信長治世 第六

諸国蜂起の事

元亀元年夏、越前国の朝倉左衛門佐義景、江北の浅井備前守長政と一味同心して信長に背き、その後数度戦った。これに加えて機内の大坂門跡(本願寺顕如)が謀反を企て諸国の一向宗がこれに同心した。東国では甲州の武田入道信玄が戦いを挑み、北国では長尾入道謙信がその隙をうかがった。関東では北条氏政が武威をたくましくし(陸奥出羽)両国では葦名盛隆、伊達輝宗、県義秋(最上義秋?)らが蜂起した。中国では安芸の毛利が出雲の尼子に戦いを挑み西国では大友、島津らが武威を争った。戦国七雄の様相が今眼前にあるようであった。

長島一揆の事

元亀元年秋、摂津国大坂の門跡(本願寺)謀反により一向宗の僧達が全国に出張った。ここに北伊勢長島近辺の島々の海賊がこれに属し要害に篭って一揆を起こした。男は退くべからず、女は嘆くべからずの誓いを立て心を阿弥陀仏の請願に託し、さらに命を失う事を悲しまなかった。征伐を恐れず、島々を襲って略奪して悪を働いた。故に滝川左近将監一益は長嶋で一日中戦ったが、一揆らは志を一つにして滅ぼしがたいものであった。伊勢国にも、また一向宗の本寺があったがこれは一揆の仲間ではなかった。安濃郡一身田がこれである。これは元は下野国高田山専修寺であった。大坂(本願寺)より格が高いと言う。故に一揆に加わらなかった。この寺は親鸞上人から10代後、真慧上人が永正(寛正)の頃に初めて寺を建て、その子応真上人は飛鳥井(雅通)の子を養子に取り堯慧と名乗った。乙部兵庫頭藤政の婿となった。その子堯真上人は信長の姉婿、犬山鉄斎の婿であると言う。

神戸隠居の事

信長は勢州の諸家を押さえ、養子を入れてこれを治めた。故に(伊勢の各家は)外面的には帰服し、内心ではないがしろにしていた。それぞれ思うままに出来ず年月を送った。中でも神戸蔵人(友盛)は元は関盛信の子勝蔵を養子にする約束をしていたのにこれを違えた事により、関、神戸はともに三七丸(信孝)を蔑ろにしていた。信長はこれに憤った。元亀二年正月、神戸友盛夫妻が、年始の挨拶のため近江の日野に来たとき、信長はこれを捕らえ隠居させ蒲生家に預けた。一度決めた事を決断しないときには禍が来る事はこのとおりである。この時、神戸の領地を検地し、神戸侍の所領を削り、尾張侍に与えた。また、高田孫右衛門尉に命じて神戸城で高岡城主山路弾正忠を誅殺した。彼の父正幽は神戸楽三の婿である。故に弾正忠以下の子は楽三の孫である。弾正忠の弟河木九之丞、山路弥右衛門尉もまたこれを討とうとし、討手を宿所に向けた。二人とも敵中を抜け逃げる事が出来た。人はこれ誉めたという。高岡城は小嶋兵部少輔(信孝の異父兄弟)に与えた。その後に尾張侍と神戸侍は仲が悪かったため、神戸の与力堀内・河西、家老の本田・高田・村田・岡田・山路・高瀬以下佐藤・佐々木・岡部・疋田・馬路・片岡・伊藤・古市ら480人が一味同心して三七丸を奉じた。これを神戸四百八十人衆と言う。

長嶋発向の事

元亀二年5月、信長は近江、尾張、美濃の5万の兵を率いて北伊勢の長嶋に出陣した。津島口(信長本隊)中筋口(佐久間信盛)西美濃多芸口(柴田勝家)の三方に分かれ島々に攻め込み残らず放火して軍を収めた時に一揆はこれを追撃した。柴田修理亮勝家以下が戦った。この時一揆らは氏家常陸入道ト全を討ち取り、信長軍は敗れた。

信雄祝言の事

ご本所の具房は茶筅丸を養子とし3年船江薬師寺に置いた。元亀二年夏の頃、大御所具教の娘、自分の妹を養女とし茶筅丸の正室に定め船江で祝言を挙げ、その後大河内城に移した。

三瀬御所の事

その頃、具教卿は城を多気郡三瀬に建ててそこに住んだ。故に三瀬御所と呼ばれる。この谷は宮川の川上、大杉山にあって伊勢神宮の奥の院定宮があった。熊野、十津川、吉野、川上に続いて険しい土地である。兵乱がある時はこの山中に入るためと言う。

