   五代政郷 

 六代材親   七代晴具    八代具教(上)   八代具教(下)   九代具房                    

十代具豊(信雄)   付.具親  外伝.昌教

初代顕能公

伊勢国司の祖、右大臣源顕能公というのは准后北畠親房卿の第3子である。建武2年親房卿および兄の顕信朝臣、弟の顕雄朝臣とともに伊勢に下向、延元3年閏7月2日従四位下伊勢守に任じられた。足利尊氏も高土佐守師秋を伊勢守護としたので国司は兵を起こして討伐し、合戦がやむ事はなかった。

延元4年春、国司は師秋と合戦した。4月5日愛洲宗実に伊勢国朝明郡地頭職を賜った。

興国2年、国司家の勢いが日を追うごとに盛んになることが京に聞こえ足利直義は近江の佐々木道譽に命令してその一族出羽四郎兵衛らを伊勢に出兵させた。3年昨年春より国司と武家方はたびたび合戦したが戦況は一進一退であった。

4年玉丸城が高師秋のため落城。この年大館氏清が7歳で母とともに京から国司の元へ身を寄せた。氏清は左馬助氏明の次男である。元弘の変のときに氏明は伊勢に亡命していたが同じく伊勢に逃れてきた内裏の女房と懇ろになり氏清が生まれた言う。氏清の母は源敦光の娘とも親房卿の娘とも言う。

正平6年11月16日顕能公は右大将になった。7年後村上天皇は足利義詮を謀る為に閏2月15日天王寺へ行幸した。このとき国司は勢・伊両州の兵3千を率いて鳥羽より出撃、東寺の南、羅生門の東西で旗を掲げる。千種少将顕経朝臣、和田・楠・三輪・越知・真木・神宮寺らも押し寄せ足利勢を打ち破った。義詮は近江まで落ち延びた。しかし帝は敵が京を明渡したものの入城しなかった。ただ顕能卿父子が成敗を行なった。27日卿は500余騎で持明院へ進み辻々門々を固めたので武士が乱入して院内を荒らすのではと女院皇后らは心を悩ませて沈み、女房らはあちこちへさ迷い歩いた。しかし卿は西の小門より入ると四条隆資をして「平穏になれば南方へ遷都するとの(南帝の)勅でございます」と奏上した。光厳光明両上皇、崇光帝、東宮はあきれるばかりでとりあえずの御意もなくただ涙に暮れるのみであった。卿は2両の車で4人を南門から連れ出した。しかし尊氏が関東で勝つと義詮は勢いづいて京に侵攻、卿は無念ながら京を放棄し帝は卿らに守られ吉野に逃げ延びた。5月のことである。

正平8年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。

10年、卿は軍を催し伊賀へ攻め込み勝利した。

16年、仁木義長が南帝に降伏、大館氏清が伊賀を制圧。勢・伊両州が国司の手に入った。しかし北方に土岐、中勢に仁木・長野、南方に国司と3分し戦乱は続いた。仁木は義長は幕府についた。

18年舟木頼尚は自立する事あたわず、長男を国司の下に行かせた。

22年関東で敗れた平一揆が伊勢に逃げた。卿は彼らに関を与えた。関一統の始まりである。

24年土岐と戦い勝った。10月三重軍に侵攻し勝った。国司はいつの頃からか大納言に上がりこの頃に内大臣になった。

建徳元年、勅命により公は伊賀へ発向、伊賀は国司に従った。9月に近江に攻め込んだが敗れた。

2年土岐を破り安濃郡を制圧した。

文中2年朝明郡を制圧した。公は従一位右大臣に昇進した。3年国司は大和を成敗した。

天授2年後亀山帝の願いにより笠木の旧行宮を再興した。

弘和3年薨去。法名は源光院殿端常曇宰大居士という。

2代顕泰卿

権大納言顕泰卿は顕能公の嫡男である。天授2年5月に権中納言伊勢国司となった。その後、正二位権大納言兼右大将になった。

元中2年諸国の官軍は皆武家方に下り南帝の威は衰えたが河内に楠木、紀伊に湯浅、大和に三輪それだけでなく伊勢に北畠国司があった。伊賀伊勢大和志摩をきり従えて南軍に仕えた。この頃伊勢守護は土岐から一色に変わった。

