生まれ故郷―――六百年も昔の事だというのに、これだけははっきりと覚えている。

 あの街の風景、音、香り、雰囲気。

 全てが懐かしくて、もう一度あの頃に戻りたくなる。

 しかし、それは出来るわけのない事―――

 

「お母様?お母様?」

 夢から覚めると母親の姿がなかった。幼い子どもにとってそれは恐怖であり、無我夢中でベッドから飛び出すと安らぎ

を捜していた。

「お母様っ。お母様っ!」

 いくつ目のドアを開けた時だっただろうか。そう広くない室内に置いたソファに腰かけた母親の姿があった。廊下を駆

け巡っていた少年の声を聞いていたのか、眼を丸くした表情をすぐに緩ませた。

「あら。もう起きたの?」

「お母様っ!」

 スリッパをパタパタと鳴らし、母親の胸元へと飛び込む。

「あらあら、どうしたの?せっかくの美人さんが台無しじゃない」

「おっ……おかあ、さま、が…いなっ、なったから―――」

「私が?」

「いなかっ、たから…こわ、くて」

「―――ごめんね」

 細く白い手で少年の頭を撫で、安心させる為に耳元で囁く。

「ごめんね、私のユーリ。恐い思いをさせてごめんね」

 それは子守唄のような囁き。

「大丈夫。私はここにいるから、だからもう恐がらないで」

「―――はい」

「ほら、涙を拭いて。じゃないとお父様に笑われるわよ」

「お父様―――そうだ。お父様は?」

 呼吸も落ち着きだした頃に、少年―――ユーリは母親の言葉で父親がいない事に気付いた。

 母親はそっと眼を細めて笑って見せた。

「ちょっと街まで買い物へ行ってきてくれてるわ。もう帰るわよ」

「そうですか」

「どうかした?もしかして、寂しいのかしら?」

 母親の言葉に白い肌が耳まで真っ赤になる。

「そっ、そんなんじゃっ」

「そう?ユーリはまだお父様が恋しい年頃じゃない。甘えてても、別に悪くはないわよ」

「わっ、私はそんなに子どもじゃないっ」

「はいはい、分かっていますよ」

 ムキになりだしたユーリを宥め、いつも絶える事のない笑みを浮かべる。

 いくらどんなに怒ろうとも、ユーリはその笑顔を眼の前にして本気で怒る事はできなかった。

 

 時代は十四世紀。ルーマニアのとある城に異種族の親子が住み着いていた。人には見せないが真紅の羽、鋭い牙、

紅色の瞳を持つ彼らは、この世界では吸血鬼と呼ばれる種族だった。

 夫婦の唯一の子であるユーリは少し珍しいケースの子どもだった。どういう理由か、両親が人間界好きで生まれも育

ちも人間界なのだ。だが、だからといって人間に生まれたわけではない。両親の血を引き、羽、牙を持った吸血鬼なの

には違いない。

 人間達が住む街から少し離れた森の中にある一軒の城。人々はこの城の名をブラン城と呼んでいた。

 街に出る事をユーリは許されなかった。まだ子どもユーリには危険すぎるのだ。それでもユーリは外の世界を知りた

かった。その気持ちに答えれるようにと、母親は自分が生きてきた何百、何千年という月日を語った。父親も暇があ

ればありとあらゆる事をユーリへ教えてくれた。それが彼らの子どもへの愛情。ユーリは両親と一緒にいるそういう時

が好きだった。

 そう、あの時までは。

 

