二人の出逢いは別に素晴らしいものではなく、恋愛小説や少女漫画に憧れている人にとっては、少し物足りない出逢

い方だったかもしれない。それでも、今まで恋愛というものに興味が無かった三十路の男と、日本に留学してきたばかり

の少女にとっては、十分印象的な出逢いとして、互いの記憶に深く刻み込まれた。

 

 最近の日本では、別に金髪など目立つものではない。もしかしたら、数年後には黒髪の方が少ない珍しい国になって

しまっているかもしれない。それでも、染めた金髪と天然の金髪では、ありとあらゆる点で似て似つかぬものだった。

 金髪の少女は急いでいた。最近拾った黒猫を大事そうに抱きかかえ、片手にはある封筒が握り締められている。差

出人はMZD。勿論聞いた事の無い、知らない名前だ。

 届いたのは約一ヶ月前。日本に留学してやっと半年が経ち、なんとかホームシックや生活の違いに慣れ出してきた頃

だ。仕送りで家賃を払っているアパートは、女子高生が一人暮らしするには十分とも不十分とも言えない部屋だが、彼

女はそれで十分だと感じた。日課は何も入っていないポストの中を確認する事。取っている地元でも人気のあるらしい

の新聞を除き、月に一度くらいの間隔で母国から送られてくる両親からの手紙、光熱費や水道代などの領収書、あと

ゴミにしかならない広告ぐらいしか入っていない。この手紙も、最初は何処かで特売でもするという類いのハガキだろう

と思っていた。しかし、裏面に書かれたゴシック体の文字は、見事に彼女の考えを打ち壊した。

『POP`NPARTY』

一番上に大きく、唯一カラーでその文字は印刷されていた。その下には簡単にパーティの内容が書かれていた。といっ

てもこの手紙は参加、不参加を確認するだけの手紙らしく、本当に必要最低限しか書いてない。ランダムではなく主催

者であるMZDが選んで手紙を送った事、参加条件はオリジナル曲を一曲だけ持ってくる事、曲を愛する者だけが集ま

るパーティだという事。そして最後には、参加するならば返信用ハガキを送ってくれと書かれていた。彼女に言わせて

みれば、これ以上となく怪しい手紙だった。だが、気付けば参加に丸をつけて送っていた。そして数日後、招待状と細

かい説明を同封した封筒が届いた。

 そして、その日が今日。

 オリジナル曲には別に悩まなかった。幼い頃から歌うのは好きで、ふと口ずさんでいた自分だけの曲があった。その

曲をPCにDLしたソフトで音にし、自分の思った通りの歌をつけた。これで参加条件はクリアだ。

 パーティの日が近づくにつれて、心が跳ねる気分だった。学校の授業もあまり身に入らず、ただパーティの事だけを

考えていた。どんな人が来るのだろうか、どんな曲が聴けるのだろうかと。

 ある日、猫を拾ったのはそんなに彼女の中では大きくない事件だった。それが後から起こる大問題の原因になるとも

知らずに。

 パーティ当日―――しつこいようだが今日。パーティ会場は数日前に調査済みで、道に迷う心配はない。地下鉄もど

れに乗ればいいかしっかりと頭に叩き込んでいた。

 それが、問題だった。

 猫を拾ってからというもの、二人は何処に行くのも一緒だった。そして、今日も少女は当たり前のように猫をパーティ

に連れて行こうとしていた。公共の乗り物は動物持ち込み禁止だという事を忘れて。

 そんな長い説明を経て、今に至る。猫の事に気付くのがまだ早くてよかった。もしもう少し遅ければ、いくら走っても時

間内に会場に着く事は不可能だったからだ。

「はぁ……はぁ…っ」

 体育の授業でくらいしか動いていない身体は若いというのに鈍っていて、ちょっとのダッシュでへばってしまう。おまけ

に猫を抱き、両腕が塞がれているから身体のバランスがとりにくくてしょうがない。

(あと少し……あの。あの角を曲がったら)