君達元服の事

元亀3年春頃、信長の子達が岐阜城で元服した。嫡男の奇妙丸は秋田城介信忠と号し16歳である。次男茶筅丸は北畠三介信雄と号し15歳である。三男三七丸は神戸三七信孝と号し15歳である。子供たちの成長により、いよいよ、信長の武威は強大になり、人々はこれを羨んだと言う。

具教陰謀の事

元亀4年正月、甲斐国武田大膳大夫信玄入道が威を東国に振るい天下を取ろうと志し、遠州三方が原に攻め込んだ。三瀬御所(具教)は信玄に与する志があり密かに鳥屋尾石見守を使者としてその旨を告げた。3月には国司は使いを出して上洛のときには迎えの船を出すだろうと告げた。しかし、信玄の命運も尽きて、不慮に病没した故に上洛が出来なかった。

盛信勘当の事

元亀4年春、関安芸守盛信は信長の勘気に触れ、日野蒲生家に預けられた。先に六角家の一味となり、近頃は信孝を蔑ろにしていた。故にこのような仕儀になった。これによって関領の新城以下は信孝についた。関家の与力宇野部・荻洲、家老の井上・高楠・岩間・穂積・葉若・松林以下豊田・桜井・佐野・中嶋・草川・井坂・田名瀬・山賀等、あるものは信孝に仕え、あるものは浪人になった。中でも葉若九郎左衛門尉は関家に奉じ日野で薪を拾い、水を汲むなど一人忠節を尽くして皆がこれを誉めたという。

信長将軍の事

足利大納言源義昭卿は信長の武威を以って将軍職に任じられ世を治めること数年に及んだ。しかし、将軍としての器量は無く貪欲の人であった。罰するべき者には賄賂を得るために許し、許すべきものには財を奪うためにこれを罰した。主君に欲が在って、なんで国が治められるだろうか。信長は(義昭を将軍にした事を)悔いて、諌書を送った。暗主は必ず諌めを拒んで讒言を聞き入れる。故に義昭卿は元亀4年4月謀反を企て信長を討とうとした。信長はこれを聞いて京都に攻めあがり、合戦に及んだ。義昭軍は利を失って和睦を請うと信長は君臣の礼を重んじてこれに従った。しかし、義昭卿は7月に再び謀反を企て、信長と断交した。んぶな雅は再び攻めあがり義昭は遂に敗北した。信長はなおもこれを敬い命を助け中国に流罪にした。この時に足利将軍家は滅亡した。霊陽院がこの人である。その後信長は将軍に任じられ(史実ではない)天皇を主君として天正元年と改めた。日本国は君子の国である。故に皇室を以ってこれを敬うべきである。また近年、朝倉・浅井の両家が一味して数度合戦を挑んだ。同年8月遂に両家を滅ぼした。これによって諸国は平和になり皆が万歳を歌った。

長嶋出勢の事

天正元年9月、織田信長は数万の軍を率いて北伊勢に進出、長嶋を攻めた。この時、近江勢が西別所の要害を破り、柴田(勝家)・滝川(一益)が片岡城を落とした。信長が軍を収めるとき、一揆らはこれを追撃し林新三郎を討ち取ってまた、織田軍が敗れたという。

長嶋退治の事

天正2年7月、信長、信忠親子は美濃、近江、伊勢、尾張の兵8万を率いて長島に向かい、これを攻め破ろうとした。数十日在陣した。9月下旬、遂に長嶋一揆は滅亡した。しかし、同月29日織田大隈守(信長兄、信広)以下、将10数名が討ち死にしたという。この時北畠三介信雄、神戸三七信孝は大島城を攻めた。長野上野介信包は唐櫃島城を攻めた。また、伊勢国の住人、峯八郎四郎、同鹿伏兎六郎四郎は信孝に付いていて討ち死にした。また、関盛信の嫡男関四郎(盛忠)は蒲生家についていて長嶋で討ち死にした。その頃、蒲生家は柴田の与力となって大鳥居城を攻めるとき蒲生忠三郎氏郷は比べようがないほど働いて敵中に入り剛の者と組み合い、首を取って信長に捧げた。信長はこれを見てあざ笑って「首を取るのは兵の仕事である。お前が危険を知らずに首を取ったのは手柄ではない。」と言った。その後、信長は長嶋を滝川に与えて軍を収めた。また、長嶋の残党を諸所で討ち取った。そのうち落ち延びた人々が南勢の縣(松坂市)の法蔵寺に立て篭もった。信雄は本田・船江衆に命じてこれを討ち取らせた。