 空は、完全に闇に覆われた。森の中だけあって街の活気は聞こえず、その代わりに鳥のはばたく音や不気味に響く

鳴き声だけが恐怖を呼び寄せる。

 ユーリは一人寂しく読んでいた本から顔を上げ、夕食の片付けをしている母親を見上げた。

「お母様?」

「どうしたの?ユーリ」

「お父様は、まだ帰ってこないんですか?」

 止めずに作業を続けていた手が変に震えた。

「だっ、大丈夫よ。多分、私達を驚かせようとしているのよ。あの人は」

「なら、いいけど」

「ユーリ。もう眠いなら先に寝ていいのよ?」

「でもっ ―――ぅ」

「ほらほら。そんなに大きな欠伸しちゃって」

 エプロンで手を拭き、涙が溜まったユーリの瞳にそっとキスを落とす。

「先に寝なさい。お父様には私から言っておきますから」

「―――はい」

 本は読みかけで、父親にもおやすみなさいの言葉を交わしていないのに、今日は何故か母親の言う通り素直に寝る

事にした。睡魔で足腰がしっかりとしないが、左右に揺れながらリビングを出る。

 母親は遠ざかっていく我が子を見送り、突然表情を一転させた。

「――――――」

 複雑な表情を浮かべ、窓辺へと近づく。そこから見える街の風景は綺麗だ。だが、それに比例するように危険も多い。

「どうして、こんなに遅いの?」

 ユーリの事が心配で、自分の中で門限を決めた彼の帰りが遅くなるとは考えられない。

「何か、嫌な予感がする」

 羽が震える。小刻みに、前にちょっとした事故があった時にも同じような現象が起きていた。

 そして、その予感は当たった。

 激しい音と共に玄関が開けられた。続いてリズムが悪い足音も聞こえてくる。

「貴方っ!?」

 それが夫だと分かったのは、長年同じ時代を生きていたからだろう。

 長い廊下を走り、いくつかのドアを開け閉めして玄関へとたどり着く。そこにあったのは、真紅のカーペットの上に倒れ

た夫の姿がった。

 血の気が引き、眼の前が真っ白になる。

「っ―――貴方っ!!」

 駆け寄ると、彼が立ち上がれない状態になっている事に気付いた。背中には大きな斬り傷。そして、片羽だけになって

しまっている吸血鬼の象徴。

「どうしたっの?大丈夫なのっ?」

「―――静かにしろ」

「貴方っ」

「―――いいから。ユーリに、気付かれる」

 全身の傷から大量の血液を流しているというのに、残りの力を振り絞って妻の胸倉を掴む。彼女にだけ聞こえるよう

に囁き、鋭い痛みに耐える。

「そんなっ……一体何があったの?」

「街の、奴らが」

「え?」

「早く、逃げろ。このままでは、お前達、まで…殺られる―――っ!」

 大きく身体がしなり、手が力を失って離れる。

「逃げろ……ユーリを連れて、早く」

「そんなっ。貴方だけを残してだなんてっ」

「私の言う事が聞けないのかっ!!」

 同族の吸血鬼ですら怯えてしまう鋭い眼。その瞳に睨まれると妻ですら反論できなくなる。

 開け放たれた扉の向こうには広がる森。いつもは闇しかないそこに、今はぽつりぽつりと光が生まれる。次第に聞こ

え出す人間達の声。

 殺せ。

 殺せ。

 吸血鬼を殺せ。

 殺せ。

 殺せ。

「もう、来たか―――足止めも、ほとんど無駄、だったって、事か」

「貴方っ。もう喋らないでっ」

「―――くそっ。一体私達が何をしたというのだ人間っ!!」

 怒りませかに床を叩く事もできず、床に吸い寄せられたまま毒づく。

 松明の火が近づいてくる。

「逃げろ」

「――――――」

「早く逃げろっ!」

「―――貴方は?」

「私、か?」

 血の流れが止まった。ふらつく足に鞭打ち、腕をついてゆっくりと立ち上がる。

「私は、ここで散るのを覚悟で、お前、達を、生かす」

 長い爪が折れた指。中には剥げた指もあるが、痛みなど感じず指を鳴らす。

 血は命を吹き込まれた。一度小さく揺らいだかと思うと大きく揺れ、無数の生き物へと姿を変える。

「逃げろっ!!!」

 決意を帯びた声。

 光は、もう眼の前まで近づいてきている。

「―――貴方」

 妻に最後にできたのは一つ。

 祝福のキス。

「お願い。散るなんて言わないで。私はユーリを連れて逃げるわ。だけど―――絶対に、貴方も後から来て」

「―――分かった」

 後ろ髪引かれながら、何度も振り返り、夫から離れる。

 カツカツと踵が石床を蹴り、開けっ放しのドアの向こうへ消える。

「―――逃げろ。遠くへ…逃げるんだ」

 ユーリと瓜二つといえる父親が最後の笑みを浮かべる。

 どうかユーリと二人、無事に生き残ってくれ。

 背後で人間の声を聞く。

「―――やっと来たか」

 片翼の死神が振り返る。

「私は無駄な殺しが嫌いだ。死にたくない奴は―――さっさと帰るんだな」

 