元中9年南北朝合一。南帝の還御に伴い、伊勢国司も安堵された。このときより木造・関が将軍家の家臣となった。翌年。鈴鹿で佐々木軍と戦った。

応永6年大内義弘の叛乱にたいし、国司は幕府方として出兵した。この戦いで嫡子・満泰が戦死、敗れた卿は葬送の者が置き捨てた供物で飢えをしのぎ天蓋を打ち立てて大内の城に突入、大いに勝った。この功績に対し将軍家は伊賀半国と近江甲賀郡を賜った。

応永910月薨去。法名は宝樹院殿弘覚常敬大居士。

3代満雅朝臣

顕泰卿の次男である。兄満泰が戦死していたので、応永9年に国司家を継いだ。

19年後小松帝は、称光天皇に譲位。両朝講和の際、南帝の親王が皇位を継ぐはずであったが、幕府は約を違えた。旧官軍は抗議したがその甲斐もなく各地の南軍はいっせいに蜂起した。

国司家も21年関党と共に京を目指して軍を催した。ただ木造家のみは幕府につきこのときの当主俊康も京にいた。

22年、国司軍は木造城を攻略。雅俊朝臣(従弟)を入れ、大河内に顕雅朝臣()を入れた。国司本人は阿坂に入城した。

これに対し幕府は土岐、仁木、世保、長野、雲林院とともに木造殿を討手に送った。関木造相次いで破れ岩田川、雲出川の会戦も利がなく阿坂が遂に囲まれる。国司はよく守り城は落ちない。幕府側は水を絶ち持久戦を図ったが国司は櫓の前に馬を並べ米で洗った。寄せ手はまだ水があると思い軍を引いた。世に言う白米城伝説である。幕府は南帝に迭立を約して和約した。

正長元年、称光帝崩御。幕府はまたも北朝より皇嗣を立てた。後亀山院の皇子(小倉宮)は伊勢に落ち即位を図った。国司もこれに応じて兵を挙げた。永享元年幕府は仁木一色らを送ったが敗れ、土岐、世保を増援した。岩田川で会戦しこの戦で国司は戦死。首は京で逆徒としてさらされた。

4代教具卿

権大納言教具卿は満雅朝臣の嫡子である。永享元年満雅朝臣が敗死の後、家督を継いだ。幼少(7)であったので、叔父に当たる大河内顕雅が後見して国司の仕事を行なった。(顕雅は国司代であるという説と中継ぎで国司になったという説がある。)満雅ない後も国司家の武威は落ちず将軍家も目の上の瘤であるがすぐは滅ぼせないと見て和睦した。国司も南軍の衰退を見、しばらくは従おうと和睦に応じた。幕府は永享12年世保氏から守護職を召し上げ国司に伊勢の成敗を任せた。ただし、長野・関は将軍家の家臣とした。この時に神郡及び国内の神領は国司が奉行する事になった。

当時下総で結城氏朝が関東公方の遺児を擁立して幕府に反抗、関東騒乱に乗じて南軍が蜂起すれば天下が乱れると思った将軍の策である。しかし、天下が落ち着けば国司家を取り潰そうと考えていたようである。

嘉吉元年、将軍足利義教は参宮のため伊勢に入ったがこれは弟の義昭が南帝の皇子と結託して行方をくらませており国司がこれに加わっていないか探りにきたのである。同年義教は赤松満祐により弑逆され赤松も幕軍に滅ぼされた。満祐の子教康が伊勢に亡命したが文安5年国司はこれを殺した。国司がこの首を幕府に送るとさらされたという。

宝徳3年参議になった。右中将はそのままである。享徳元年6月従三位。2年には長谷寺で連歌の会を催した。国司は和歌に優れていたという。9月、大河内顕雅が出家、国司家の全権が教具卿に移った。この年正三位、康正2年権中納言、長禄2年従二位になった。