峯、鹿伏兎の事

長嶋合戦で峯氏と鹿伏兎氏は討ち死にしたので、信孝はその所領を没収した。まず、峯八郎四郎には子が無く、その弟峯与八郎は幼少だったのでわずかな土地のみ与えた。峯城は岡本太郎右衛門尉に与えた。故に峯家の与力山尾・堀内、家老の下井、大窪、青木、白木、森、伊藤らはこれに属した。鹿伏兎氏も若輩であって子がなかった。長老の鹿伏兎右京亮、坂隼人佑が跡目を訴えたため減封して伯父の鹿伏兎左京亮がこれを相続した。

長篠合戦の事

甲斐国武田四郎源勝頼が三河表に出陣し、徳川三河守家康に戦いを挑んだ。信長親子は天正3年5月に諸国の軍を率いて三河の長篠に出陣した。21日に武田家と合戦し敵をことごとく滅ぼした。このとき先陣左は徳川家康、右は佐久間信盛、二陣左は羽柴秀吉右は滝川一益であった。信雄、信孝、信兼らは中陣を守った。以上15陣である。敵が敗走するとき一益が攻めかかり、滝川勢はことごとく武威を振るったと言う。

越前発向の事

同年8月信長親子は越前国に出陣し一向宗の僧侶・一揆をことごとく退治した。勢州の四家(滝川、神戸、関、長野)も出陣しそれぞれ、手柄は比類が無かったと言う。

田丸家督の事

天正3年、信長は、北畠信意(具房)を左近衛中将に任じ隠居をさせた。また大河内御所(信雄)を田丸に移した。これによって信雄は冬に田丸に移り北畠の家督を継ぎご本所と号した。その後に右近衛大将に任じられた。この時田丸中務少輔(直昌)は岩出城に移りその父田丸具忠は隠居して一之瀬御所と号した。具房は田丸城に在城した。

国司使者の事

天正4年正月、国司は鳥屋尾石見守、その甥、右近将監を使者として年頭の挨拶に岐阜城に向かわせた。信長はしばらく対面しなかった。右近は怒って「信長は我が主君ではない、無礼である」といって、石見守を誘って帰ろうとした。石見守が同意して帰ろうとしたとき、信長は使者を立ててこれを戻らせた。石見守、一生の不覚であると言う。信長はこれに怒り、進物を砂の上に置くと縁側から薙刀を振るって鳥屋尾に見せて奥に入ったと言う。石見守はこれを見て信長は国司家を滅ぼす気だと知ったと言う。権威を露骨に見せるのは和睦する気が無いゆえである。

安土普請の事

同年の春、信長は配下に命じて白を近江国安土山に建てさせた。七重の天守を立て堀を深くし石垣を高くさせた。天守は信長が初めて作った。諸侯は争ってこれを作った。普請は争えば労して功が無い。この時信孝は器量に優れ金の采配を持ち音頭をとった。その様は真に美麗であった。時の人は伊勢神戸三七様の儀を今様の小唄に作り唄った。信長はこの城に入り近江侍を旗本にした。岐阜城は秋田城介信忠に譲り、美濃侍をこれにつけた。

長嶋篭城の事

同年の夏、伊勢国度会郡の住人赤羽新丞は富者であり、信雄に仕え忠勤を抜きん出て熊野山(紀伊国熊野)を取るように進言し、大将を要請した。信雄は加藤甚五郎に(紀伊の)長島城を与え熊野山の押さえとした。甚五郎は元は仙阿弥と言って信雄の同朋であり、加藤治部左衛門尉の子である。織田掃部介の小舅にあたり、熊野の押さえを命じられた。加藤は長島城に移り赤羽と同心して熊野の三鬼城を攻め取った。そのころ、新宮の堀内安房守(氏虎)が武威をたくましくして新宮城主となった。これは奥村彦次郎の子である。故に新宮、尾鷲、九鬼、木本らの熊野侍は一斉に蜂起して三鬼城を囲んだ。加藤は利が無く撤退して長島城に立て篭もった。新宮方は熊野衆の大勢をもって城を落とそうとした。伊勢侍も多数、長島城に篭城した。熊野勢は水陸双方から攻め寄せたので赤羽も寝返ったと言う。数ヶ月戦ったが熊野勢の武力に遂に長嶋は陥落した。伊勢侍が散々に逃げる中に藤方慶由の若輩の孫が居たが、味方から遅れて逃げた。敵は情けがあってこれを送ったと言う。慶由は怒って「何の面目があって逃げ帰ったか。また面目を失った」と言った。熊野山は元は国司の幕下にあった所であるので、具教卿が挙兵を進めたからこのように蜂起したのだ、と人々はこのように触れ回った。