「―――ユーリ?」

 遠くで母親の声が聞こえたような気がした。

「―――ユーリ。起きなさいっ」

 それが夢ではなく現実だと分かるまでに、少し時間がかかった。

「あぁ。ユーリ、起きたのね」

「お母、様?」

 眠り眼を擦りながら見つけたのは、何故か切羽詰った母親の姿だった。

「どうしたんですか?」

「いいからっ。早く、逃げるわよっ」

「えっ?」

 理由など説明されない。ただ細い腕を掴まれ、力一杯引っ張られる。

 お互い寝間着のまま部屋を飛び出し、階段を下りて裏口へと出る。

「―――まだこっちには気付いていないようね」

「お母様?」

「貴方は心配しないで、ユーリ。私は何があっても貴方を守るから」

「お母、様」

 本当はもっと聞きたい事があった。なのに、人間達はそれを許してはくれなかった。

 騒がしい声が二人の行き先を封じる。

「お母―――っ!」

 月夜に見上げた母親の表情は、涙を流していた。

(貴方。会える、わよね)

「痛っ」

「こっちよ、ユーリ」

 腕が抜けるほどの力で引っ張られ、そのまま行った事のない裏へと連れてかれる。

 雑草が自由に生えたその場所には何も無い。ユーリにはそう見えた。

 大人の腰ほどの高さはある雑草を掻き分け、その奥から一つのドアを見つけ出す。

「それは?」

「ちょっとした隠し部屋よ。道が狭いから子どもしか通る事のできない、絶対安心な部屋」

 吸血鬼の力を使い、錆び付いた鉄の扉を開ける。

「ユーリ。さぁこの中に」

 引っ張られるがままに中に放り込まれる。

「お母様っ!」

「ユーリ……貴方だけでも生き延びて」

「お母さっ―――」

 差し出された小さな手を無視して重い扉を戻す。何百年もの月日の間にチョウツガイが錆び付いてしまった扉は、

吸血鬼ほどの腕力がないと再び開ける事はできない。

「ここは私がこの命に代えてでも助けるわ。だから、死なないで―――ユーリ」

 背後で草の踏む音がした。

(―――貴方。先に逝ってしまったのね)

 紅色の唇を噛み、一筋の涙を流す。

 

 空は、それから何度も色を変えた。

 

「―――お母、様―――」

 あれから何日、何年経ったのだろう。

 暗闇が支配する空間で、ユーリはただ母親が自分を迎えに来るのを待っていた。

「―――お父、様―――」

 何も口にしていない喉はカラカラで、声を出すだけで血が出てきそうになる。

 自分の膝を抱いている手ですら見えない。なのに理性を保っていられるのは、彼が吸血鬼だったからだろう。

「―――お母、様―――」

 呟くのは毎日同じ事。

「―――お父、様―――」

 いつか迎えに来てくれるはずの両親を呼び続ける。

 