応永元年、京都で大乱勃発。将軍義政と不和になった今出川義視は木造教親を通じて伊勢へと亡命。国司はこれを保護し丹生に館を設けた。同2年勅旨により義視は京に帰る。その帰路を守護世保が妨害した。(今出川家の在国のための奉行となった国司と世保政康の小競り合いが発端。) 義視は怒りを以って国司に伝えた。国司はこれを受けて世保と開戦に及んだ。関一党もこれに加わり世保は神戸にて自害した(34)。これにより義視は京に帰ることができた。文明2年権大納言。3年に薨去。かつて高野山に阿弥陀院を建立した。

5代政郷朝臣

政郷朝臣は教具卿の嫡子である。初名は政具、後に政勝出家して逸方という。従五位下右少将(年月不詳)、長禄4年正月5日従五位上、文明8年正月6日従四位下に昇る。

若い時から禅理を好み、玄虎という僧に師事した。師に送った歌に

「我心こころとしれは佛なり餘所の佛の佛たのまし」

和尚の返歌

「佛ともしらは心のへたれにて知らぬ心そ佛なりけん」

文明13年に出家する。18年には従四位上右近衛中将になった。この年に菩提寺・正法山淨眼寺が落慶する。明応三年自らの画像に賛をつけた。永正5年12月4日卒する。

・・・・・・・というのがついこの間までの政郷伝であるが、ところがどっこい、泣く子も黙り、足利が毛嫌いした北畠国司の当主である。しかも、応仁の乱を抜けてきた歴戦の将である。やることはいわゆるプレ戦国大名、領土拡張欲もあれば将軍家顔負けのお家騒動だってやっちゃうのである。

はっきり言って国司家と将軍家の仲が改善するのは材親以降である。確かに教具の時代は兎にも角にも良好であったろう。しかし応仁の乱で教具は今出川義視を庇った。義政の跡を継いだ義尚にとってはライバルの味方である国司は嫌いで嫌いで仕方なかったろう。政郷は守護一色氏と北勢の覇権を争った。これとて気に入らなかったはず。現在政郷の出家は文明18年とされる。その翌年上洛した逸方(以後政郷を逸方と言う。)を将軍は都に軟禁して材親の上洛を促した。義尚の病が篤くなり沙汰止みとなったものの、国司を上洛させるのに隠居を抑留するなど、従属させていると思っているのならできない行動である。これに対し国司家は管領細川家に近付いた。六角攻めで国司は総大将の斯波氏でなく、細川氏に敵の首を送った。

将軍が義尚から義材(義視の子)に変わったあと、つまり将軍家が義政系から義視系に変わってからは若干好転したようではある。

明応年間国司家は激動の年をむかえる。将軍家内のクーデタ後、逸方方の家臣が国司方の家臣の追放を要求、多くの仲裁の甲斐もなく逸方方は没落した。それに対し逸方は可愛くてしょうがない末子の木造侍従師茂を擁立、その舅・木造政宗を巻き込んで材親とその母(おそらく政郷正室)を軟禁した。辛くも脱出した材親は我慢も限界とばかりに木造城を攻撃した。その猛攻にあわや陥落と言う時に中勢の宿敵長野氏が軍事介入。材親は大敗した。このときの戦いでは大河内、岩内ら国司家一門は材親方についている。ここで逸方の中の国司家安全装置が働いた。「長野に国司家を牛耳られてはかなわん。」

逸方のとった策は材親への降伏であった。あれほどに可愛がった師茂を材親に引渡し、政宗には出家、木造城を引き渡すと言うなんとも完全な屈服である。結果、師茂は切腹、獅子身中の虫・木造氏は弱体、腹心は粛清、逸方は完全な引退に追い込まれたのである。

