まだ陽が山の向こうから顔していない時間。
 遠くの方で、騒がしい物音が聞こえた気がした。方向的に、同居人である二人の部屋があるところだ。耳を澄まして話を盗み聞きしてみようと試みるが、珍しく夜を震わせる足音が五月蝿くて聞こえない。
 数分もせずに騒音は消えた。何事もなかったかのように、いつもの静寂が戻る。
 結局、ベッドの中で丸くなったまま騒動を聞いていた彼は、特に気に留める事もなく再び眠りについた。

 朝。
 目が覚め、リビングに行くと、本来ならいつもいるはずの同居人の姿は―――なかった。

「―――あれ?」
 廊下を歩いていた彼は、光が漏れる部屋を見つけて呟いた。
 今日は折角の三人揃ってオフの日。滅多にない事なので、何処か行きたいと言い出したのは彼自身だ。あの我侭王子様も、彼に忠実な下僕も、珍しく今回は同意してくれた。だというのに、ものの見事に約束は蹴られた。理由もなく、二人は今日一日いなかった。
 一人残された彼は、拗ねるように眠りについて暇な時間を潰した。したい事は山のようにあったが、どれもやる気が起こらなかった。時々眠りから覚めては、戻ってきていないだろうかと確認するように廊下を歩き回り、ついでに空いた小腹を満たそうと冷蔵庫をあさった。それを朝から何度も繰り返し、気づけば昇った太陽は山の向こうに消えていた。
 夜が戻ってくる。今日は新月が近いせいか、暗い。
 廊下の明かりをつけて歩く。この道を歩くのは、今日は一体何度目だろう。同居人が戻ってくるのを待ちながら歩くが、またいないのだろうという考えが脳裏を過ぎる。一体、彼等は何処に行ったのだろうか。考えてみるものの、置手紙も無しに急いで行く場所など予想がつかない。
 そして、なんだかんだ考えつつ歩いていると、つい数時間前までは暗かった部屋に明かりが灯っているのを発見した。
 小走りで廊下を走り、半開きのドアを押す。
「―――いたぁ」
 光に包まれた空間に、二人の同居人が顔を揃えていた。そして、男は驚いた。二人はほんのりと顔を赤く染めている。その理由は、二人が囲んでいるテーブルの上にあった。いくつもの酒が並んでいる。チューハイにワイン。あと、割っていたのかカルピスもある。それは実に珍しい光景だ。下僕はよく酒を飲んでいて自分も付き合う事が多いが、我侭王子はどちらかというと弱い方で滅多に飲む事はない。
 カルピスハイを片手に、銀髪の男は声に気づいて振り返った。好みのせいかいつも黒の服を着る事が多いが、今日は全身を黒に包んでいる。そのせいか、彼の銀髪と紅色の瞳がいつもより映えて見えた。
「あぁ。スマイルか」
 いつもと同じ、感情が抑えられ声。しかし、今日はいつもにも増して単調だ。というより、元気がないように聞こえる。
「どうしたのぉ?今日は三人で何処か行こうって約束してたのにーっ」
 ドアを後ろ手で閉め、空いているソファに腰掛ける。いつもの定位置だ。
 頬を膨らませて不機嫌そうに文句を言うと、王子ではなく、向かいでワインを飲んでいた下僕が慌てて頭を下げた。だが、それも何処か気力を感じられない。よく見ると彼も黒い服を着ていた。彼にしては珍しい事だ。
「―――悪かったっスね、スマ」
 そう呟いて、グラスに口をつける。
 不思議な雰囲気だ。とても重い。息をするのがとても辛い。
 嘆息をついてスマイルは膝に腕を乗せて頬杖をついた。
「何があったのさ?それぐらいは説明してくれるよね―――?」
「そ、それはっ」
「―――友人が、逝った―――」
 グラスから口を離して、消えそうな声で呟く。
 紅色の眼は声に反応して動いた。
「それって、ユーリの?それとも、アッシュの?」
「―――両方の、だ」
 答える度に、ユーリは酒で唇を濡らす。
 面白い光景だとスマイルは思った。缶チューハイ、たった一杯で頭が痛くなるような人が、カルピスハイを絶え間なく飲んでいるからだ。アッシュの事だから薄く作っているだろうが、それでも白いはずの彼の顔は瞳や唇と同じ色に染まっている。
「いや。アッシュにとっては親友、という呼び方の方が正しいか」
「―――そうっスね」
 力なく呟いてグラスを机に置く。
「その人って、人間?それとも」
「奴は同族だ」
 間髪入れず、不機嫌な声が答える。
 これも不思議な光景だと青髪の彼は感じた。珍しくアッシュの口数が少なく、ユーリがそれを補うように答えてくる。
「逝った理由……聞いていい?」
「事故だ」
 少し感情を含んで吐き捨てるように言葉を生む。怒りだ。
「殺しても死なないと、いつも笑いながら言っていたというのに」
 人間が見たならば、失神してしまいそうな鋭い瞳でグラスを睨みつける。
 ユーリと対称的で、アッシュは黙り込んだまま何も言わない。彼の瞳からは怒りより悲しみが見え隠れし、時折口から漏れるのは力ないため息だけ。
「私達はそう簡単には死ねない。病気なら、耐性が高いからな。『人間』と違って、私達の死因は大概老 衰だと決まっていた―――だというのに」
「ねぇ、ユーリ?もし聞いていいなら、聞いていいかな?」
「加害者は『人間』だ」
 質問を聞くより早く、彼は答えを口にした。無表情の彼にスマイルは何も言わず、いつもならお喋りの口を閉ざして話を聞く。