 底の厚いブーツが整備されたタイルを蹴る。人々はその音に気付いて彼女の為に道を開けた。その光景は、まるで

時間に追われているシンデレラそのもの。

 スピードを少し落とし、最後の角を曲がる。

 腕の中で、猫は一声ニャーと鳴いた。

 

 モップを片手に、男は仕事の合い間の一服を楽しんでいた。傍には少し汚れた水の入ったバケツ。青一色で、大きく

髑髏が描かれている。それと同じ色で同じ柄のつなぎを男は着ていた。髑髏は二つあり、一つは左胸、そしてもう一つ

は背中に。その上には大きく『HELL CLEAN』の文字が張り付いている。

「―――さてっと」

 短くなってきた煙草を、ポケットの中にしまっておいた携帯灰皿に入れる。すぐ隣りに灰皿はあるのだが、それはつい

さっき掃除したばかりなので使う事ができないのだ。

 モップを握り直し、床掃除を再開する。

 この清掃員の仕事を始めて早十年弱。モップさばきにも磨きがかかり、床は舐めたかのように綺麗になっていく。

「〜♪〜〜♪」

 ヘッドホンから聞こえてくる最小音の曲を口ずさみ、掃除を確実に終わらせていく。

「今の時間は―――」

 照明が明るいようで暗いホール。確かこのビルは三階建てだったはずだが、他の階のホールは眩しくいほど蛍光灯

が頑張っている。一階であるこの階はライブハウスであるという理由から、こんな中途な明るさなのだろう。

 見上げた先には場に似合わない白い大時計。時刻はもう少しで一時を示す所だ。

(時間だな)

 今度は声に出さない。モップを片手に持ち直し、空いた手にバケツを握らせる。

 男には珍しく、掃除以外に今日は予定がある。その為に、いつもなら夕方までするはずの仕事を昼で上がる事を上

司に告げてある。勿論、掃除を途中で切り上げる事はせず、ちゃんと掃除しきるのを条件にだ。

(さて、会場に行く前に水捨ててくるか)

 スニーカーは音をたてず、壁に映った影だけが彼の存在を知らせている。

 耳を澄ませば聞こえてくる。今日のパーティ参加者の話し声。わざとそれを避けるように、男は外へと出た。

 昼の空は高く、蒼く。表通りから少し離れているせいか、向かいの道を歩く人影は片手ほどしかいない。

 ドブに水を流すと、男は軽くなったバケツを持ち直した。後はポケットに突っ込んである招待状とMDを持って会場に

向かうだけだ。

(さて―――ん?)

 と、そんなとき。背後から聞こえてきた乱れた足音に男は振り返った。

 そこには一人の少女が何故か猫を抱きしめ、肩を激しく上下して走っていた。その手には見覚えのある封筒。

(あれは)

「あのっ」

 声をかけてきた少女の声は綺麗なソプラノで、日本人でない事はすぐに分った。

 翠緑玉の瞳を男に向ける。

「POP`N PARTYの会場って……ここですか?」

 質問の内容に、男は気付かれないように表情を変えた。どうやらこの少女も目的地は同じようだ。しかし、相手は男

も参加者だと気付きはしない。少女の目には、どう見ても清掃員としか映っていないのだから。

「あぁ。入ってすぐだ」

「ありがとうございますっ」

 額を伝う汗も拭わずにビル内に駆け込む。

(こんな冬に汗だって?)

 一体どれほど走ってきたんだと思いながら、彼女の焦り様を思い出して男も慌て出した。

 受付終了まであと少し。

 荷物を片手で持ち、男は招待状を取り出した。

 