以後、逸方が隠遁生活を送ったかどうかは定かならず。

6代材親卿

権大納言材親卿は政郷朝臣の嫡男である。初名を具方、のち将軍義材から一字を受けて材親という。文明8年12月26日、9才で叙爵し、18年4月10日右近衛少将になった。この年、12月19日国司軍は山田(現・伊勢市、外宮門前町)に攻め込んだ。前年から山田は関を築き宇治(現・伊勢市、内宮門前町)に参拝者を行かせなかった。宇治からの苦情も聞かないのでやむを得ず国司に直訴した。国司は山田に対し諭したが一向に聞く気配がなく却って村山掃部助武則が内宮への道を一斉にふさいだ。宇治は食料にも事欠き再度国司に訴えた。激怒した国司は兵を発したという。これに対し村山は神三郡の土豪と語らって迎え撃った。

20日、国司軍が宮川西岸に村山軍が同東岸に陣取って合戦は始まった。(ちなみに私の居住地はおそらく国司軍の何がしかの施設があったところかと思われます、位置的に。湯田郷は坂内、岩内が奉行しておりましたし、結構あたしの居住地は国司家と関係深いですね。)

村山方が川に網を流して侵入を防ごうとしたが国司家先鋒澤・秋山はそれをものともせずに山田に攻め込んでことごとく焼き払った。村山は外宮に逃げ込み、こともあろうに本殿の下に隠れた。これで押し寄せるわけにいかなくなった国司軍はひたすらおびき出そうと計を練る。

22日村山が最後の一戦を挑む。国司・宇治連合軍は散々に打ち破った。村山は再び本殿に潜むと腹を切って火をかけた。残党が二見に陣をひいたと知り、国司は散々に打ち破った。

この合戦の後、宇治は国司を後ろ盾に勝手に振舞った。これに耐えかねた山田は延徳元年、同3年山田を焼き討ちした。さらに土豪が伊蘇(磯)にこもって蜂起した。国司は激怒して明応2年兵を出し山田を再び焼き払う。斎宮で首実験して安養寺を宿所にして神領を成敗した。そこに真盛上人が現れ国司に兵を退く様に諭した。国司は了解したが、一向に退く気配がない。そこで国司に書状を送った。その書状に曰く

「現在日本には三国司があります(伊勢北畠、土佐一条、飛騨姉小路。もしくは北畠、伊予西園寺、陸奥浪岡)。当家は格別に村上帝の後胤で公家でありながら武家のように中間に刀を持たせるのは当家だけです。然るに南朝滅び天下を治めるために義教将軍が神三郡を国司家成敗に任されたので、これは一時の計略であったと聞いております。此度の出兵はこのときの許可を理由にしておられますが伊勢13郡の内南の三郡は神宮領であることに疑いがありません。知行成敗といっても神慮は図れません。天祖の神徳は言うも愚かでしょう。しかし、御所はあちこちに関を構え参拝者を妨げ宇治のものに扶持を与えたため、勿論国司の下知ではないですがそれらのものが神楽代から神馬までことごとく略奪しております。そのうえ、神社仏閣はもとよりご本殿まで火にかけて打ち破った事は前代未聞の悪事です。本殿の事は下知ではないにしろその責任は御一身に及ぶ一大事です。この事について三郡を返し関を撤廃し兵を退いて大神にお詫びしなさいといったところ、ご了承されたので私は帰って皆にそういったのです。ところが御所はそれを行なわず代官を置こうとしております。言語道断の事と驚いています。大神のお怒りここに極まれり。はやく関を開き軍を返しなさい。それがご自身のため家臣のため、万民のためです(後略)」この上人、元は伊勢の武士の出であり後に真盛宗を開いた高僧である。

明応4年従四位下になった。五年には又宇治山田が抗争を始めた。

文亀二年に参議、永正2年従三位に上がり権中納言になった。

その頃、京都では細川澄元・三好季雲親子が権勢を振るい対抗する者立ちは細川高国を担ぎ中国にいる前将軍義植を呼び寄せて合戦に及んだ。永正5年中国勢の上洛を聞いた政権側は近江に亡命。季雲の子長秀兄弟は伊勢に逃げた。国司は高国派であるのでこれを討ち取った。

この国司の末子が神戸家に入りその次男が赤堀家を継ぎ、楠家を婿とした。永正6年正三位、7年権大納言となるが翌年に腫れ物をわずらって辞官。以後は大石御所に出家隠居した。14年に薨去。