 と、そんなある日の事だ。

「―――お母様―――」

 呟いたのは同じ言葉。

 それを邪魔するかのように騒がしい音が暗闇を切り裂いた。同時に差し込んだ一条の光。

 ユーリは何年ぶりかに見る光に眼を細めずにはいられなかった。

「―――お父様?」

 思ったのは勿論両親の事。

 やっと自分を迎えに来てくれたんだ。ここから出られるんだと小さな希望を胸に宿す。

 だが、逆光の奥から現れたのは普通の人間だった。

「!?」

「あら?」

 それは若い女の声。カツンカツンと踵を鳴らして穴の中へと入ってくる。

「あっ……ゃっ」

「どうしたの?」

 狭い入口に少し苦戦しながら、四つんばいになってユーリへと近づく。

「…るっ……くぃ…なっ」

 搾り出す声は言葉にならず、枯れた涙だけだ流れる。

「あ。あの、あたしはね―――」

「来るなっ、人間っ!!」

 狭い空間にユーリの声は嫌でも響き、突然現れた女も動きを止めた。

 笑みが悲しみを帯びた表情へと変わる。

「そうか。君が、あの吸血鬼なんだ」

「っ!」

「今まで、ずっと一人で」

 そっと右手を差し出す。

 ユーリはその手から逃げるように限りない奥へと後進した。

「―――来るな」

「大丈夫。あたしは君の敵じゃないから」

「―――来るなっ」

「お願い。言う事を聞いて」

「来るなっ!」

「君のお母さんに頼まれたのよっ?」

「―――え?」

 懐かしい響きの単語に、初めて女の顔を見ようとした。

 まだ逆光で見づらいが、肩にかかるほどの短い髪。色は茶で、とても細く艶やかに見える。見つめる瞳は澄んだ翠

玉。シンプルなワンピースを着込み、細い手足が見え隠れしている。

「お母、様に?」

「えぇ」

「お母様はっ?」

 自分でも信じられないほどの瞬発力で女の胸倉を掴み、そのまま押し倒してしまいそうになる。

 女は足に力を入れて踏みとどまると、顔を伏せて答えた。

「―――居ない」

「え?」

「君のお母さんは、もう居ないの」

「そん、な……じゃっ、じゃあ、どうして?どうしてお母様に頼まれたなどっ―――」

「見たのよ」

 握り締めた手が力を失ってだらんと重力に引かれる。

「あたしね。なんか、霊とか見える体質みたいなの。それで……あ、あたし本当はパリに住んでるんだけど、たまたま仕

 事でここに来たの。そうしたら、誰かに呼ばれてるような気がして」

「誰かに―――?」

「えぇ。それで、今日暇だったから来てみたの。そしたら入口には乾ききった血の海」

 微かにユーリの身体が震える。

「あたしを呼んでる声は城の裏からだった。だから裏口に回ってみると、そこに文字通り透けた人がいた」

「もし、かして」

「そう」

 落ち込まないでと言っている瞳でユーリを見つめる。

「それが、君のお母さん」

「――――――」

「俗に言う霊体だったあの人は、あたしに君を託して消えちゃった」

「―――そう」

「多分、成仏したんだと思うよ。だから」

 スッともう一度手を差し出す。

「あたしのところにおいで」

「―――どうして」

「ん?」

「どうして吸血鬼の子どもを庇おうとする?」

 吸血鬼は化物だと言われ、人間は彼らを嫌っている。でなければユーリの両親は殺される事はなかっただろう。そん

な彼を自分の元に置こうとしている彼女の考えが、ユーリには分からなかった。

 彼女の答えは、優しげな笑みだった。

「だって。吸血鬼も人間もよく似たものじゃない♪」

「―――は?」

「それにぃ」

 ポンポンとユーリの頭を叩き、胸元へと引き寄せる。

「子どもなんだから、もう少し甘えてもいいんじゃない?」

『そう?ユーリはまだお父様が恋しい年頃じゃない。甘えてても、別に悪くはないわよ』

 女とかぶる、懐かしい母親の面影。

「―――お母様―――」

「え?」

「何でもない」

 熱くなる目頭を押さえ、軽く女の肩を押しのける。

「そんなに言うなら世話になる」

「―――少しは素直になれば?」

「五月蝿い人間。それに私は子どもではない」

「あたしから見れば十分子ども。それと、あたしにはちゃんとアンヌって名前があるんだから」

「――――――」

「君の名前は?」

「私の、名前?」

「えぇ。これから同じ一つ屋根の下で暮らすんだから」

「―――ユーリ」

 消えてしまいそうな声で呟く。

 とたん、アンヌの顔に笑顔が咲いた。

「ユーリ、ね。これからよろしく、ユーリ」

「―――世話になる」

 アンヌの笑顔に答えるように少し引きつった笑みを浮かべる。

 二人はその時、家族になった。

 