『よく来たなお前ら』

 マイクを通し、スピーカーから聞こえてくる主催者であるMZDの声。

『今日でPOP`N PARTYもやっと五回目だ。常連もいれば初の奴らもいるかもしれねぇけど。ま、みんな楽しんでけよ!』

 彼の言葉に会場は一気に盛り上がる。あちこちから歓声や拍手がわきあがった。

『じゃあ、マイクはあたし。ミミと』

『はーい。ニャミが引き継ぐよ♪』

 マイクは二人の有名アーティスト、ミミとニャミに渡された。彼女達が司会者となり、MZDは舞台袖へと消えていった。

「―――凄い人―――」

 少し照明の落とされたライブハウス。初めてそういう場所に来た少女はその雰囲気に驚くと同時に、予想以上の参加

者にも驚いた。それも参加者が只者ではない。日本に着てからというもの、唯一の楽しみは読書だけであまりテレビは

見ていなかったが、それでも顔や名前を知っているほどの芸能人達が目の前に揃っている。

「あら。もしかして初参加者の子?」

 突然声をかけられ、少女は猫を抱きしめる腕につい力を込めてしまった。ニャッと短く猫が呻き声を上げる。

「あっ。ゴメン」

「ほんとだ。初めましてだね」

 さっきの声より少し低いアルトが聞こえた。振り返ると、目の前には同い年くらいの少女達が微笑んでいた。

「ようこそ、POP`N PARTYへ。私はサナエ。よろしくね」

「あたしはリエ。どうぞよろしく♪」

 二人共、日本の女の子らしく可愛い子達だ。

 少女は緊張のあまり何を言えばいいのか分らなかった。なんとか頭が回りだしたのは、相手の自己紹介を聞き終わっ

てから頭を下げるぐらいだった。

「はっ。初めまして」

「あ。日本語大丈夫なんだ」

「えぇ。日本に来てそろそろ半年経ちますし」

「留学生?」

「はい。あ、あたしベルって言います」

 ベルはその日、最初の笑みを浮かべた。

 

 サナエ、リエと名乗った二人はPOP`N PARTYの常連で、ベルより二つ年上だったがすぐに気が合った。一人目の準

備ができるまでの間、三人はまるで幼馴染のように言葉を交わした。

(楽しい)