この国司は神儒仏三道に通じていた。また親房の伝記を記した。

7代晴具卿

宰相中将晴具卿は材親卿の嫡男である。初名親平、前名具国と言う。永正7年10月12日8歳で叙爵。その後侍従になる。同13年12月10日従五位上、15年左近衛中将になった。この時将軍から偏諱を受けた。大永5年12月晦日正五位上、享禄元年従四位下、3月6日参議になった。左中将は元通りである。この年に将軍家内紛により(義晴VS義維)義晴は近江朽木谷に亡命、このとき細川道永(高国、後に常桓)は再興を謀る為に伊賀の仁木伊賀守義広、ついで伊勢国司北畠中将晴具を頼った。晴具は道永の婿であったので、手厚くもてなし協力を約束した。しかし勢・伊両国ともに統一されておらずすぐに軍は起こせないと思い、近江に帰った。享禄4年道永は三好海雲に破れ、摂津大物庄で切腹した時に、国司に向けて詠んだ辞世の歌がある。

「絵にうつし石を作りし海山を後の世までも目かれすみやん」

天文元年山田から田丸へ攻めあがった。この年南都の一向宗が蜂起、その大将は雁金屋願了兄弟である。宇陀・吉野、伊賀の名張の衆を合わせ伊勢に侵攻した。国司はこれを迎え撃とうとしたが歴戦の家臣たちは「土民に武士を向けるのは不快である」といって山田庄の賤民を陣頭に立てた。一揆軍は戦意を喪失し撤退しようとしたところを散々に打ち破った。同5年34歳で出家した、法号は天佑という。

13年、関・長野・美濃土岐・越前朝倉とともに南近江の六角氏を助け京極六郎を攻めた。12月に六郎は自害、その後は浅井氏が江北を治めたが国人が多く背いたので国司が加勢して統治した。

国司の武威は四域にわたり志摩大和紀伊伊賀に及んだが伊勢は統一できず長野氏としばしば戦争した。田丸城での謀反事件では鎮圧後具忠に田丸家を継がせた。

永禄6年5月17日61歳で卒去。

この国司は伊勢暦を採用し他国の陰陽師の暦を用いなかった。

8代具教卿(上)

権中納言具教卿は宰相中将晴具卿の嫡男である。母は細川右京大夫高国の娘。天文6年6月23日10歳で叙爵、同26日侍従、14年2月26日従五位上、28日左近衛中将。16年3月23日美濃介兼任。18年2月28日正五位下、21年2月22日従四位下、12月28日参議になり、左中将は元通りである。22年正月5日従四位上、23年正四位下、3月25日従三位権中納言になった。北畠代々の先例にのっとり萠葱の御衣を賜る事は親王家と同じである。

天文の頃、山崎左馬助を大将に1000の兵を持って長野家を攻めた。長野方も細野・分部を迎撃させ葉野で激突した。山崎は分部と戦いその首を取ったが、細野に討ち取られた。弘治元年、飯高郡豊田五郎右衛門が、多気郡斎宮の野呂三郎兵衛と南勢のあぶれ者と合力して徳政を目指して蜂起した。斎宮の城に篭る。豊田の一族は智積寺の城に篭った。智積寺は大河内の与力だったが留守であり豊田はその妻子を人質にとって戦った。国司は両城に兵を向けた。豊田は豪の者であり勇戦したが本田美濃守の家臣、中西清右衛門・高嶋次郎左衛門が討ち取った。2年2月28日二見を攻めて数百名を討ち取った。3年2月、外宮の禰宜備彦が解状で勢田川の課税を免除する事を要請した。8月2日正三位に上った。永禄元年、北畠と長野は中勢の覇権をかけてたびたび合戦に及んだが、長野は利あらず遂にかなわないと思い、当主大和守藤定に実子がなく、国司の次男、次郎具藤を養子とした。具教は田丸城に山科言継を接待したり、後奈良帝の平癒祈願及び代替わり徳政と思われるが禁酒令を領内に施行したりしている。