「『人間』は愚かだ。便利だ、楽だと言って色々な物を作り出すが、それは同時に安全や平和を失う」
 乾いた喉を潤そうと酒を流し込む。
「鉄の塊が80キロ以上のスピードでぶつかってくる。それに耐えられる種族はそうそういない」
「ユーリでも―――?」
「どうだろうな」
 試した事がないから分からない、と眼を伏せて言う。
 スマイルは時たまにアッシュに視線を向けた。やはり、彼の隠れた紅色の瞳は波紋のないグラスを見つめて動いていない。
「『人間』って不思議だね。皆を殺せる乗り物に平気で乗ってるんだから」
「そして、毎日誰かが逝く」
「なのに、事故は減らない」
「―――この代償は、大きすぎる」
 ため息を一つ。
 ユーリはグラスを片手にソファから立ち上がった。手入れされた長い爪がカーテンに触れる。指は光を遮断する布を掴むと力いっぱい払いのけた。勢いにのってカーテンレールが騒がしい音を立てる。
 外は、闇に包まれていた。光はそこにない。
「―――今日は、新月」
 中身が少なくなってきたグラスを口につけて、一口飲む。酒の刺激が喉をつつく。
 動かなかったアッシュがユーリの背中に視線を向ける。そのまま、瞳は闇の夜空を見つめた。
「時が悪かったっスよ」
「あぁ。月を愛し、月に愛された奴にとって、新月は力を最も失う時」
「―――だから、事故ったんスよ」
「いつもの奴なら、こんな事はなかっただろう」
 瞳か夜空から見えない月を探し出そうとする。
 手にしたグラスを高々と掲げる。酒が波打って揺れた。
「奴は酒が好きだった」
 小さく呟くユーリに、スマイルはやっと彼が無理して飲んでいる理由を知る。だからか、と思うとほんの少しだけ表情が曇った。
「―――よ。お前は少し早く逝き過ぎた」
「少しどころじゃないっス。おもいっきり早すぎっス」
「しかし、済んでしまった今、何を言っても仕方がない」
「分かってるっス」
「アッシュ。残された者はどうしたらいいか、知っているか?」
 振り返らず、闇夜に紅色の翼を広げた吸血鬼は問うた。
「いやっ。知らないっス」
「なら、知っておくがいい。そして覚えておくがいい。これから先、このような場面には嫌でも出会う事になるのだからな。特に、『人間』と触れ合っていれば、その時期は早くなる」
 掲げた酒の揺らめきに瞳を吸い寄せる。
「悲しんでいるだけでは何も変わらない。残された者は、逝った者の気持ちを考えよ。逝った者の望む事が、残された者に出来る事也。そして、自分を見失うではない。今をしっかりと生きながら、逝った者の分も生きながら、彼等の夢を叶えていけばいい」
「―――誰の言葉っスか?」
「もう忘れた。何処かの宗教だったかもしれないし、誰かの言葉かもしれない。それとも、自論か」
「―――今をしっかりと生きながら、逝った者の分も生きながら、彼等の夢を叶えていけばいい、スか」
 グラスに視線を落として、力なく笑う。
「難しい事っスね、それ」
「ユーリは、今までそうしてきたっスか?」
「―――いやっ」
 眼を伏せて首を左右に振る。
「今まで何人もの知り合いが逝った。しかし、その時はこんな気持ちにならなかった。だから、この言葉に従うのはこれが初めてだ」
「そうっスか」
「確かに難しい事かもしれない。なら、出来る事から行えばいい」
「出来る事っスか?」
 顔を上げる。すると、視界に黙って話を聞いているスマイルの顔が見えた。視線が合うと、彼はいつもほどではないが、少し引きつった笑みを浮かべて小首を傾げた。
 グラスを空に届くように突き上げる。
「今はとりあえず、奴に酒を送ろう。酒好きだった奴には弔い酒がいい」
「そうっスね。あ、あと少しでも騒がしい方がいいかもしれないっスね」
「そうだな。奴に辛気臭いのは似合わない」
 唇の端をほんの少しつりあげて笑う。
 腕を下ろし、踵を返したユーリは闇夜を背中に背負ってスマイルにグラスを向けた。
「スマイル。好きだけ騒ぐがいい」
「―――いいの?」
「今も言っただろう。奴に辛気臭いのは似合わん。騒がしいぐらいが丁度いいのだ」
 指定席に戻って深々と腰掛ける。空に近いグラスを机に置くと、アッシュがすぐに新しいカルピスハイを作り出した。
「その代わり、今晩は酒と私達の話に朝まで付き合ってもらうぞ」
「―――いいよ」
 眼を閉じて静かに笑う。
「さぁ、祈ろうではないか」
 三人はグラスを片手に、頭上の照明に向けて掲げる。
「奴が向こうで私達を待っている事を」
「彼が向こうで元気でいる事を」
「―――皆がこれから先、長生きできる事を」
 長い長い夜の幕開けに、グラスの触れ合う音が響く。
 この声が貴方に届いているだろうか。この気持ちが貴方に届いているだろうか。分からないが、三人は祈り続けた。貴方がそこから皆を見守っていてくれる事を。


 

 GW中に、友人が逝きました。
 俺と、大切な人にとって、大事な人でした。
 ある意味、この小説は自分達の気持ちです。
 忘れはしない。
 忘れるわけにはいかない。
 

 05.5.25

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