 素直にベルはそう思った。

『はーい。みんな待たせてごめーん♪』

 マイク越しの声に全員が舞台へ視線を注いだ。そこにはピンスポットを浴びたミミとニャミの姿があった。

『準備が今、できましたぁ♪』

 盛り上がる歓声。所々から聞こえてくる拍手。

『それじゃあ、始める前に少しだけ注意事項とか言うなら聞いてねぇ』

『その一。みんな、受付でパンフレット貰ったと思うんだけど、ちゃんと自分の番は確認したかな?』

『それで、せめて自分より三つほど前の人が歌っている時に舞台袖に待機するようにお願いしまーす』

『ギリギリだったりすると、色々と後ろでつっかえちゃうからね』

『少しでもスピーディに』

『楽しめるように、これは守ってくださいねぇ』

『さて、それでは♪』

『ちょっと、ニャミちゃん』

 話を進めようとする相方の肩を叩く。

『ん?なに?』

『いや、なにじゃなくて。さっきその一って言ったよね?』

『うん』

『じゃあ、その二は?』

『――――――』

『ニャミちゃん?』

『さっそく最初の人、いってみよぉ♪』

『あーっ、無視したっ!』

 オチのない漫才を強制的に終了し、まだ飽き足りずツッコミをしてくる相方の背中を押して袖へと消えていく。

「―――フフッ」

「あ。ベルちゃん、楽しそう」

「え?」

「ほんと」

 笑っている事に口を挟まれ、つい笑いを止めてしまう。すると、リエ達は慌てて訂正した。

「あっ。別に笑っちゃ可笑しいとか、そういう意味じゃないよ」

「そうよ。逆に、笑う事はいい事だわ。特に、今のベルちゃんにとってはね」

「あたしに、とって?」

 二人の言葉が分からず、そのままこだまのように問い返す。

「んー。なんていうのかしら」

「初めて見た時のベルちゃんね。なんか、警戒してる猫みたいだったんだよ」

「猫?あたしが?」

「そう。まるでその腕の中の猫のようにね」

 まぁ、あなたは警戒してないけどね、とベルの腕の中で喉を鳴らしている猫の頭を撫でてやる。

 司会の紹介が入り、一番目のアーティストが舞台上に立った。スピーカーから流れ出る、神秘的なアジア風味な曲。

ピンスポットが幾方向から当てられ、不思議に歌い手の姿が浮かび上がる。

「ベルちゃん。貴女は自分でも知らない内に人に近づこうとしないし、近づけようともしない」

 赤髪の女は歌うわけではなく、手にしていた横笛に唇を重ねた。澄んだ音色が心を潤す。

「人が恐い?」

「そんなっ。あたしは、別に」

「ううん。ベルちゃんは人が恐いんじゃない」

 翠緑玉の瞳を覗き込み、こくんと頷く。

「ベルちゃんは、外人が恐いんだよ」

 そうじゃない?、と問い掛けてみる。

「外人が―――」

「日本には一人で来たの?」

「え?あ、はい」

「つまり、誰も肩を貸してくれる人がいない、と」

 つんっと鼻を突いてやる。

「だから自分一人でなんとかしないとって思っちゃったんだ。最初は言葉も通じない人達の中で生活しなくちゃいけな

 かったんだからね。でしょ?」

 リエの言葉に小さくハイ、と答える。

「無視されたら嫌だな、嫌われたら嫌だなって思わなかった?」

「―――思い、ました」

「それが原因よ」

 曲が終わった。着物の女はぺこりと頭を下げ、拍手を浴びながら舞台袖へと消えていった。入れ替わりに司会者達

が現れる。

「単純な考えだけど、近づかなければ嫌われない。近づけなければ嫌われない。十分警戒心を作りかねない理由よね」

「そんなっ―――」

「でも、今は違う」

 淡いライトが舞台を照らし、ギターの音がスピーカーを通さずに響き渡る。

「今のベルちゃんは違うわ」

「そうそう。もうあたし達に懐いてる―――ってのは変な表現だけど。警戒してないの、よく分かるもん」

「もっと人と触れ合おうとして。自分から。そうすれば、みんな貴女を受け入れてくれるはずよ」

「Rieさん……Sanaeさん」

 女ヴォーカルの歌声が大人の恋を歌う。

 お喋りなカスタネットが黙り込むと、再び拍手が沸きあがった。

「さて。こんな湿った話はここで終わりっ」

 パンっと手を叩き、空気を切り替える。

 ザワザワと客の話し声がひと時のBGM代わりになる。ある者は主催者が準備した食事を食し、ある者は顔見知り

の人と言葉を交わし、ある者は今さっきの曲にまだ酔いしれている。

「せっかくのパーティなんだから、もっと楽しもうよ」

「そうね。MZDも最初にそう言ってたし」

「あ、そうだ。もしよかったら、前のパーティの事とか聞いていいかな?」

「もちろん♪」

「何でも聞いて。そうね。いつのがいいかしら?」

「やっぱり最初からじゃないと」

「そうね。じゃあ、第一回のパーティの話ね」

 澄んだ、柔らかい声。ベルはサナエに声に母国の母を重ねながら、まるで寝る前に聴く昔話のように耳を傾けた。

 

「―――まぁ、こんな感じだったよね?」

「えぇ。あの時は全てが始めてで大変だったのよね、色々と」

 歌い手というよりダンサーだった女―――テレビでよく見るジュディと言ったはずだ―――が舞台上で司会達と楽し

そうに話しをしている。

『さーって、次のアーティストは?』

『ねぇねぇ、ジュディちゃん。一体どんな人だった?』

『え?どんな人って。そうだなぁ……まぁ、このパーティに変わった人が来るのはいつもの事だけど』

『をいをい』

『うん。清掃服が凄く似合ってた』

「―――え?」

 それは丁度サナエ達との会話にキリができて空白が出来たからか、それともたまたまなのかどちらか分からないが、

自然とジュディの言葉が耳に入った。

(清掃服?)