さて、長野家を一門に加えた具教は一気に勢州統一を掲げ、長野家に関家を波瀬家に赤堀氏攻略を命じた。具教は将軍足利義輝から上洛し、三好松永一党を討伐すべしとの要請を受けており、上洛戦にむけての足固めをしようとしたものと思われる。また、長野を関に向けたのは、姻戚の六角家の勢力範囲である関一門を直接攻めるでなく、いわば「代理戦争」の形をとったのではなかろうか。結果としては長野氏は塩浜合戦、神戸西城攻略戦で大敗。波瀬家は赤堀氏に撃退された。国司はこの後再び兵を出し赤堀氏を断絶させた。

また、この頃義輝の上洛要請を察知したか、三好氏が宇陀三人衆の一人である秋山宗丹の子藤次郎を婿にし国司に叛旗を翻させた。具教も松永侵攻に注意させていたが先手をとられた形になった。国司は大和神楽岡城に攻め込み秋山を屈服させた。秋山は宗丹を人質に出し国司はこれを大内山に預けた。また、藤次郎も死に、その弟次郎が家督を継ぎ右近将監と名乗った。彼は後に滝川一益の婿になる。

永禄6年9月27日、大御所天佑入道(父・晴具)の喪に服し国司・権中納言を辞し、嫡男具房に家督を譲った。以後「大御所」として国司、伊勢守護としての立場にとらわれることなく自由に裁量を振るうようになる。そしてこれ以後の人生は尾張の風雲児・織田信長との確執に費やす事になるのである。

8代具教卿(下)

永禄10年、既に美濃を制した織田信長は滝川一益に命じて伊勢国に侵攻した。桑名・員弁両郡を落とし木俣、茂福、その他の土豪が織田方に従った。これを見た信長は8月に桑名表に出兵、南部・萱生・以下がことごとく織田に降った。そのまま楠城を攻めた。楠氏はよく防戦したが衆寡敵せず降伏、神戸攻めの先鋒にされた。神戸の家臣山路弾正の高岡城を囲んだが弾正はよく防ぎ、勝負がつかなかったが、西美濃三人衆(稲葉一徹、氏家ト全、安藤守就)が謀反したとの噂が流れ、信長は滝川を守りに残すと美濃に帰った。

11年、織田軍4万は伊勢に出陣。千種、宇野部、稲生ら北方諸侍が織田方につき再び高岡城を囲んだ。神戸勢はよく戦い長期戦を嫌った信長は神戸当主友盛の娘の婿に3男三七丸(信孝)を入れる事で和睦。これにより宗家を除く関一門が織田の軍門に降った。

次いで信長は工藤家を討とうと安濃津の細野藤敦を攻めた。細野は武勇の者でありよく戦った。これとは別に細野の弟川北内匠助、分部左京亮が長野に背き織田から長野宗家に人を迎えたいと懇請した。信長は弟三十郎(信包)を養子に入れる事にし、これをもとに細野と和睦しようとした。弟達を迎えた藤敦は「私はたとえ不肖の子とはいえ具藤を宗家と仰ぎ藤定の跡目を継いだとしてこれを守るほかに道はない」と言った。弟達は「具藤殿は大御所の子にしては器量がなさすぎる。北勢ことごとく織田の手に落ちた。その弟を迎え神戸の婿に据えれば長野も安泰ではないか」と訴えたが遂に聞き入れられず、退城した。しかし、このころ具藤に「細野に逆心あり」と訴えたものがいる。具藤は愚かにもこれを信じ、細野を攻めようとした。細野にもこれが伝わり宇陀三人衆の澤秋山が増援軍として攻めてくると知り、もはやここまでと逆に具藤を攻めた。具藤は恐れて父を頼って南勢に落ちた。ここに信長は伊勢攻略の拠点を中勢において手にいれ、逆に具教は伊勢統一の橋頭堡を失った。