 その日のうちにアンヌはユーリを連れてルーマニアを後にした。目指すは彼女の住む国フランス、パリ。初めて城から

出るユーリにとっては、全てが珍しく新鮮に見えた。そんな彼がとても可愛らしくて、アンヌは笑顔が絶えなかった。勿

論、そのせいでユーリの機嫌が悪かったのは言うまでも無いが。

 電車に揺られ揺られて、数日後。二人は最後の国境を越えた。

 

「何?今、なんて言った?」

 それは、パリについて最初の夜だった。

 アンヌの家はユーリが住んでいた城に比べれば犬小屋程度の大きさだったが、文句をいうはずもなく通されたリビ

ングで新聞を片手に部屋が準備されるのを待っていた。

「だから、今日は何日だと聞いているんだ」

「何日って―――もう少し年上に対して口の聞き方を考えたほうがいいよ?」

「実際には私の方が年上だ」

「もう。口だけは本当に達者なんだから」

 今まで物置同然に扱っていた客室からガラクタを抱いたまま出てきたアンヌは、嘆息混じりに笑みを浮かべた。

「六日よ」

「―――聞き方が悪かった。何年だ?」

「千五百三年よ」

「――――――」

「どうかしたの?」

「いや、なんでもない」

 新聞を畳み、すっとソファから立ち上がる。

 カーテンを開けると見た事もない新しい街。

(千五百年、か)

 計算すると、軽く五十年はあそこにいた事になる。

「―――人間ごときの分際で」

「ユーリィ?」

「ん?なんだ?」

 爪を立てた新聞紙を無人のソファに放り投げ、声のした方へ向かう。

 そう、人間は所詮人間。吸血鬼とは似て異なる者。

(ころあいを見計らって)

 ここを抜け出させてもらう。

 それが、パリに来てすぐ考えたユーリの計画だった。

 

 の、はずだったのだが。

 

「あ。ユーリ、おはよう」

「―――おはよう」

 眠り眼を擦りつつ、ユーリ専用となった椅子に腰掛ける。

「はい」

 アンヌはもう食事を済ましたのか、机に一食分だけ置く。

 時は流れた。それはユーリにしてみればたった数日のような感じがするが、少しずつ衰えてきているアンヌを見ている

と、人間の限りを初めて知る。

 我侭な王子がこの家に来た日から、同居人は増えずも減らずもしていない。幼いユーリにとって、アンヌの温もりは懐

かしい母親の物に似ているからだ。

 何度も自分に自問自答してみる。どうしてまだここに居るんだ、と。すると自分は、独りになりたくないと答えた。それを

聞くたびに、ユーリは自分も弱くなったものだと毒づいた。

 時は流れる。誰にも止められる事のない、無限の砂時計。

 

 永遠に続くと思っていた夢は、所詮は夢。

 

 耳障りな音にユーリは夢から眼覚めた。

 むくりと起き上がり、暗い室内に眼を配る―――別に何も見えない。

(外―――アンヌがまた寝ぼけているのか?)

 今までに数度あった事だけに驚きなどしない。嘆息し、ベッドから下りる。

 締め切った室内だというのに空気は冷たく、傍の椅子にかけておいたカーティガンを羽織る。

「アンヌ?」

 靴が床を擦る。

 まだ開閉を繰り返す瞼が睡眠を促しているが、眼をこすって睡魔を打ち消す。

 ドアを開けると眼の前はリビング。アンヌの部屋は壁を挟んでユーリの隣りだ。

「アン―――」

 しかし、広がっている光景は、寝る前にみたものとは確実に違った。

「ユッ…ユー、リ」

 消えてしまいそうな声に気付き、声の主を捜す。

「!?」

 そこにあったのは、ソファに押し倒され、首を絞められているアンヌの姿だった。

「アンヌっ!」

「ユッ、リ……逃げ、て―――早っ」

「お。こいつが噂の吸血鬼か」

(何っ?)