『清掃服って。確かにMZDが集めてきただけあって変わってるね』

『ちょっと、そんな事言ったら失礼だって』

『―――おーい、そこの二人』

 声はあっても姿は見えず。スピーカーからMZDの声だけが流れ出る。

『こいつを貶すのはいいけど俺を貶すんじゃねぇ。ほら、さっさと紹介に入れ』

『はーい』

『じゃ、ジュディちゃん。ありがとうねぇ』

『また後でねぇ』

『―――はいっ。それでは次行きましょう♪』

『次のアーティストは今回初登場♪』

『西新宿の清掃員。KKさんでぇす』

『では、どぞぉ♪』

 疎らな拍手の中、ジュディが言っていたように清掃服を着た男が出てきた。全身青で、所々に見えるピンクのアクセ

ントがバランスよくコーディネートされている。

「あの人」

 ベルは知らず知らずのうちに口に出して喋っていた。

「知ってるの?」

「え?いえ、知ってるというか―――」

(どうしよう。朝、清掃員の人だと思って声かけちゃったよ、あたし)

 リエ達に背中を向け、自分に問い掛けてみる。だが、勿論答えなど見つからない。

『んじゃ、曲の紹介♪』

『その名の通り『西新宿清掃曲』では、お願いします♪』

 無情にも、ベルの気持ちなど知らず、清掃員の男―――KKの演奏は始まった。

 

 ベルが一人で自問自答している間に彼の演奏は終わった。司会者が色々と問い掛けるが、何も答えずさっさと舞台

袖にはけていく。

「変わった曲だったね」

「ほんとね。ジャンルは……『パーカッシヴ』」

「何?それ?」

「あぁいう、音だけで表現する曲の事よ」

「へぇ―――あれ?ベルちゃん?」

「えっ?」

 キリの無い考えを打ち切り、顔を上げる。

「どうかした?なんだか凄く悩みこんでるみたいだけど」

「うっ、ううん。別にそんなのじゃないわ」

「本当に?さっきも言ったけど、無茶はしちゃ駄目よ?」

「分かってる……あたしっ。ちょっと、外で涼しんでくるね」

 握り締めていたコップを傍の机に置く。背中越しにサナエ達が呼び止める声が聞こえたが、わざとベルは気付かな

いふりをしてドアへと駆け寄った。

 

 別にやましい気持ちなどないが、出たと同時にドアを閉める。そして周囲に目を配ってみる―――誰も、いない。

「―――ふぅ」

 傍に設置されたベンチに腰を下ろし、これ以上となく重い溜息をついてみせる。

 防音整備がされているというのにライブの声はよく聞こえる。次の曲は異国、海の国を思い浮かべさせた。

「どうしよう」

 そんな楽しみは今のベルには遠くて関係の無いもの。考えなければいけないのは、もしKKと会ってしまった場合の対

処方法。

「あの時って、どう考えても参加者だって知らない風に言った感じに聞こえたよね?うん、聞こえた。というか……絶対

 に清掃員だって信じて疑わなかったし」

 声のトーンを落とし、自分に言ってみる。

(さぁ、どうするの?ベル)

 俯き、内股の膝を見つめるように床と睨めっこする。

 

(さーってと)

 防音のドアを開けると廊下に最大音量の曲が漏れた。後ろ手で閉め、そのまま無音で歩きだす。

 実のところ、本人はこのまま帰るつもりでいた。このパーティに出たのもただの気まぐれに違いないし、曲だって知り

合いに無茶を言って作らせた。

(ならさっさと帰れよな、自分)

 だが、彼は帰ろうとしない。

 誰もいないであろう廊下を一人歩き、ふと立ち止まって煙草を取り出す。火をつけると初めて音が生まれた。

「―――ふぅ」

 溜息混じりに息を吐き、一つしかない出入り口を目指す。

 脳裏を横切るのはあの外国人の少女。別に恋とかそういう下らない事ではない。ただ、彼女が自分の舞台を見たと

仮定すると、一体どんな風に驚いただろうと考えてしまう。

「ま。別にどうでもいいけどさ」

 白い煙が宙を舞う。

 ふと、KKはもし自分が彼女の立場ならどう思っただろうと考えを変えてみた。

(答えは)