永禄12年、大御所の舎弟木造具政が宗家に叛旗を翻した。これより先、信長は朝熊山に対し禁制を出すなど調略に入り、具教は被官を天花寺城に入城させるなどの臨戦体制を整える。木造城は明応の錯乱以来沢氏が入っていたが、この大戦を控えて木造氏に返還されていたものと思われる。お具政造反の原因は「多芸の大祭で三御所の後に馬をつけられた」事だとされている。

かくして木造城への信長入城、次いで大河内城決戦となる。緒戦以後、織田軍は北畠軍に翻弄され、両者の間がこう着状態に入ると襲職したばかりの足利義昭ついで朝廷の介入により両者は和睦する。

これ以後は具教と信長は協調体制に入ったように見えるが、具教は伊勢国内における対信長叛乱を陰で動かし、信長はこれに対し本所具房を使って鎮圧と言う形をとる。

長島一揆討伐に際しては具房を桑名まで呼び寄せ人質の形を取り北畠を封印している。具教は武田信玄に通じるなど伊勢の一大勢力として信長に対抗している。

この終るともしれない両者の対立は天正3年の具豊の国司就任、翌4年の三瀬の変によってである。11月25日早暁、旧臣滝川雄利、日置大膳、長野左京らを館に迎えた具教は近習佐々木の裏切りもありその刃に倒れた。享年49歳。法名寂光院殿心祖不智大居士。

9代具房

左少将具房朝臣は具教卿の嫡男である。母は六角定頼の娘である。天文24年7月従五位下、弘治3年左近衛中将に任官する肥満しており馬に乗ることもかなわなかったという。永禄12年織田信長の侵攻に対し、父の大御所・具教とともに大河内城に篭城した。その際に織田軍の兵士が松の大木に登り「大腹御所の餅くらひ」と城中に向かい大声でからかった。城兵はこれを憤り秋山の家臣に撃ち殺させた。

織田・北畠和睦の際に信長の次男・茶筅丸を養子とした。その後は蘇原城攻め・四五百の森砦攻めなどの際に織田に担がれその忠臣たちの行動を無にする行動をとる。

天正3年、茶筅丸改め具豊に家督を譲り「中御所」と称する。翌年の三瀬の変に際し、父、弟、一族ことごとく討ち果たされたにかかわらず、具房のみ殺されず幽閉された。このとき具房はどこにいたのであろうか?父について三瀬にいたとは思われず、多芸には城代がいた。具藤らが安心して田丸城に登城したことから見ても、信雄とともに田丸城にいたのではなかろうか?もしそうであれば、おそらく弟の討たれる姿を見ていた可能性もある。具房は本妻の子で具教の寵が薄く、また信雄の養父ということもあり河内に3年幽閉されて終る。国永が具房に詠んだ歌がある。

「たらちめはさこそ出でよおほすらめ河内に君が三とせさすらう」

天正8年34歳で薨去。松壑林公と謚号する。

また別説に、信雄が尾張に入った際に具房を引き取ったという。信雄改易後は秀吉の庇護を受けたという。

具房には子が無く、中院通勝の子親顕を養子にしたという。親顕は寛永7年8月、28歳で死去。信雄も同年に死去しており、その子秀雄も既に無くここに北畠氏は断絶した。

10代具豊(織田信雄)

10代具豊は織田信長の次男である。実際は三男であったが、生母の格により信孝より上にされた。幼名茶筅丸。

永禄12年勢濃一和の際に具房の養子となる。尾張より入国した際は船江の薬師寺を居館として使う。幼少につき、尾張から織田掃部他の織田家臣が付き添った。

元亀2年夏、具房の妹・雪姫を妻に迎える。大河内城に入って三介と名乗る。天正2年長島一向一揆討伐の際に出兵されたとされる。翌3年田丸に入城、具房に家督を譲らせる。これ以後,ご本所=具豊,中御所=具房,大御所=具教と称されるという。(実際は大河内以前に具教は大御所となっている。)これより先に叙爵、正五位下左中将になる。