 普通の日常が続いて忘れかけていた単語が脳を刺激する。

 アンヌの首を絞めていた男は立ち上がると、そのイカレた瞳をユーリに向けた。

「悪ぃな。これも仕事なもんでな」

「―――何だと?」

「お?子どもの癖に大層な口調なこって」

「今、何と言った?」

「聞こえなかったのか?仕事で」

 腰からぶら下げていた銀色の短剣を引き抜く。

「お前を殺しにきたんだよ。吸血鬼」

「ユーリは吸血鬼なんかじゃないっ!」

「なっ!?」

 呼吸を整えたアンヌが背後から男に飛びつく。その弾みで男の手から短剣が転がり落ちた。

「ユーリっ。それをっ」

 言われる前に身体が動いていた。男の手より早く短剣を奪い取る。しかし、それを長時間握り締める事はできなかっ

た。眼の色を変えてすぐに後方へ放り投げる。

「ユ……リ?」

「これは―――銀?」

「あぁ、そうさっ!」

「きゃっ!」

「アンヌっ」

 男の怪力にアンヌが吹き飛ばされる。

「けっ。やっぱ吸血鬼じゃねぇか、お前は」

「―――違う」

「何が違うっていうんだ?吸血鬼の弱点は銀。その銀をこいつは嫌った。これ以上の証拠が何処にある?」

「ユーリは吸血鬼じゃないっ!」

 床に叩きつけられた拍子に何処か打ったのか、倒れたまま立ち上がらない。

「ユーリは、ユーリは人間よっ。吸血鬼じゃないっ」

「ったく。五月蝿いな、この尼は」

「―――五月蝿いのはお前ではないのか?」

「ぁあ?」

 生意気な口調に男の表情が一段と引きつる。

「てめぇ、今なんて言った?」

「ユーリ……駄目っ」

「聞こえなかったのか?五月蝿いのはお前ではないのか?と言ったのだが」

「駄目っ」

「ガキが。年上に対しての喋り方を教えてもらわなかったようだな」

「お願い」

「―――何だと?」

「逃げて」

「結局は吸血鬼ってわけか。この世のクズが」

「早くっ」

「そのクズはお前じゃないのか?」

「お願いだから早く逃げてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!」

「ったく。うるせぇんだよっ!!」

 振り向き、新たな何かを腰のポケットから引き抜く。

 全ては一瞬だった。

 パンという音が響き、続いてドサッとサンドバックが倒れた。

 広がる紅色の液体。

 硝煙の上がる銃を握り締めたまま、男が肩を荒々しく上下しながら毒づく。

「くそっ。無駄な弾を使っちまったじゃねぇかよ」

「―――アンヌ」

 倒れた身体に近寄ろうとするが男がその道を阻む。

「おーっと。涙のご対面はここじゃないんだなぁ」

 ユーリの頭元で銃弾を特殊な物に交換する。

 見上げてくる鋭い瞳。

「けっ。そんな眼で見たって無駄だったんだよ」

 弾を込め終わり、銃口を小さな頭へ向ける。その間、約十センチほど。

 黙り込んだままユーリは動こうとしない。ただ床を見つめたまま、電源の切れた電化製品のように。

「お?無抵抗か?ま、その方がこっちは殺りやすいからいいんだけどな」

 カチリと嫌な金属音が響く。

「―――Good Bey」

 引き金を絞り込む音。

 鉛弾から銀弾に交換された銃弾が発射される。

 防音装置が音を吸い込む。

 穴が開いたのは―――床だった。

「が、はっ……」

 断末魔はあっけなく、その場に倒れ込む。

 生き残ったのはただ一人。荒い呼吸を整えながら死体を見下ろす。

「――――――」

 紅色に染まった爪から液体が伝って落ちる。

「―――アンヌ」

 鉛でも足にくくりつけたように重い足取りで前進する。たった数十センチの距離だというのに、アンヌとの間がとてつも

なく長く感じる。

「アン、ヌ」

 その場に膝をつき、血で染まった手でアンヌの身体を持ち上げる。

「アンヌ―――?」

 あの男もある程度腕がよかったのか。銃弾は見事に脳を貫いていた。どうやら即死だったらしい。苦しまなくて死ね

ただけ、まだ幸福だっただろうか?