 最後の角を曲がり、灰皿とベンチが各二つずつ設置された出入り口の前に出る。

(偶然出会う確率が高いライブハウス内にいるより、外で煙草吸ってる方が無難だな)

それでも会うものは会うけどさ、と自分に意見し、足を止めた。眼の前に、噂の少女がベンチに座っている。

(どうする)

 どうするにも中に戻るには、彼女の傍にあるドアから入るしか方法はない。彼女が寝ていない限り、自分の存在に

は気付くだろう。

(なら―――)

 わざと気付いてもらえるように足音をたてる。自分の足音を聞くなんて、実に久しぶりな事だ。

 

 最初に来客者に気付いたのはベルではなく、胸の中で丸まっていた猫だった。耳をピクピクされ、ニャーと一声鳴い

てベルの頬を舐める。

「んっ?どうしたの?」

 やっと顔をあげ、そっと猫の頭を撫でてやる。ベルなりには構って欲しいのだろうとあの鳴き声を解釈したのだ。だが、

本当の気持ちが伝わっていない猫はもう一度鳴き、ひゅんとベルの腕の中から飛び出した。

「ちょっ!待って、どうしたのっ?」

 猫は廊下のタイルを引っ掻く音を放ち、眼の前に現れた男の胸に飛び込んだ。

 ベルがその男に気付いたのは、猫の後を視線で追ってからだ。

「―――あ」

「よっ」

 短い言葉で二度目の出会いを祝う。

「こいつは俺の事覚えてたらしいけど―――?」

 あえて一番聞きたい事を濁し、相手に問いかける。とたん、猫はまた軽く身を翻し、ベルの元へと戻っていった。やは

り飼い主の方が気が安らぐのか、頬と頬を寄せ合い、ゴロゴロと喉を鳴らしている。

「もっ、もちろん」

 何故だろう。意味も無く強がって答えてしまった。

 KKはふーんと言葉を口の中で濁し、さっとだがベルを観察するように眺めた。

「なっ、何ですか?」

「いや、別に?」

 観察が終了し、不精ヒゲを撫でながら思った事をふと口にしてみる。

「猫が二匹」

「え?」

「いや、猫っぽいなと思って、お前」

「!」

『初めて見た時のベルちゃんね。なんか、警戒してる猫みたいだったんだよ』

 サナエの言葉を思い出し、またやってしまったと思う。

「ま。一応誉め言葉として受け取っとけ」

 吸いかけの煙草を灰皿に放り込み、ぽんっとベルの頭を叩く。

「―――あのっ」

 踵を返すと丁度KKがドアに手をかける寸前だった。

帽子のつばで見え隠れする眼を少女に向ける。

「何だ?」

「あのっ…そのぉ……」

 さぁ、一体どうやって言う?