天正4年夏,赤羽新之丞と言うものが紀州攻略のために大将をこうた。具豊は、加藤治部左衛門の子,甚十郎を紀伊長島城主とした。甚十郎は三鬼城を落としたが、却って新宮の堀内氏以下の紀州勢の報復を招き赤羽も寝返ったため長島城も失った。同年冬、いわゆる三瀬の変で具教以下の北畠一族を謀殺,蜂起した北畠具親らを5年に討伐している。

天正6年、伊賀の国人下山甲斐の手引きにより国主仁木友梅を失った伊賀を攻略するため具教が建てようとした丸山城築城に入る(天正3年に具教が企画したとされるが実際は天文の間違いか?)。伊賀衆は築城に来た滝川雄利を破り、翌年に攻め込んだ信雄も撃退した。このときに信長から勘当同然の叱りを受ける。

天正8年同朋・玄智の不正隠匿のため田丸城が炎上,以後は松ヶ島城を居城とする。

天正9年、信長による本格的な伊賀攻め開始。具豊は1万騎で攻め込んだ。伊賀は降伏し具豊の分国となった。

天正10年本能寺の変で信長と信忠が横死すると具豊は兵を上げ鈴鹿山,次いで土山に陣を取る。蒲生援兵のためである。このとき伊賀国人が一揆を起こしたため、そちらに兵を裂かれこの間に信孝が明智光秀を討ち取った。安土に入城した信雄はそれを焼き払う。

以後は織田信雄となるために,伝はここで終りとする。

付・東門院具親

具親は北畠晴具卿の3男である。長兄具教は国司家家督となり、次兄具政は一族筆頭木造家の養子となる。具親は興福寺別当東門院に入った。東門院は政郷弟・孝祐、材親弟・孝縁らが入った北畠氏にゆかりの寺院である。

天正4年、三瀬の変による北畠本宗家滅亡により還俗、北畠宮内少輔具親と名乗る。六角承禎入道の娘を娶る。三瀬、川俣等の家臣を糾合し北畠再興戦を始めた。三瀬谷には栗谷・唐櫃、長谷街道には菅野・谷・三田、小倭には一族七人衆、川股は波瀬・峯・乙栗栖らが従い、具親は森城に入る。森、鳥屋尾、家城らがこれを守った。

織田方は三瀬を森清十郎、川股を日置、小倭を滝川、柘植、長野に与えてこれを先手とした。天正5年、具親は伊勢国内に討ち出でるが各地に築いた砦は相次いで落とされ、具親は安芸毛利家を頼って落ち延びた。

天正10年本能寺の変で宿敵織田信長が横死した後、具親は再び伊勢に入国、五箇篠山城に入城、12月には大河内奪回を図った。翌年織田軍は反撃を開始、具親は伊賀に逃走、一揆を起こして反抗したがもはや南勢に北畠は再興しなかった。

天正12年、織田信雄、羽柴秀吉が開戦すると、具親は羽柴に与した。蒲生氏郷の客将になった。

戦後、秀吉はこの功を賞して有弥に所領を与えたが、具親は所領より都で公卿となることを望んだ。しかし話が整う前に病没した。もしも、この時具親が蒲生の与力になっていたら田丸、関とともに家名が残っていたかもしれない。以後、再興運動は起こらずここに戦国大名北畠氏は滅亡した。

外伝昌教

天正4年11月25日元国司・北畠具教の暗殺、前国司・北畠具房の幽閉により織田家の伊勢併呑は完結した。この際、具房の室、鶴女の方は具房の子を懐妊していたという。田丸城に監禁されていた鶴女を旧臣たちが救出、翌5年に男子が誕生した。千代松丸と命名されたその子はその存在を察知され、逃避行にうつる。伊勢に居場所の無くなった千代松丸は伯母の嫁ぎ先に当たる飯貝門跡、ひいては本願寺の庇護下にはいる。そこで出家して「教順」と法名を賜る。

天正8年、本願寺が信長に敗れて石山を退城。この時、教順らは諸国を回り再興の拠点を探し始める。放浪の末、出羽鹿角で北畠再興の準備を始める。そこで還俗、昌教となる。折戸の居館を構え、津軽氏の客将になり関が原の合戦で活躍。

元和2年、43歳で死去。

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