「アンヌ―――すまん」

 もう動かない心臓に触れるように頭を埋める。

 遠くから聞こえてくる騒音。下品な声が、合図や銃声などと叫びながら近づいてきている。

「―――まだほかにも居たか」

 これ以上被害が及ばないようにアンヌを安全な位置に移動させる。

「待ってろ。すぐに馬鹿を黙らせる」

 月光が銀色の髪を照らし出す。

「夜は、これからだ」

 

 それからは何をしたか、はっきりと覚えていない。ただ本能の思うがままに人を殺していたと思うからだ。そして血の

海に身体を委ね、アンヌを連れて人間界を去った。もう、あそこに住む気はなくなったからだ。

 メルヘン王国の者だけ、人間界とメルヘン王国を行き来する事ができる。異次元の道を作り出し、人間界とはまっ

たく別の世界へと出る。ここには人間界に来る前に親が住んでいた城が残っている。誰も邪魔しない、今ではユーリ

一人しかいない城。

 城の裏に広がる薔薇園。何百年も手入れしていないというのに、薔薇は親の代から枯れる事なく咲き続けている

たようだ。そこに、アンヌの遺体を埋める事にした。

 薔薇が、一段と紅色を増したかのように見えた。

 

 それから、また何百年が経ったのだろう。

 

「ユーリィ♪」

 五月蝿い声が朝っぱらから耳を刺激する。

 清々しい朝の朝食。アッシュに無理を言って部屋までもってこさせた食事を、ベランダでまだ緩やかな朝日を浴び

ながら食す。せっかくの朝が台無しだ。

「ユーリィ♪♪」

 激しい音をたててドアが開く。

 誰も入室を許可していないのだが。

「ユーリ、起きてるんでしょ?」

「―――あぁ」

 不機嫌な瞳を突然の乱入者に向ける。

「何しに来た。スマイル」

「えーっとね、えーっとね♪」

 よく朝からそんなにテンションが高く保てるものだ。

 飽きれて紅茶を一口飲み干す。

 スマイルは軽い足取りでルンルンと近づいてくる。

「聞いて♪」

「聞きたくない」

「―――冷たいなぁ、ユーリは」

「冷たいのは今に始まった事ではない」

「もうっ。あのね―――」

 

 気付けば太陽の下を歩いていた。

『聞いてよ、ユーリ』

 城で聞いたスマイルの台詞を思い出す。

『アッシュがね、女の名前を言ったんだよ?』

 変装道具もつけずに、ただ黒いスーツで身体を包んで歩いている。

『ベルって。ほら、この前第五回ポップンパーティあったでしょ?あの女』

 声を出して笑ったスマイルと視線が合うと、彼は不気味な笑みを浮かべた。

『気になる?』

(―――別に)

『〇〇にある古本屋でバイトしてるんだって。行ってみれば?』

 言うだけ言ってスマイルは部屋出ていった。残ったのは騒音の名残だけ。

 そして今に至る。

(どうしてそこに行こうとしているんだ)

 理由は分からない。だが、アッシュの事は別として、そのベルという女の事が気になって仕方が無い。

『教えてもらったっス』

 次に思い出したのは、その後にアッシュと話をした時の会話だ。

『何をだ?』

『―――バンド名の事っス』

『そうか』

『ユーリは、あの意味を知っていて、この名前にしたんスか?』

『意味も知らん名前をつけてどうする』

『そう、っスね』

 一通り思い出して嘆息する。

(だから、それが何だというんだ)

 自分にはそう言い聞かせるが、身体は言う事を聞かない。

 気付けば足は例の古本屋の前に着いていた。

(ドアが開いている?)

 隙間を見つけ、そこから中を覗き込んでみる。視界に入ったのは無数の本棚と本の山。本当に本屋らしい。

(例のベルという女は―――!)

 カウンターを見つめ、ユーリは声を飲んだ。そこに居たのは、

(―――アンヌ)

あの育ての親に瓜二つの女だった。

 

それが、新たな出会いの始まりだった。


やっと書き終わりました、ユーリ過去話。

そんなこんなで無理やり繋げたような話なんやけどね。

うん、ルーマニアの城とかおもいっきし現実の吸血鬼話とリンクさせたしね。

あと、アンヌの子孫がベルってのは後から付け足した設定。

いや、これならよいかいなぁと思って。

さてはてなんか消化不良かもしれんけどどうでしょうか?

02.10.5

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