 最終結論が出ていない答えをその場で探そうとする。どう考えても相手は自分の事を覚えているだろう。そして、多分

ただの清掃員だと思って話し掛けてしまった事も、少なからず気付いているかもしれない。

 ―――答えは。

「すみませんでしたっ!」

 さらさらの金髪がなびき、ベルの顔が一瞬隠れる。

 いくらなんでもこれまでは予想していなかったか。KKの反応は面白かった。ドアの取っ手に手を伸ばそうとした状態

で固まり、眼が点になったままになっていると、突然ドアが開いて後方へ派手に飛んだ。

「あれ?何だか重かったけど、気のせいかな?―――あれ?君、 ベルちゃんじゃない?サナエちゃん達が言ってた」

「え?えっ、えぇ」

「やっぱり。綺麗な金髪だからすぐに分かるよって言ってたから。あ、僕の名前はスギ。よろしくね」

「よっ、よろしく」

「じゃあ、僕これから袖待機だから」

 軽い足取りでKKが来た道を進んでいく。テンポのよい鼻歌を歌っていたが、多分彼の持ち歌なのだろう。

 スギの姿が見えなくなってから、ベルはふとドアに叩きつけられたKKの事を思い出した。

「けっ、KKさんっ?」

 ドアの後ろに回りこむと、受け身も取れずに倒れたKKの姿があった。猫が腕から飛び下り、空いた手で彼を抱き上

げようとする。が、その前にKKは自らの力で起き上がった。

「くそっ。あんな不意打ち喰らうとか―――俺も落ちたか?」

「大丈夫ですか?何処か、打ってません?」

「ん?あぁ、一応大丈夫だけどよ」

 軽く頭を振り、目線を合わせる。

「何が『すみませんでした』なんだ?」

「えっ?」

「自分で言っただろ?さっき」

「あっ、そっ、それは」

「それは?」

 俯いたベルの顔を覗き込む。

「それは―――」

 助け舟を出すように猫が鳴く。

 そこでKKはちょっかいを出すのを止めた。帽子のつばを掴み、ふぅと息を吐く。

「ま、無難な所で、どうせ最初見た時にただの清掃員だと思ったのに、実はパーティ参加者だった事についてのごめん

 なさいだったんじゃねぇの?」

 見事な図星にベルは耳まで真っ赤にして、こくんとだけ頷いた。

「―――すみませんでした」

「いや、別にいいって」

 慣れてるしと付け足して頭を軽く叩いてやる。

「にしても、お前。順番はまだいいのか?」

「は、はい。もう少し後だったはずです」

「そっか……中、戻るか?」

「―――はい。友達、待たせてますし」

「じゃ、行くか」

「あのっ、KKさん」

 呼ばれて素直に立ち止まる。今度は手でしっかりとドアを押さえているが、勿論ベルには気付かれないようにしてい

る。

「どうした?」

「あのっ……あの歌」

「あ?」

「あの歌、自分で作ったんですか?」

 耳を澄ませばすぐに思い出せる。街で普通に聞くあの音で出来上がった不思議な曲。

 KKはいや、と呟いた首を横に振った。

「あれは知り合いに作ってもらった」

「そう、なんですか」

「それがどうかしたか?」

「なら―――歌は、好きですか?」

 素朴な質問に再び戸惑う。少女は一体何が言いたいのか。その意味を探そうとしてみるが、純粋な彼女の瞳には裏

など無い。

「あぁ。好きだ」

「そうですか」

 KKの答えにベルは満足げな笑みを浮かべた。

 歌を好きな人に悪い人はいない。

 その考えに基づいて、KKはベルの中でいい人にランク付けられた。

「行きましょうか」

「と、その前に」

 ドアを開けようとしたベルを制し、問う。

「お嬢ちゃんの名前、まだ知らねぇや」

「あたし、ですか?あっ、すみません。こっちは知ってるのにまだ自己紹介してなくて」

「いや、それは別にいいけどさ。どうせパンフかあの司会者の紹介で聞いたんだろ?」

「はい。あたしの名前は、ベルって言います」

「ベル―――いい名前だな」

「え?」

 唇の端を釣り上げ、ドアを開ける。

「じゃ、またな」

 短い別れの言葉を口にして人の群れに溶け込む。一瞬にして彼の姿はベルの視界から消えた。

「あっ」

 さようならの言葉も告げられず、ゆっくりと目の前で閉まっていくドアを見送る。完全にドアが閉まると、ベルはまたベ

ンチに腰かけた。宙を見上げ、誰もいないのをいい事に円満の笑みを浮かべる。

「―――KKさん」

 初めてのコンタクトに、ベルは少なからず好印象を抱いた。

 

 二人の出逢いは別に素晴らしいものではなく、恋愛小説や少女漫画に憧れている人にとっては、少し物足りない出

逢い方だったかもしれない。それでも、今まで恋愛というものに興味が無かった三十路の男と、日本に留学してきた

ばかりの少女にとっては、十分印象的な出逢いとして、互いの記憶に深く刻み込まれた。ベルには人のよさそうな少

し変わった人。KKには猫のようなガキという風に。


同人誌用に書き下ろした小説やったんやけどね(涙)。

うん、寂しいからupする事にした。

ま、うちのKKとベルちゃんの出会いはこんな感じで。

普通っしょ?

いや、普通でも別にえぇかと思ってさ。

うん。

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